■ 26
宮本さんとコーディさんははなしあいの末、今回の件はしかたない。とあきらめたらしい。かわりにもしこんど雑誌に取り上げられる際はもうすこし公のものではない雑記かもしくは、この手のジャンルがメインである雑誌にするということだった。
今回のことで少なからずスタッフのモチベーションは低いものだったけど、コーディさんに深く腰を折り謝罪されてしまうと、きっとコーディさんもよかれと思ったことだとわかっているからだれひとり悪態をついたり、顔に怒りを浮かべるひとはいなかった。もともとコーディさんにはみんなお世話になっている。自分でいくつかアルバイトしたなかでも待遇は抜群にいいし、ともに働くひともやさしく和気あいあいとしている。
コーディさんの失敗を咎められるはずなんてない。むしろ感謝ばかりしているから、みんなくちをそろえて気にしないでくださいとあたまをさげたままのコーディさんを宥めていた。
だけど、それは働く側の気持ちであり、常連客たちにはそうも思わないひともいるだろうということで、宮本さんは常連客のみに一定期間デザートを無料で提供することにしたらしい。そのことがあって、店の閉店時間をすぎてからの最後の仕事である清掃と閉め作業は、コーディさんと宮本さんがやってくれるということになった。
ふたりだって、朝からたいへんだったろうと清掃も閉め作業も請け負ってくれたことに少々うしろめさたさを感じたが、閉店とともに帰れるのはありがたかった。
過度増した痴漢行為にさすがにうんざりして、できれば徒歩で帰ろうかと考えていたから。
とはいえ、それはバイトの最中に思いついたことで徒歩で何分かかるのか、どの道のりで帰ればいいのは把握できていない。まあ、それはアパートに帰宅してからインターネットを調べるとして、徒歩より自転車のほうが効率がいいかもしれないとふらふら駅前の自転車屋さんの巡り自転車の値段を確認することにした。
今日は電車で帰るつもりだが、おそらくまだ混雑している時間帯。二十三時をすぎるころになれば帰宅ラッシュのひとあしも耐え、シートに座れるだろう。座っていれば、痴漢をされることはないし。
そう思いながら、いくつかの自転車に目星をつけていったものの、思いのほか時間がすぎるのは遅い。
まだ二十二時ちょっとすぎ。休日の勤務は忙しいと見越して出勤前はやや多めにカレーを皿に盛りつけ、一応のためかばんのなかには栄養食品もいくつか常備していたけど、腹はすくばかり。
街のいたるところに存在する飲食店、それからにおいに空腹が刺激されていく。
なるべくひとりでご飯を食べるときは、外食はしないで節約を試みているのだが、あと一時間この空腹に耐えられそうもない。おれは財布のなかみをチェックし、千円未満で満腹になれるお店を品定めをすることにした。
「ゆーうりくん」
「ひっ!」
なにを食べようかということだけに集中していたので、突然肩をたたかれ、悲鳴をあげてしまった。驚いたのは相手もいっしょだったようで「驚かせてごめんね」とすぐさま謝罪のことばをくちにしている。
「よ、吉田さん」
「ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど……。たまたま見かけたからこえをかけたみたんだ。もしかして、いまから夕食をたべるつもりだったの?」
「あ、はい。すみません。なに食べようかって考えてたらぼうっとしてたみたいで。お仕事おつかれさまです」
「有利くんもおつかれさま。なんかつかれたかおをしてるね。またお店で有利くんの人気が上昇しちゃったからかな」
くやしいなあ、と笑みを浮かべる吉田さんにおれは苦笑する。
「まさか。そんなことありえないですよ。ようやく店にも馴染んできたくらいなんですから。なんでも喫茶店が雑誌に載ったみたいでそれで興味を持ったお客さんがいつもの倍は来店してきたからつかれちゃったんです」
言うと吉田さんはうなずき「へえ、そうなんだ」と相づちをかえしてくれた。その様子におれはああ、自分はだんだんとうそが上手になっているんだなとひっそりと実感する。うそをつくとかおやこえからすぐにバレていたから。
それなりにうそがつけたほうが、対人関係はうまくいく
。けれど、実際こうして自然にうそがつけてしまう自分がちょっとだけイヤな大人になってしまったように思えた。
「ね、ぼくも夕食まだなんだ。一緒に食べない? ひとりで食べるよりもだれかと食べたほうがおいしいし」 誘われて、一瞬どうしようか迷うおれの手を吉田さんが握る。「もちろん、ぼくのおごり。ここらへんにおいしい居酒屋があるんだ。お酒飲めなくても十分たのしめるとおもう。あ、でもふだんお客としてあっているぼくとは仕事しているみたいでいやかな?」
「いや! そんなことないです! むしろ、痴漢にあったときはなしを聞いてくれたことすごくうれしかったし、防犯スプレーとかももらって。いやだなんてありえないです! っていうか、まだちゃんとお礼してないですね。すみません」
痴漢やウェラーさんのことであたまがいっぱいであんなに親身になってくれた吉田さんにありがとうとし言っていなかったことを思い出す。ほんとうだったらなかなかあえないとはいえ、菓子折りのひとつくらい渡すべきだ。
「いや、お礼とか気にしないでいいよ。有利くんのちからになれたらっていうぼくの勝手なものだし、だけどぼくが言っても、きみは気にするんでしょう? なら、ぼくといっしょに夕食食べてほしいな。それがお礼ってことで」
「えっ! でも、」
「いいから、いいから。ほら、行こう」
おれはちょっと強引に握られた手をひかれる。ここで手を振り払ったら、きっと吉田さんはいやな思いをするだろう。そう考えると、おれは吉田さんについていくことしかできなかった。
すこしまえを歩いてる吉田さんの背中、それから握られ誘導されるがままの自分は、四日まえのウェラーさんをどこか彷彿させる。
自分はきたない大人になってしまった。うまくうそもつけるようになってしまったし、吉田さんの好意を無碍にしたくないという気持ちとそれからおそらくまだおれのことを好いているのだろう吉田さんの気持ちを知っていながらも、甘えようとしている自分がひどくきたなくて情けなかった。
* * *
吉田さんにつれられてきたのは大通りからすこし離れた場所にある、会員制の居酒屋だった。外見はブティックになっていて「ここだよ」と案内されたとき驚いてしまった。そんなおれに吉田さんは「ここの二階。二階はちゃんとした居酒屋だから」と笑いながら説明してくれた。
「賑やかな居酒屋もいいけど、この時間帯だと混んでるしやっと席についても時間制限がつくと食べた気にならないんだよね」
たしかに、夜になると大手の居酒屋はどこも満席に近い状態で、長居はできない。おれもできれば終点近くに電車に乗りたいこともあって、吉田さんに同意する。
「でも、よくこんな場所知ってましたね。こんなところがあるなんてぜんぜんしらなかったです」
「ぼくも同僚に教えてもらって、それから通うようになったんだよ」
エレベーターに乗り込み、二階へとあがる。自動ドアが開くとそのまま店に入るタイプの店みたいだ。店全体が、黒で統一されていて、モダンな印象がある。案内をしてくれる店員も腰巻きエプロンだが、元気ハツラツとした感じはなく膝下まであるまるでバーテンダーような風貌と落ち着いた物腰で自分のしっている居酒屋とイメージはまったくなくて、ほんとうにここは居酒屋なのかと心配になる。が、カウンターにおかれている店の宣伝用の名刺には店名とちいさく居酒屋と記載されていてほっとした。
「ね、ちゃんとした居酒屋でしょ?」
おれが店を確認しているのがわかったのか、吉田さんがいい「ここは、飲んで暴れてっていう居酒屋じゃなくて、ゆっくり酒や食事を楽しむのをコンセプトにしているんだ」と教えてくれた。
「部屋はこちらになります。ご注文の際は、テーブルに行かれている液晶画面でご希望の品をクリックしてください」
言って、店員が礼儀正しく礼をすると部屋をあとにした。ふたり席用と言っていたが、それでもひろく感じられ、部屋は全部個室らしい。まるでホテルの通路を歩いているような錯覚を覚える。どこの部屋からも客のこえがしない。
「ほかの部屋から声が漏れませんね。しかもでかいテレビまで設置されてる」
「ああ。このテレビ。カラオケができるから、ぜんぶ部屋が防音になってるんだ。気になるなら壁に耳を当ててみるといいよ。となりの部屋でカラオケをしたらかすかに聞こえるかも」
言われて、おれは壁に耳をあてると吉田さんの言ったようにわずかだが、歌うこえが聞こえてきた。
「有利くんもなにか歌う? ここは最新のものがはいっているから、流行りの曲もたくさんはいってるよ」
「あ、いやいいです……。おれ流行りの歌とかしらないんで」
もっぱら歌うのは大好きな野球の応援歌か、アニソンばっかりだ。どちらも歌唱力は平均でオンチではないが、歌って盛り上がるようなものではない。何度か「有利くんの好きな歌でいいよ」と誘われたもののおれに歌う気がないのがわかったのかしつこい、と感じるほどは誘われることなく「なにを食べようか」という飯の話題へとうつっていった。
――それから、吉田さんおすすめの料理をテーブルにいっぱいに並べられそれらを食べ進めていく。おおよその料理が小皿に盛りつけられていることもあって、飽きることなくつぎつぎと平らげてしまった。「お酒飲む?」と魅力的な誘いにおもわず頷きそうになったがいま酒を飲んで酔ったら失態をさらすことになりそうでよこに首をふるいかわりにノンアルコールを吉田さんにお願いしたのだが、お腹がいっぱいになったからかやや眠くなってきた。
「有利くん、眠くなってきたの?」
「はい、ちょっとだけ……。あ、ここの支払いおれがするんで」
「いいよ。ぼくが誘ったんだからここはぼくが持つよ
それに、かりにも年上なんだしこのくらいは格好をつけさせて」
テーブルのすみにおかれた伝票に手をのばした手をつかまれる。でも、こんなに食べたのに……と言いかけて、止まってしまう。
「……ね?」
『……ね?』その一言が、ウェラーさんの口調に似ていたから。お願いをするときの言い方に。
『俺もたまには口調が崩れることもあるけどね。ユーリがらくにはなしてくれたらうれしいです』と冗談でデートと称してウェラーさんとテーマパークに行ったときのことがよみがえる。いやなくらい鮮明に。
「有利くん、どうしたの?」
「え?」
「……泣いてるじゃないか」
指摘されておれは自分の頬に手をすべらす。てのひらに濡れた感触。
「あれ? ほんとだ。……酒を飲んでないはずなんですが、酔っちゃったのかも。おれ、酔うと泣き上戸になるんで」
これ以上ここにいたら、言わなくてもいいことを口走ってしまいそうだ。おれはなんでもないように服のすそで頬の涙を拭い、ぎくしゃくした空気をはらおうと笑顔を浮かべてみたものの、吉田さんは笑ってくれない。
「……えーと、吉田さん?」
「痴漢にまたひどいことでもされた?」
「あの、」
「どうして、なにも言ってくれないの?」
矢次に問われて、はなしについていけない。
「これ以上は吉田さんに迷惑かけるわけにはいけないし、痴漢のことはそんなに気にしてないので……」
ほんとうは気にしている。けれど、これ以上関係のない吉田さんを巻きこむようなことはしたくなくて「痴漢は気にしていない」と答えた。泣いたあとでは言い訳にもならないのだが……と、続けて言おうとした途端吉田さんの様子があきらかにおかしくなった。
「吉田さん……?」
表情がない吉田さんのかお。このかおをおれは以前にもみたことがある。喫茶店で吉田さんがオムライスを渡して、おれを指定してくれたとき先約があるのでと断ったあのときとおなじかおをしている。
背筋に冷たいものが伝う。
なにか、いけないスイッチでも入れてしまったのだろうか。
「なんで気にしないの? けっこうひどいことされたんでしょ? 泣くほどのことをされたんだろう!」
「それは、そうですけど」
「あんなにいやそうな顔してたじゃないか!」
大声に身をおもわず身を竦めるも、吉田さんの興奮はおさまるどころかエスカレートしおれの肩を掴み、襟もとを乱暴にひっぱる。瞬間、吉田さんがとんでもないことをくちにした。
「――これ、ぼくがつけたキスマークじゃない」
と。
[
prev /
next ]