■ 23

時間通りに吉田さんが『KATHAEN』のドアを叩いた。
 宮本さんが指定時間を今回は二十分と設定してくれたこともあって吉田さんとの交流はあっという間に終了した。
 吉田さんは、やはり痴漢のことが気にかかっていたのか、『あれからどう?』とか『ちゃんと痴漢対策してる』ともっぱらはなしの中心は痴漢のことばかりだった。ときおり、恋愛のはなしも交えたがおれも吉田さんもあれからとくに発展したこともなかったのでさほど恋愛のはなしで盛り上がることはなかった。
 そうして、きっちり二十分経つと、吉田さんのほうから『もう終わりだね』と告げてくれたし、やっぱり自分や宮本さんが吉田さんに対して抱いていた懸念は思い過ごしであったのだと知る。
 吉田さんに促されるように、席をたてば「あ、ちょっと待って」とカバンのなかをさぐりとあるものを差し出してくれる。
「これは?」
「防犯スプレーだよ。もしものときを考えてこれを持ってて」
 まさか防犯スプレーを渡されるなんてつゆにも思っていなかったから、おれはびっくりしてしまった。
「もしものときって言われても……。対策するようなことでもないから大丈夫です。気持ちだけありがたく受け取っておきます」
 痴漢行為はそれこそ一回や二回というわけではないけどあのときは羞恥心があって、男を大きな声で咎めることはできなかったが、あれ以上になればおそらく堪忍袋の緒も切れて男の手を掴んで車両内で非難の声をあげることくらいできる。わざわざ、防犯スプレーを使用したりはしないと思う。
 おれはそう言ってみたものの、吉田さんは差し出す手を引っ込めようとはしなかった。
「このあいだも言ったけど、なにかあってからでは遅いんだよ。使わなくたっていい。気休め程度だと受け取ってくれたらうれしいんだ。もし、ユウコちゃんになにか危険な事態が起きたとしてそのときになにもできなかったとぼくが悔やみたくないから……ね、お願い」
「……う」
 おれは『お願い』ということばに弱い。しかも、急かすようにヨザックが「ユウコちゃん、村田さまがおまちですよ」と村田の座っているカウンターから声をかけてきたのでおれは吉田さんの差し出してくれた防犯スプレーを手に取った。
「……それじゃあ、いただきますね」
 もしかしたら吉田さんはわざわざおれのことを気遣って買ってくれたのかもしれないし……実際に使う機会はないだろうけど、お守りがわりに持っておいてもいいのかもしれない。
「受け取ってくれてありがとう。それからもし、なにかあったらぼくに言うんだよ。きみのちからになりたいから」
「はい、ありがとうございます」
 そうしておれは吉田さんにもらった防犯スプレーをスカートのポケットにしまい、村田とヨザックの待つカウンターへと戻った。吉田さんとのことはおおまかにヨザックが説明してくれていたらしい。いろいろと詮索されたけど、何度も念を押して吉田さんとはなんでもないことをいうと渋々ながらも村田は心配してくれた。
 そのうちに吉田さんも帰る時間になり、おれはほかのスタッフとそれを見送り、続くように村田も『KATHAEN』をあとにした。

* * *

「……なんか今日は疲れちゃったな」
 村田、宮本さんやヨザックに吉田さんのことで質問責めにされてしまい、今日は仕事をしているような気分ではなかった。こうなってしまったのは自分がまいてしまった種なのだからしかたがないことだとわかっているけど、それにしたってみんな心配しすぎなんじゃないかって思う。
 正直、あのときいちばん気が休まると感じたのは、吉田さんとの時間だった。吉田さんはまだおれのことを好きだと先日言ってたけどそういう素振りはみえなかったし、世吉田さんがはなしを振っていたというよりはおれがはなしをして、吉田さんはその聞き役だった。
 だからと言って吉田さんのことを恋愛感情で好きになることはないけど、もし叶うならいい友だちみたいにはなりたい。
 家に帰ったら、来週渡される台本の予習をしておかないと。
 ……一応、時間があれば原作を目をとおしたりしていたけど、以前より意欲的な行動はしていない。
 おれはカバンのなかに入っている一冊のノートのことを思い出す。もうあのノートに目を通さなくなったのは、ウェラーさんとのことがあってから。
 ウェラーさんの気持ちに応えることができなくても、ウェラーさんの住むマンションに行った日、ほかの言い方ができたらあのノートはもっとページが進んでいたのかもしれない。もっと、ウェラーさんとはなせていたのかもしれない。
 ……だから、後悔したって遅いって。
 あたまのなかでもうひとりのおれが言う。
 わかってる。後悔したってウェラーさんがもう一度おれを好きになることなんてないんだ。
 ウェラーさんには、かわいくてきれいな彼女がいる。たぶん、将来結婚する恋人が。
 自分に言い聞かせるたびに胸が痛くなる。
 おれはそっと心臓のあたりに手を押いて胸の痛みを紛らわせる。もう大丈夫だと思ったのに、このザマだ。
 電車のなかは帰路を急ぐひとで今日も満員だ。身動きひとつままならない電車内なのに、どうしてこんなに孤独を感じてしまうのだろう。
 これからさき、二度と恋いなんてできないような気さえしてくる。
『コンラッド』
 もうそんな風に彼を呼ぶことはないんだろうか。
『ユーリ』
 そうおれの名を呼んでくれた彼もまた『シブヤくん』とおれを呼ぶようになるのか。
「……っ」
 ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。
 まじで泣きそう。
 眼尻が熱くなり、なにかが喉からせりあがってくる。電車内でいい歳した大人が泣いてたらみんなどん引きだ。
 おれは下唇を噛んでどうにかこぼれてしまいそうな涙と嗚咽を堪える。ほかのことを考えよう。そうだ、今日は音響監督に褒められたんだっけ。おれのような新人が褒められることなんてめったにない。それにほかの事務所のマネージャーさんにも冗談なのかもしれないけど名刺も貰っちゃったし、今日は泣くような日じゃない。むしろ浮かれてもいい日なんだぞ、おれ。
 急速にマイナス思考へはしる思考回路をどうにかして切り替えようと必死になっていると、さらなる悲劇がおれを襲ってきた。
「……っとになんなんだよ……っ!」
 悪態を口内で転がす。
 また『痴漢』だ。
 傍若無人に痴漢の手はおれの尻を撫でまわしている。腹ただしい痴漢のおかげで涙も嗚咽もすぐに引っ込んだが、かわりに嫌悪感が込みあげてくる。
 と、ここでひとつの疑問が浮かび上がった。
 ……おれ今日、車両も乗車する時間もちがうのにって。
 車両や乗車時間が痴漢と重なっていたからいままで痴漢行為をされてたのにって思ったけど……もしかして、この男ほんとうにおれだけをターゲットにしているのか?
 そこまで考えてゾッと背筋が寒くなった。
 執拗に尻を撫でまわされる。しかもこのあいだより触り方は各段といやらしくて大胆だ。
 傷口に塩を塗られるような感覚におれは腹をたてる。どうして嫌なことは立て続けにおきるんだろう。いもしないと神を冒涜したからか、それとも願い事を言い過ぎたのか神社にお参りをしたというのにまるで効き目がない。自分の悲運を当たり散らして叫んでしまいたい衝動を必死に抑えておれは身をわずかに揺すった。車両を変えたことで安心してのもわるかった。車両の一角の隅に立ってしまったことで死角をつくってしまい、助けを求めようにも痴漢のからだに隠れておれの姿はみえないだろう。ぎゅうぎゅうの車両では、後ろを振り向くことさえままならないし、目の前は窓ではないから痴漢のかおも伺い知ることができない。
 吉田さんや村田たちには、本気でなにかあったら自分で対応できる、と言ったしおれ自身もそのつもりだったが、どうしてか声がでない。抵抗さえも弱々しい。あれはただの虚栄であったと自分で理解する。情けない。恥ずかしい。バカみたいだおれは。ぐるぐると瞑想して意識を一瞬飛ばしてしまう。途端に尻を撫でていた痴漢の手がその隙をついてきた。
「……ひっ」
 痴漢がさらに密着してきたのだ。しかもこのまえ同様、撫でまわす手を払おうとしていた手は男の手に拘束されしまう。それだけではない。より一層密着したことでおれの背中とうしろにいる痴漢の上半身がくっついているから、捕まれた手がひっぱり出せない。
 痴漢の身長は高いのだろう。拘束された手はちょうど男の股間部分にあたった。やはりと思いたくないが股間はズボンのうえからでもわかるほど勃起していて、気が遠くなりそうだ。
 おれの首筋にあたりに痴漢の頭部があるらしい。右耳には絶えず荒い息が聞こえ――ぴちゃ。
「――っ!!」
 もう声になんてならなかった。むしろ声になってくれたらよかったのに。
 おれは目を見開くことしかできなかった。いま、体中の産毛が逆立っている。生暖かい舌がおれの首筋を舐めたのだ。そして男が動揺しているおれを見て笑っている。
 キモチワルイ、キモチワルイ……っ!
 怒りとかそういうものは湧きあがらない。ただただ気持ち悪くて吐き気がする。いますぐ吐いてしまいそうなのに、手は固定されているから戦慄いてるくちを抑えられない。
 今回はほんとうにやばいかもしれない。
 どうにかしないと――ふいに、今日吉田さんに防犯スプレーをもらったことを思い出すが、それがいまどこにあるのかを思いかえしさらにおれは絶望する。
 防犯スプレーはトートバックのなかだ。両手が固定されては出せない。
 もっと、危機感を持つべきだった。ポケットのなかに入れてれば車内だし噴射できないにしても見せつけることでどうにか痴漢を退治できたかもしれないのに。
 痴漢の行為がさらにエスカレートしていく。片方の手と上半身でおれの両手をホールドしながら空いているもう片方が尻をはなれ、おれのまえへとあらわれ、胸のあたりを撫でまわりはじめた。そうして左胸の乳首あたりをくるくるとさわる。
 こいつ絶対あたまがおかしい。
 押さえつけられている手にはごりごりと勃起したものが擦りつけられておれのあたまのほうがおかしくなってしまいそうだ。
 未だ痴漢はべろべろとまるで犬のようにおれのうなじを舐めている。
 もうさすがにこの状況に耐えきれなくなっておれは震える拳をぎゅっと握りしめて息を吸う。
「っこの、ぃ――んぅっ!?」
 いい加減にしろ! と、張りあげようとした声は胸をまさぐっていた男の手で抑えられしまった。
 そしてべろべろと舐めていた舌が離れたかと思うとチクリ、とした痛みが首筋から走りドン! と勢いよく背中を押された。うしろを振りかえろうとしたがちょうどどこかのホームに到着したようで、おれのからだは人の波に流されて波に逆らうこともできないまま、そのホームへと押し出され痴漢を乗せた電車が走りだしていく。
「……なんで、おれなんだよっ!」
 おれの声で行き交うひとがこちらみている。はずかしさなんてなかった。
 おれは、ばかみたいだ。
 いまさらこんなところで怒りを叫んだこと。おおくのひとから好奇の目で晒されてもはずかしくないことが、すごく情けない。
 こんな行動ができるなら、さっきやればよかった。
 もう足に力が入らなくてホームに膝をつける。
 おれは……駅員さんに声を掛けられるまでその場から動くことができなかった。

* * *

 どうやらホームへと突き飛ばされた駅はぐうぜんにもおれが降りる駅だった。
 足取り重く改札口を抜け、夜空をみればどんよりとした雲が重くたちこめている。もしかしたら通り雨が降り出すかもしれない。
 いまにも降りだそうだと思ったが、傘を買う気にもなれずそのままゆっくりと家路へと向かう。駅構内のトイレでまた耐えきれず嘔吐したけどまだ腹のあたりがムカムカする。これから家に帰ったら、一通り原作に目をとおしておきたかったが、今日は無理な気がする。
 だめだ、きもちがわるい……。
 あの感触が消えない。思い出したくもないのにあたまなかは絶えず、さきほどの映像が鮮明にながれ同時に感触がからだじゅうを這う。
 ようやく大通りまで歩いてきたものの、通常なら気にもならない人ゴミやあちらこちらから聞こえる騒音でまた吐き気がこみ上げてくる。雲もずっと多くなってきているからはやく帰らないと。そうおもうも足取りはおぼつかない。
 どこかで一旦休んだほうがいいかもしれない。
 休むついでにファミレスにでもはいり、このまま夕食をとってしまおう。
 おれはようやく俯きがちであったかおをあげようとしたとき、高校生集団のひとりと肩をぶつけてしまった。幸いにも不良グループではないようで「すみません」とすぐに謝られてしまった。
「いや、ごめん。おれの前方不注意がいけないんだ」
 外観はいまどきの流行りなのかみんな金髪や茶に染めなかには両耳におどろくほどピアスを開けている子もいるが、人は見かけで判断してはいけないということばがあるようにみんないい子のようだ。
「きみ、中学生? 顔色わるいからはやめにかえったほうがいいよ」と心配までしてくれた。
 もともと童顔であること自負していたが、まさか中学生にみられるなんて……。内心がっくり肩をおとしたけどいまのテンションでは訂正を述べる気力もない。ここでもう二十歳超えてますと言っても面白ネタを提供するだけだ。
 おれは、どうにかこれ以上迷惑をかけないよう必死に愛想笑いを浮かべ、この場をあとにしようとしたときふいに、肩を抱かれてびっくりする。
「――俺のツレがどうかしましたか?」
「え?」
 驚いたのはおれだけじゃなく、高校生たちもだ。おれを含めた視線が一気に肩を抱く声の主に向けられる。
 まさか、こんなところで出会うなんて。
「……ウェラーさん?」
 驚いて状況がよく飲み込めないまま、かすれ声で男の名を無意識に呟けばすっと、顔は動かさずに目線だけをこちらによこす。それはおれがいままでみたことがないほど、冷然なものでおれは思わずツバを飲み込む。
 でもおれと目があったのは数秒で、ウェラーさんの視線は目の前にいる高校生たちに向けられた。このなかで背の高いと思っていた高校生よりもウェラーさんは一回りも身長が高く、きれいな顔だちをしているためかなにも言わずとも睨まれればまるで、窮地に追い込まれたねずみのように彼らは肩をすくませた。
「あ、あの……おれがわるいんです。気分がわるくてまえをよく見てなかったから肩ぶつけちゃって。それで、彼らは心配してくれただけなんです」
 おそらくだけど、一見不良集団にしか見えない高校生たちときもちがわるくて顔色のわるいおれをみてウェラーさんは誤解しているのかもしれない。そうおもい、おずおずと説明をしてみたもののウェラーさんは表情ひとつ変えず「そうですか」と述べるだけだった。
 まるでとりつく島もない。
 でも、状況は理解してくれたようでウェラーさんは「すみませんでした」と軽く頭をさげるとおれの肩を掴んだまま高校生たちのよこを強引にすり抜けていく。
 わざわざ心配してくれたのに、こんな状況になって気分を害してしまったら申し訳ない。おれは何度もぺこぺこと頭をさげ「ごめんね。ありがとう」と繰り返し謝罪とお礼を述べながら、ふたたび大通りを歩いていく。
「ええと、ウェラーさん……さ、さっきはありがとうございました。それからすみませんでした」
「なぜ、謝るんです?」
 こちらを見もしないで、ウェラーさんはそっけなく返答する。おれのなかにあるウェラーさんのイメージは穏やかでやさしくていつも笑顔を浮かべている。
 だれだって、怒ることはある。当然のことなんだけど、それでもいままでのイメージが強くておれは恐縮してしまう。
「それは……誤解を生むような行動をみせてしまったから、です」
 高校生たちもわるくないけど、ウェラーさんだってわるくない。だれがわるいのかといえば考えることなく『おれ』の失態だ。
「っていうか、ウェラーさんどこに行くんですか?」
 ウェラーさんを家に招いたことはないけど、この街のどこら辺に住んでいるのかは知っているはずだ。もうとうに家に向かう道はとおりすぎている。
「あなたの家までもうすこし時間かかるでしょう。顔色もわるいし、もう雨が降ってきそうだから雨宿りしてからにしましょう。」
 おれの有無も聞かず、言うだけ言うとウェラーさんは見慣れた路地を曲がる。このさきにあるのは彼の兄であるグウェンダルが運営している『Charlotte』。
 でも『Charlotte』のドアには臨時休業と書かれた札がかかってる。このお店は、趣味で運営していると言っていたしたまにはこうして突然休む日もあるのかもしれない。たぶんウェラーさんにとっても臨時休業というのは考えてみなかったことだとおもう。
 どうするんだろう。閉まってるし、このまま帰してくれるんだろうか。と、おれはおもったがウェラーさんの足は立ち止まることなく『Charlotte』の裏口へと進む。レトロな外観だけどセキュリティーはいまどきのカードキーシステムらしい。財布から店名の名前が記載された青色のカードを差し込むとロックのはずれた音がした。
「さ、どうぞ」
「……失礼、します」
 すごく帰りたい。でも、うしろにはウェラーさんが立っているのでそれはかなわない。
 おれはふたたびしたを向きながら『Charlotte』の店内に足を踏み入れた。


[ prev / next ]
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -