■ 18

 罪悪感に苛まれながら、休憩時間ぎりぎりでトイレで熱を処理したあとは賢者タイムに突入したからか、さきほどのように下肢に熱があつまることはなくなった。
 いまおもえば、あんなにも熱があがってしまったのはウェラーさんの技量ということもあるが、もうひとつの理由として今回収録に使用されたマイクがダミーヘッドマイクだったいうこともあったのかもしれない。
 ダミーヘッドマイクというのはいわゆる立体音響型マイクのことでふだん使用されるマイクとは違い音が3D化しているのだ。通常のマイクで収録されたCDをイヤホンやヘッドホンをとおすと左右からの音を聴き、立体感はないのだが、このダミーヘッドマイクで収録されるもの前後左右から音が耳を刺激するのだ。目を閉じればすぐそばでそのひとがほんとうにいるかのようなリアルさがダミーヘッドマイクの特徴で、よく乙女系CDで使用されていることをおれはすっかり忘れていた。
 ダミーヘッドマイクはそれこそこのようなCDでしか使用されないのもあって、事務所からどう使用されるのか勉強するためにも今回ウェラーさんの収録現場を見学してこいと提案したのかもしれない。
 しかし、ウェラーさんになにか言われるじゃないかとかいろいろといらないことばかり考え、挙げ句のはてにはトイレに駆け込むしまつ。しかもダミーヘッドマイクの特徴ではなく、そのマイクをとおして耳に届くウェラーさんの声に魅了されているのだから、これではなんのために見学をしてきえいるのかもわからない。
「……はあ」
 無意識にため息がでる。
 自分の行動がひどすぎて心なしか頭痛さえしているような気がする。帰りに薬局へより頭痛薬を買っておこう。
「ユーリさん、休憩から戻ってきてから顔色が悪いけど、大丈夫ですか?」
「え? あ、はい。だいじょうぶです」
 ぜんぜんだいじょうぶではないが、自分でまいたどうしようもないことで北島さんに気遣ってもらうのはすごく申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 おれはぎこちなく笑うと、北島さんから目をそらして収録をしているウェラーさんのうしろすがたをみつめ無理やり会話を終了させたのだった。

 それから一時間弱かかった乙女系CDの収録も終了。
 帰りの挨拶まわりもひととおり済ませ、あとは今回の主役であるウェラーさんへと挨拶に向かう。
「ウェラーさん、おつかれさまでした……っ」
「ユーリくんもおつかれさま。体調のほうはだいじょうぶですか? あいだの休憩中すがたがみえなくなったと思ったら顔色が悪くなっていたので心配しました」
 数日前、あんなことがあったというのに、ウェラーさんはおれの体調を気遣ってくれる。彼はほんとうに大人だ。おれは自分のことだけでせいいっぱい。
「すみません、気を使わせてしまって……でも、だいじょうぶですから。今日はたいへん勉強になりました」
「いえ、こちらこそ差し入れをありがとう。ユーリくんの役にたてていればなによりです」
「はは……まだ、おれなんて乙女系CDに出演できるような技術はないですから。でも、ダミーヘッドマイクの使った収録をみたのははじめてだったので、すごく興味がわきました!」
 もちろん興味が湧いたのは事実だが、あたまのなかではウェラーさんが音響監督とはなしていた会話を思い出していた。
 ……おれ、ほんとうにちゃんとウェラーさんに告白の返事をしてないけどこのままでいいのかな。
 ウェラーさんは『振られた』って言っていたし、自己完結が済んでいる。だから、いまさらはなしを蒸し返して彼の傷口を抉るようなことはしないほうがいいのかもしれない。
 あの一件はもう過去のこととして、いままでのようにこうして先輩後輩の関係で交流ができたらいいのだろう。よく聞く大人の恋愛事情にそんなものだ。互いあった感情をゆっくりと消化してそのうち『ああいうこともあったね』と笑い話にしたりして。でもいまのおれにはまだそのような振る舞いができるほど、恋愛経験もなければ、大人にもなれない。
 あのときは突然の告白に衝撃を受けて、ウェラーさんのはなしをぜんぶ聞き入れてなかったと思うし、おれもおれで彼の発言にカッとして、勝手に完結させていまったから……こどもの勝手な言い分かもしれないができれば相互がすっきりとしてはなしを終わらせたい。
 はなしを切り出すならいまがチャンスだ。
 そう思い「あの……っ」とウェラーさんに声をかけたことばは彼のポケットに入っていた携帯電話でかき消され、ウェラーさんは着信相手の名前を確認すると「ちょっとごめんね」とおれに声をかけすこしはなれた場所で電話に出た。内容をよく聞きとることはできなかったが、どうやら誰かがウェラーさんのことを待っているようだ。
「すみません、ユーリくん。このあと用事があって、そろそろ行かないと……。それとなにか言いかけていたけど、なんですか?」
「い、いえ。なんでもないです。たいしたはなしじゃないですから気にしないでください」
 こういのは、双方の時間のあうときにしたほうがいいのかもしれない。それはただのいいわけなんじゃないかとも思ったが、おれははなしを切り出すのをやめた。
「そうですか? それでは、ユーリくん。おつかれさま」
「おつかれさまです」
 今日は、言うべきタイミングではなかったんだ。と、おれは自分に言い聞かせて帰るウェラーさんの背中を見送ったのだった。

* * *

 今日は喫茶店でのアルバイトもないので、おれはスタジオ周辺をすこし散策しながら家に帰ることにした。あまりこのスタジオには行く機会がないので、この街のこともよく知らない。なので来るたびに時間があれば散策している。
 自分の住んでいる場所は、遊ぶ場所がおおく見かけるひとも学生さんがメインだがのこの街はどちらかというとおしゃれさんはおおいのか、個性的な雑貨店やブラントの支店が立ち並んでいる。
 店のショーウィンドウにはおれでは到底買えない値段の記載されたバッグや洋服、それからアクセサリーがきらきらと輝いている。それらを見ながら適当に歩いていると、とある高級ジュエリーショップでおれの足が止まった。もっと正確にいえばジュエリーショップではなくその店内にいた人物をみて、足が止まったのだ。
「……ウェラー、さん?」
 店内にいたのは、さきほどわかれたばかりのウェラーさんのすがただった。
 ウェラーさんはひとりではなく、彼のとなりには肩ほどまで伸びて毛先がやわらかくカールしている栗色の髪が特徴的なきれいな女性。ふたりは熱心にネックレスや指輪をみている。寄りそうように彼らは真剣にジュエリーを選んで、ときおり顔を見合せて笑っている。
 ジュエリーボックスのなかから気になるものがあったのか、ウェラーさんが店員を呼び、彼が指をさしたものを手にとった。
「あ、」
 店員がジュエリーボックスのなかから取り出したのは指輪だった。ウェラーさんはそれを受け取ると目を細めてとなりにいる女性の左手を手にとり――……。
 おれは最後までふたりを見ていることができなかった。見なくても、わかる。そして察する。
 ウェラーさんはあの女性に手にとった指輪を左手の薬指にはめて、あの女性はウェラーさんの新しい彼女だってこと。恋愛ごとに疎いおれだけど、すぐに悟った。
 もうウェラーさんは完全に吹っ切れている。おれだけが、あの告白を気にしているんだ。
 それからいまさら気がついたことがもうひとつある。
 おれはたぶん……ウェラーさんのことが好きだったんだ。そうじゃなきゃ、こんなに胸が痛くなんてならないし、泣いたりなんてしないと思う。
「気がつくのがおそいっつーの……」
 いつからおれウェラーさんのこと好きだったんだろう。そんなことがわかっても、もう意味がないのに考えてしまう。
「……帰ろ」
 街なかでひとり、大の大人が泣いている滑稽なすがたをこれ以上さらしたくない。
 おれは来たみちを戻りながら、でもこれでよかったのかもしれないと自分に言い聞かせた。
 ウェラーさんにはああいうきれいで知的そうな女性と付き合うほうがお似合いなのだ。おれみたいなどこでもいるような平凡な男にはもったいない。それにもし、おれとウェラーさんが付きあいはじめたとしても、結局はこういう展開になっていたのだろうと思う

 喉をまもるために日々、飲んでいた水があふれ出すように目を刺激する。ハンカチをカバンから出すよりもはやくつぎからつぎへと涙があふれてくるのでハンカチのかわりに涙をぬぐっていた服の両そではもうびしょびしょだ。
 ときおりすれ違うひとのおれの顔を窺うような視線を感じながらもそれを無視してずんずんとしたを向いたまま歩いて行く。
 きっと、明日は目が腫れているかもしれない。明日はアルバイトがあるのにどうしよう。薬局で目を冷やすものを買っておいたほうがいいのかもしれない。本来だったら買う必要もないものでお金を消費してしまうことになろうとは。
 ウェラーさんは大人だからこんな風に泣いたりなどしないのだろう。
 恋、かもしれないと思った矢先に失恋してばかみたいに路上で泣いてる自分は今後このさき、恋をしたりできるのだろうか。
 途方にくれていると、ズボンのポケットに入れていた携帯電話のふるえた。
 ポケットから携帯電話をとりだして確認する。増田からの着信だった。
「もしもし?」
 こんな状態で出るのはどうなのだろうと思ったが、日ごろの癖というのは怖いものだ。と無意識に通話ボタンを押してしまってから後悔する。
『渋谷、今日ひま? ヒマならオレん家来いよ。差し入れですげー美味しそうなモンいっぱいもらったからさ』
 うしろに遠藤もいるのだろう。背後から『絶対こいよなー!』と遠藤の声がする。いまの自分のテンションにはふたりのあかるい声がすごく胸に刺さり、また目頭があつくなっておもわず鼻をすすると『……どうかしたのか?』と増田が尋ねた。
「ごめん、風邪でもひいたのかも……」
 だから今日はわるいけど行けない、そう続けるはずだったことばは増田の声に重なりかき消された。
『それだったらなおさら来いよ! 風邪っぴきには精をつくもんを食べたほうがいいんだって!』
「いや、でもっ」
『あ、それと奇数より偶数のほうがメンツのバランスもいいだろ? もうひとり渋谷、友達連れてきてね。できれば同性愛に理解あるやつ。えんちゃん、オフだとそういうところオープンなところがあるからさ』
「え! ちょっと増田! だからおれはっ」
『それじゃーそういうことで! 十七時には来れるようにしとけよ!』
 増田は言うだけ言うとすぐに電話を切ってしまった。残ったのはあ然としたおれと回線が切れた音だけ。
 ……なんがかおれの周り、最近強引になったひとがおおい気がするな。
 増田の強引と明るさにいつの間にか涙が引っ込んでいた。
「……おれってこんなに弱い人間だったんだな」
 いつも自分で判断をしていた。それがはたからみて正しいのかわるいのかそんなことは置いといて、自分のなかで筋がとおっていたとおもうことならば後悔なんかしたことがない。……大好きだった野球を辞めたときだって長い時間引きずっていたけど、だれかに弱音を聞いてほしいと思ったこといや、考えたことすらなかった。
 恋愛というのはむずかしい。うまくいかないことばかりだ。
 野球が好き、食べ物が好きとだれかを好きになる好きはぜんぜんちがう。
 おれは携帯電話のアドレス帳から目的の名前をさがすと電話をかけてみる。何度かのコールのあと通話がつながった。
「もしもし、村田? あのさ……」
 おれは村田を誘うことにした。彼なら高校時代学校はちがっていたがおれと増田、遠藤と四人で遊んだこともあったし、同性愛に関しても理解があると言っていた。
 詳しいはなしはあとではなすとして、おれは増田と遠藤に夕食を誘われたことをいうと、ちょうど村田も仕事はもう終わったらしく、すぐに了解してくれた。
『まだ時間あるし、いまから渋谷のいるところにいくよ。いま駅内にいるし』
 言われておれはすぐに頷こうとして、この街にウェラーさんがいることを思い出した。……それから、彼女もいることも。鉢合わせする確率なんてかなり低いけどゼロではない。
 もし、ばったり会ってしまったらおれはウェラーさんになんていえばわからない。やっと引っこんだ涙がまたこぼれてしまうかもしれない。
『……渋谷、どうかした?』
「ごめん、ちょっと考えごとしてた。おれ、増田の家がどこらへんにあるのか聞き忘れちゃったからさ、一回連絡とってからすぐに村田に連絡するよ。ほら村田がいる駅のほうが近かったら二度デマになるし」
『まあ、それもそうかもしれないね。じゃあきみからの連絡を待つことにするよ。あんまり遅い連絡だとドタキャンしちゃうからね』
「はいはい、わかりました。それじゃ、いまから増田に連絡とってみるからまたあとで」
 電話を切り、おれはすぐさま増田に電話をかけなおす。
 どうか、増田と遠藤の家がこの街でないことを祈りながら……。

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