■ 17

あのまさかの展開があった一夜からつぎの日。おれはSINMA事務所へと赴いていた。
 受けたもしくは新たなオーディションの通知かと思ったが事務員の高橋さんにはなしを聞いてみるとそういうことではなかった。
『ほら定期的にSINMA事務所とフェアリーローズさんで乙女系CD出してるでしょ? 雑誌付録のドラマCDのウケがよかったからもしかしたらユーリくんも今後参加させてもらえるかもしれないから、今回見学させてもらえるようにしたのよ』
 乙女系CDとは、男性声優メインの一般女性向けCDのことだ。朗読であったり囁き、語りかけその他企画等のCDで通常のドラマCDと異なるのは、メインである主人公がCDを聴くひとということ。
 高橋さんは今後参加させてもらえるかも……と言ってくれたが、まだまだ知名度の低いおれにはむずかしいと思う。乙女系CDはその内容もさることながら出演している声優を選んで購入する場合のほうが多い。
 まあ、今後のがんばり次第で参加させてもらえるかも、というのがただしいのだろう。
 見学に関しては、はなしが通っているとのことなのでおれは収録が行われるスタジオへと向かった。
 その足取りがちょっとばかり重いのは、出演する声優さんがウェラーさんだからだろう。ドラマCDではないから一緒にアフレコするわけではないから、あいさつはするがそこまで気まずい雰囲気になることはないだろうし、あれはあれ。仕事は仕事で切り替えていかないと。
 
 ――そうしておれがスタジオに到着すると、すでにウェラーさんがテスト収録をしているようだった。
 窓ガラスを隔てた向こう側にウェラーさんがみえる。
「……あなたがユーリくん?」
 名を呼ばれふりかえると、スーツを来た女性が会釈をする。
「あ、はい。SINMA事務所所属のユーリです。今回はフェアリーローズさんのご厚意で収録を見学させていただきにきました。よろしくお願いします」
「初めましてフェアリーローズの北島玲奈です。今回のCD担当させていただいています」
 慣れたように名刺ケースから名刺を取り出し手渡してくれた。
「SINMA事務所の方々にはたいへんお世話になっています。とくにSINMA事務所の看板声優、ウェラーさんが出演してくださると売り上げも倍。わたしも彼のファンのひとりなの。今回の『ドキドキ☆となりのお兄さんのラブレッスン』もとてもたのしみだわ」
 あからさまなタイトルに思わず愛想笑いも引きつってしまう。
「ど、どんな内容でしたっけ?」
「ええとね。設定は高校生主人公の家に住んでいるひとり暮らしの大学生。ちいさいときには一緒に遊んでいたけど、年を重ねるにつれてだんだんと互いに距離ができ、主人公はひそやかにとなりのお兄さんに恋心を抱くようになる。そしてある日ひょんなことからお兄ちゃんが家庭教師をしてくれるということになって……! っていう壮大なる萌え詰まった内容よ!」
 北島さん。説明をするにつれ徐々に興奮してきたのか最後には拳を天に突きあげている。おれが思っていた以上に乙女系なひとだったようだ。
 唖然としているおれを見て北島さんは我にかえったのかそそくさと突きあげていた拳をおろすとコホン、と咳払いをした。
「ごめんなさい。ちょっと興奮してしまったわ。まあ、そは置いといて高橋さんにはなしは聞いたと思いますがユーリさんにもこの乙女系CDシリーズに出演させていただくかもしれないので、よろしくお願いしますね。ドラマCDも視聴させてもらいました。とってもすてきな声でしたよ」
「あ、ありがとうございます」
 お世辞かもしれないけど、やっぱりこうして聴いてもらい感想をもらえるとかなりうれしい。
「ユーリさんの今後に期待しています。あ、そういえばSINMA事務所の高橋さんに聞いたんだけどさいきんウェラーさん調子わるいって言ってたけどウェラーさんになにかあったの?」
 なにか、とは十中八九あの告白のことだと思うけどそんなことを北島さんにいえるはずもなくおれは「よくわからないです」としか答えられなかった。
「おれ同じ事務所ですがウェラーさんはなす機会なんてめったにないので」
「ふぅん、そっか。ウェラーさんあちこちひっぱりだこだもんねえ。……あ、リハーサル終わったみたいよ。はい、これ台本ね」
「ありがとうございます」
 おれは台本を受け取り、北島さんのとなりに座る。
「そうそう。主人公がとなりのお兄さんにひっそり恋心を抱いているように、お兄さんもまた主人公に実は片思いをしてるっていう設定なんだけど、実際ウェラーさんに片思いされたらなあって思っちゃいますよねえ。声も性格もルックスもぜーんぶ一級品なんですもの」
「そうですね……」
 もしおれが女の子だったら、王子様のような彼に恋をしていたのかもしれない。
 いやいや待て待て。なんだよ。それじゃあ自分が女の子だったらウェラーさんの告白にオーケーしてたかもしれないみたいな思考。
「あ、」
「……どうしたの、ユーリさん」
「いえ。なんでもないです……」
 まえを向いていたはずのウェラーさんが、いつのまにかこちらを見ていたのだ。
 目があった瞬間になんでもないように目をそらされたけどたったその数秒でおれの心臓はばかみたいに高くはねた。

 ――それから順調に乙女系CDの収録が始まった。
 さすがは大御所も一目置くSINMA事務所の看板声優ウェラーさん。北島さんや村田が噂で『調子がわるい』と言っていたが、大きなミスや音響監督から注意を受けることもなく収録をこなしていく。
 そうして、問題を起こすこともなく何回目かの休憩がはいり、おれはすぐさま席から立ち上がった。
「ユーリさん、どうかしました?」
「あ、いえ……ちょっとお手洗いに」
 尋ねる北島さんに軽く会釈をして、おれは収録部屋から出るとトイレへと向かいだれもいないことを確認すると一番奥の個室へと入る。
「……問題なのはおれだっつーの」
 おれはかおを両手で覆いながら、へなへなと便座に座りこんだ。
 おれってまじバカ。かなりのバカ。
「おれのからだどうなっちゃんだろう……」
 おそるおそるおれはかおを覆っていた両手をはずし、受け止めたくない現実を目にする。
 こんなことを想定なんてしていなかったが、今日は丈の長いパーカーを着てきてよかった。
 ゆるゆるとパーカーのすそをもちあげると、そこにはおれのさいきんの悩みなどおかまいなしにズボンを押し上げ立ち上がっている陰部があった。
 まさか、ウェラーさんの声を聞いてまた勃起してしまうなんておれのからだは恥ずかしいものになってしまったのだろう。
 収録当初は、平然と聴けていたのだ。それこそ村田が言ってくれたように仕事は仕事で割り切り、ウェラーさんから技術を学ぼうとノートにメモをとってくらいに。だけど、トラックと物語が進むにつれて彼の演じている役が付録CDの休憩のときや疑似デートをしていたときのウェラーさんにぽつぽつと重なっていって――気がついたときには下肢があつくなっていた。
 おれはどこまで変態になってしまったのだろう。
 いつのまにか、おれはCDの名もない主人公に自分をあてはめていてウェラーさんのこえを聴いてしまっていた。彼はまえを向いてときに台本に目をとおし、おれではなく全国にいるファンのためにこえを届けている。それはあたり前のことで『あのときの声に似ている』とか『おれの耳元で囁くときとまったく同じではないか』と思いときおり胸があつくなったり切なく感じてしまったりとおれは被害妄想もはだはだしいことを思っていたのだ。
 仕事とプライベートの切り替えができない自分がいやになる。
 そう自己嫌悪にひたるあいだも、おれの陰茎は萎えることはなく、おれは舌うちを鳴らしてズボンのファスナーをおずおずとさげた。パーカーの丈が長く勃起しているようには一見みえないとしても勃起したままふたたび部屋にはいるような勇気は自分にはない。
 どうにかして、この短い休憩時間に情けない自分の下肢を慰めないと……。
 周囲の音や気配に耳をすましながら下着から陰茎を取り出す。そこはゆるく勃ちあがっていておれは目をつぶり、ゆっくりと右手を絡めた。
 ……神聖なるスタジオでおれ、まじでなにをやってるんだろう。
 上下に扱いていくと、先走りの量が増え指についた体液が手のひら全体へ広がって慰める手の動きと快感が増していく。そうして徐々に陰茎は硬度を増し、自然と荒くなる息と快感から洩れる喘ぎ声をおれは必死に噛み殺して、早急に機械的動作で射精を促す。
 しかし焦りからか、なかなか射精までの高見までのぼりつめることができない。
 やばい。こんなことで遅れて行くことなんてできない。
 やきもきしていると、だれかがトイレにはいってきた。
「……っ」
 きたのは、ウェラーさんと音響監督。たぶん、今回の乙女系CDについてはなしているのだろう。談笑をしている。男子トイレには個室がふたつあり、通常使用する立ちトイレより距離があるし、ふだん使用しないおれは奥の個室にいるから、使っているかわからないと思うけど、おれは思わず慰めていた右手の動きを止めた。
「ウェラーさん、以前収録したときより今回のものはリアリティがあったねえ。とくにさっきのトラック。主人公に思いを寄せている感じが。夜の帝王と呼ばれるきみも恋しちゃってるの?」
 音響監督が好奇心を含んだ声で尋ねる。
「夜の帝王とかやめてくださいよ。まるで俺が夜遊びにふけってるように聞こえるじゃないですか。あくまでもあのあだ名はBLドラマCDで攻めの声を多く担当させてもらってるだけなんですから」
 言ってウェラーさんが笑う。
 音響監督が言うようにウェラーさんはBL業界では攻めの役が多くそのことから夜の帝王というあだ名がついている。
「でもさ、よく酒の席でBL関係のはなしになるときみの話題になったりして男でもあれは惚れちゃうねっつーはなしになるよ。実際、男女関係なく告白されるそうじゃないか、ウェラーさん」
「好きになってもらえるのはうれしいですけど、みんな俺に夢を見すぎて幻滅するのがパターンですから」
「まあモデル並のルックスのウェラーさんじゃ、夢をみないほうがおかしいって。で、どうなの?」
「どうなの、というのは?」
 ウェラーさんが聞き返すと音響監督は「だから好きなひとがいるのかってことだよ」とじれたようにかえす。
 盗み聞きをするつもりはまったくないが、先走りのついた手で耳をふさぐこともできずおれは情けない格好のままひたすら息を潜めた。
「……好きなひとはいましたね」
 数秒の間のあと、ウェラーさんが自嘲混じりの声音で答えた。
「いました……ってことは振られたの? ありえないだろう。きみが振られるなんて」
 音響監督が驚いたようにこえをこぼす。
「だからみなさんは俺のことを買いかぶりすぎなんですよ。俺はひどい男ですから、相手の気持ちも考えずに動いていましたから、いま思うと振られて当然なことをしたと反省しています」
「なに? ホテルにでも連れ込んだのか?」
「そんなことはしていませんが……まあ、似たようなものかもしれませんね」
「恋をすると盲目になるっていうしなあ。オレも何度も盲目になって相手を怒らせてきたことやら……ってトイレでこんな世間話するのはやめようか。まだ時間あるから部屋に戻ってしよう」
「それもそうですね」
 時間にすればそれこそ五分とないみじかいものだったが、それがおれには何十分とながいものに感じた。ドアが閉まる音がする。ふたりがトイレから出たらしい。おれはほっと息をはき、それからウェラーさんと音響監督のやりとりに後ろめたさを覚える。
 ヨザックと村田のはなしを聞いて自分でちゃんと考えれば、どう考えてもウェラーさんはわるくないのだ。わるいのは思わせぶりな態度をしてきていた自分。
 そして、ちゃんとウェラーさんに断りの返事をしようと思っていたがその必要はなかったようだ。
 ウェラーさんは『好きなひとはいましたね』と過去系で言い『振られた』ともくちにしていた。
 じゃあ、いままで散々悩んでいたことともおさらば。もう悩む必要はないはずなのに、おれの胸はなぜか以前よりも痛みがひどくなっている。
 しかもばかみたいにいまだに陰茎は勃起したままだ。
 おれは自分にどれだけ幻滅すればいいのだろう。
 いっそこんなどうしようもないこんなもの切ってしまいたい。と思いながらも思考と矛盾して快感を得たいからだは右手に命令をくだし、ふたたび陰茎を慰めていく。
「……どんだけ、矛盾してんだよ。おれは」
 そうして手のひらにべったりとついた白濁にどうにもならない悪態をついた。

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