■ 09
「お、おれは……なんてことをしたんだ!」
あたまがおかしくなったとしか言いようがない。白いライオンテーマパークで『疑似デート』あくまでも資料探しの一貫として行ったはずだったのに、なんでウェラーさんと観覧車でキスをしたんだろう。
雰囲気にのまれたからつい……してしまったなんて言い訳になんてならない。
あのあと覚えてることといえば断片的なことで、しかも一番印象に残っているとすればキスの最中ことばかりだ。
『ほんとうにあなたというひとはもの覚えがはやいんですね。……キスをしても息苦しくなさそうだ』
指摘されてはじめておれは自分が鼻で息をしていることに気がついた。言われて恥ずかしくなり身をよじるもウェラーさんの腕が腰に絡んで動くことができない。しかももう片方の手で髪を撫でたりときおり耳を輪郭を指でなぞられて背中にぞくぞくした感覚が巡り、ウェアーさんがおれの口唇を舌でわり、閉じている歯列をノックする。
『ん……っ』
おれはそのノックに応えるようにくちを開けるとキスが深くなって、ウェラーさんから与えられる快感にあたまがくらくらした。
ウェラーさんの舌がおれの舌を絡めて一緒に吸い上げて……。
「って、なにを思い出してんだよ! あーもうっ」
ウェラーさんに家まで送ってもらい、さきほどのキスシーンを思い出して羞恥が全身にはしりおれは思わず近くにあったカバンを床に叩きつけ、バン! と、音をたててカバンに入れていた財布や筆記用具が床に散らばった。
途端に、壁を叩かれた。
「す、すみません……っ」
おれが住んでるアパートはやすいのですこし大きな音を立てるととなりの部屋に聞こえてしまうのだ。すでにテーマパークで夕食も食べちゃったしお風呂に入ろうかと思ったがもう真夜中だ。シャワーの音がとなりのひとに聞こえたらまた迷惑をかけてしまうかもしれない。
「……寝よう」
明日は午後から収録なので本来なら明日のセリフの確認とか今日の『デート』を参考に小説を見直したほうがいいんだと思うけど、いまの心境だとあたまが混乱しててなにも手がつかない。
おれは電気を消しベッドにもぐりこんで、ぎゅっと目をつむった。しかし目が冴えててぜんぜん眠れない。しかも目をつむるとキスをしたときのことばかり思いだしてしまう。
そういえばあのとき舌を差し込まれて絡められ――おれの口内がふたりの唾液で溢れそうになったときにウェラーさんはおれの顔の角度をかえてあろうことがそれを飲み込んだんだ。しかも聞こえないはずなのにキスをしたときの音がしているような気がしておれは思わず耳を手で覆う。……なのに、瞼の裏に映ったウェラーさんの顔も聞こえる水音も薄れることはなく、さらにリアルになっていく。
「あっ……なんでこんな、」
こんなことあっていいはずないのに。……おれの下肢の中心にあつくなっている。おずおずとそこに手を伸ばしてたしかめてみると布越しに触れた中心がふるえた。
まずい、これはやばい!
ウェラーさんとのキスを思い出して勃ってしまうなんて……!
確認するだけだったはずのおれの右手は、無意識にジーンズのファスナーをさげて下着のゴムかいくぐり、ゆるく勃起している陰茎を握りしめてしまう。
「……ん、ん」
ここ最近自慰をした記憶がない。それこそ溜まっていたことをからだが訴えるようにごくごくたまに朝起きると勃ちあがっているときはあるが二、三ヶ月に一度程度。しかもなにかを想像してあつくなることなんてなかったのだ。
なのに、いまのおれときたらどうだろう。
あたまのなかに浮かぶウェラーさんの顔や声を思い出して、勃起したそこを慰めてしまっている。しかも、最悪なこの事態に追い打ちをかけるほどの甘い快感がじわじわと毒のようにからだじゅうを巡っていく。
いままでつき合ってきた女の子をおかずに自慰なんてしたこともなかったのに、同性であるウェラーさんをおかずにしてしまうなんて……まじで、おれどうしちゃったんだろう。
「ぁ、ん……っおれ、ホモじゃ、ない、のに……っ」
もう放置して熱を冷やすことなんてできないくらい勃ちあがってしまった吃立を扱ぐ手が射精を促すように速度をあげていく。
ここでイったらそれこそ、だめな気がする。
そうあたまではわかっているのに、いままで感じたことがない快感におれの理性はもうぐずぐずで『だめだ』と規制をかける理性の声を本能がかき消してしまった。
「……っ、はあ」
おれは息を殺しながら、手を汚した。射精したことで性欲はおさまったけどそのかわりに罪悪感がずしり、と胸のなかでぐるぐると駆け巡る。
「なんてことしちゃったんだろ……」
だるいからだを起こしてベッドサイドの照明を左手でつけ、右手をみつめる。そこには、言い訳などできない証拠……白濁がべっとりとついていた。
恋愛経験が乏しいからといってちょっとエッチなキスをされ、自慰をしてしまうなんてほんとうにおれはバカだ。
それこそウェラーさんがその身を犠牲にしてまで休日をおれにさいてくれたり、デートしてくれたり、キスまでしてくれたというのに。
ウェラーさんの善意をこんな風に仇でかえすなんて。
「はあ……」
重苦しいため息がつぎからつぎへとくちからこぼれおちていく。
またウェラーさんに『近々会いましょうね』と誘われたけど、どんな顔して会えばいいんだろう。すぐに顔に出てしまうおれのことだ。察しのいいウェラーさんにバレてしまうかもしれない。どうにかして、バレないようにしないと。
おれは改めて経験不足であることと、ウェラーさんとのキスを思い出しておかずにしてしまった自分の情けなさをいやというほど実感しながらティッシュで濡れた手を拭いたのだった。
* * *
あの『疑似デート』以来おれは調子の悪い日が続いている。定期的に埋まっていたさまざまなスケジュールもぽつぽつと穴があくことが多くなり、収録でもよく音響監督に注意されるばかり。オーディションでは、一次試験ですべて全滅。
もともと仕事の依頼は多くなかったけどバイトとあわせればそれなりの収入があった。でもいまは、アパートの家賃や生活費を払うので精一杯。財布のなかを開けてみれば、千円札が二枚。バイトと仕事の給料日まであと二週間はある。
さすがにこれはやばい。一日三食おろか一日一食、ご飯にありつけるかも危うい事態に陥ったおれは午前中の収録が終わったあと、繁華街へと赴くことにした。繁華街……というか一部のひとは通称『オタクの聖地』と呼ばれる街に。
いままでは、一日バイトだけだったけど仕事よりもオフのほうが多いスケジュール帳。それなりに長く雇ってもらえるバイト先を探すために。 とは言っても、一般教養が偏っているおれがまともにできる仕事なんて限られている。そんなおれが一般のひとより知識があるとすれば、職業上アニメ関係のことなのでおれに友好的なバイトがあるとすればこの街ぐらいだ。
街を歩けばすぐに目がつくのは大きな電気製品販売店。それからティッシュを配るメイドさん。マニア垂涎のフィギュア専門店やアニメショップ。
「うー……ん」
自分に友好的な街。だとは思うがなかなかアルバイト募集をしているお店がない。ときおり見つけてもメイド喫茶のウェイトレスをしてくれる女の子の募集だったり、男を募集をしているところといえば夜のお仕事ホスト。下戸であまり女性に免疫のないおれにはできる気がない。
もうこの街を練り歩いてかれこれ一時間近い。
駅周辺をもう一度探索してみてなかったらあきらめてほかの街で探すか、家でできる内職のアルバイトをしようと決めてもときた道を戻ろうとしたとき、とつぜんうしろから声をかけられた。
「おーい! 坊ちゃん! ユーリちゃん!」
おれの名前をちゃん付けしたり、坊ちゃんと呼ぶひとはあのひとしかいない。そうして足をとめて振り返ればやっぱり予想通りあのひとがこちらに手を振っていた。
「ヨザックさん!」
「やーん! グリエちゃんって呼んで! じゃなきゃ返事しなーい」
あいかわずハイテンションなヨザックさんにちょっとたじろぎながら「グリエちゃん、こんにちは」と返せば二ッと人懐っこい笑顔をみせてくれた。
「坊ちゃんはもう今日は収録終わって、遊びにでも来てるの? ならおにーさんと一緒にどこかで飯でも食わない?」
『Charlotte』でヨザックさんとはなしてとても楽しかったので、ぜひ機会があったらまたしゃべりたいと思っていたからこうして食事に誘われたのはすごくうれしい。おれは、すぐさま頷こうとして金欠だったことを思い出し、声を詰まらせた。
「ん? ユーリどうかしたか?」
「すみません。一緒に飯食べたいんですが、いま恥ずかしながら金欠で……この街にきたのも遊びじゃなくて、アルバイトを探してきたんです」
せっかく誘ってくれたヨザックさんに、へんにうそをつくのは居心地がわるいので恥ずかしながらもほんとうのことをいうとヨザックさんはそんなおれをみて鼻で笑ったり、同情することもなく「そっか」と答えた。正直、引かれるかもしれないと思っていたのであっさりとしたヨザックさんに拍子抜けしてしまう。
「なによ、その反応は。ほかになにか言ってほしかったワケ?」
「ち、ちがいます! ほら一応、職にはついてるのに金欠だったりバイトを探してるなんて情けないやつだなって思われると思ったので……」
と、答えればヨザックさんは首をかしげて「だってべつに悪いことしてるわけじゃねえだろ」と言った。
「コンラートがいるからオレもそれなりにわかってるぜ、声優の仕事がいかにたいへんだってことぐらい。声優って仕事で安定な生活ができるのはほんの一握りなんだろ? まだ新人って言われるユーリが掛け持ちもしないで声優一本で食ってけるほうがありえないはなしだし、それでもむずかしい職業を続けていこうっていう意志があることにオレは尊敬する。……なにより、ユーリがうそをつかないで正直にはなしてくれたことがオレはうれしいからさ」
こんなことを言ってもらえるなんて思いもしなかった。
「あ、ありがとうございます……っ!」
ウェラーさんもそうだけどヨザックさんもかなりいいひとでおれはジン、と胸が熱くなる。
「つぎの給料が入ったら、ぜったい飯を食べに行きましょう! そのときはおれがおごります! っていうかおごらせてください!」
寿司でも牛丼でもなんでも! と、言うとヨザックさんは「期待してんぜ」とカラカラ笑った。
「ほーんと、ユーリちゃんはいい子だわ。いい子だから、いいアルバイト先紹介してやろう? 日給制の喫茶店で新人大歓迎……どうよ?」
日給制は今日生きるのにもやっとなおれにはかなりありがたい条件だ。しかも喫茶店でバイトというのにちょっと憧れをもっていたし、もし紹介してもらえるならすごくうれしい。
「今日オレがこの街にいるのもそのダチが運営してるその喫茶店でお手伝いするからなんだよ。どうする、ユーリ。オレと一緒にそこのお店に行ってみねえ?」
「お、おねがいします!」
雇ってもらえるかはわからないけど、もし雇ってもらえたらヨザックさんと一緒に働けるし安心だ。
「んじゃ、さっそく行ってみるか!」
「はい!」
さいきん、不調が続いてたけど今日はかなり運がついてる日かもしれない。
おれは、ヨザックさんに誘われるままその喫茶店へと向かい……ヨザックさんの特徴的な口調を意味を悟ったのだ。* * *
「アラ! とってもキュートな男の子じゃない!」
「でしょ! 童顔で初心で純情なんて高物件そうそう見つからないすばらしい逸材よん」
いまさりげなくヨザックさんにコンプレックスを抉られた気がしたけどいまのおれにはそんなさしてダメージがはない。
「……」
おれの目のまえにはヨザックさんと喫茶店の店長がはなしあっている。
きゃぴきゃぴと。男らしく体格のいいふたりがまるで女の子のように……はしゃいでいる。
おれは店内を見渡す。壁はクリームイエロー。窓のカーテンは母親が喜びそうなツルリとした素材のフリルがたっぷりと縫いつけられていて店内はラブリーな雰囲気が漂っている。
おれはバカだ。バカすぎる。
ここはオタクの聖地。駅周辺にグウェンダルさんが運営しているような店がないことをなんですっかり忘れていたのだろう。
「おかえりなさいませぇ、ご主人さまぁ!」
来店の告げるベルが鳴ると、メイド服を着た――男の子が客を出迎える。
ヨザックさんが紹介してくれた『KATHAEN』は、喫茶店は喫茶店でも働くスタッフはみんな女の子の服を着用している女装喫茶だったのだ。
ボディビルダー並みのからだつきの短髪のイケメンな店長のあたまにもフリルがふんだんに使われた蛍光ピンクのヘッドドレスが装着されている。
「そういえば、かわいこちゃんのお名前はなんて言うのかしら?」
「あっ、えと……有利っていいます」
店の雰囲気におじけづいているなか、ヨザックさんと談笑していた店長に尋ねられて思わず小声になってしまった。
「まあ! 名前もキュートなのねえ! ね、かわいこちゃん。あなたさえよかったらここで働いてみない? ついさいきん、スタッフがひとりやめちゃって、人手がほしいのよ。どうかしら?」
「えっ……!」
ここに来るまえはもしできることならこの喫茶店で働けたらいいな、と思っていたけどまさか店長から誘われるなんて思いもしていなかった。それに、想像していた喫茶店とはちがっていたからおれは返答に困ってしまう。
お金はほしいし、今日か明日にはアルバイト先を決めておきたいとは思ってるけど……。と、戸惑うおれのわきをヨザックさんがちょんちょんと小突く。
「よかったじゃねえか」
「いや、でも……」
「悪いはなしじゃないと思うぜ? コーディ……あ、この店長の名前な。コーディの店は『お客様は神様です』方針じゃねえから。ひやかしのお客や、無理やり店員におさわりするような輩はすぐに出禁だし、ダンナの運営している系列店だからな。かなり安全だ」
ヨザックさんのいう『ダンナ』というのはグウェンダルさんのことをさしているのだろう。あのひとがどんな仕事をしているのかわからないけど、真面目なグウェンダルさんが関係しているお店だと言われると安心する。
「それに坊ちゃんまた今度コンラートとドラマCDとるんだろ。それがまたきっかけになってああいう系の仕事をすることになったら、ここでのバイトが生かされるんじゃねえの? 金も入って、役の引き出しも増える。まさに一石二鳥じゃん」
彼の言うとおりかもしれない。
ヨザックさんが言ったああいう系の仕事というのは、ボーイズラブ関係だろう。村田も以前『BLの王道といえば、女装にメイドに獣耳』と言っていたし、ほかの声優さんも人脈をひろげたり、わざを磨くために積極的にボーイズラブ関係の仕事をとっていたと聞いたことがある。仕事を増やすためには自分の技術を磨き、多くのひとにみてもらわなければならないし、聴いてもらうにはまずなにより監督や原作者に気にいってもらわなければならない。だからいまのおれには、このアルバイトはチャンスなのかもしれない。
女装をするのは恥ずかしいけど、そんなものは一時の恥にすぎない。
それにいまの自分はいろんなことでせっぱつまっている状態なのだ。こんな好条件を断るような立場ではない。
「店長さん、おれをこちらで働かせてください。どうかよろしくおねがいします……っ」
おれは腹を決めて向かい席に座る店長にあたまをさげた。すると「もちろんよ」と店長は笑んだ。
「こちらこそ、よろしくおねがいね。きみのようなかわいい子が働くってなればほかのスタッフを気合いがはいってもっといいお店になりそうだわ」
店長はこちらに手を伸ばし、おれもおなじく店長へと手を伸ばして握手をした。契約成立ということなのだろう。となりで聞いていたヨザックさんが「アルバイト採用おめでとうサン」と声をかけたくれる。
「それじゃあ、そろそろオレも働く時間だし今日は試しにオレについて仕事学ぶことにしましょうや」
そうして有無も言わさずさっそくとばかりにヨザックさんはスタッフルームへとおれの手をひいていった。
「新しい世界への第一歩よお〜ん」
と、ちょっとこわいことばをくちにしながら。
……自分で決めたことだけど、おれはこれからどうなってしまうんだろう。
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