■ 3-1
まったく今日はついてない。もとより占いなど信じていないが今日は獅子座は運勢一位ではなかったのか。
コンラートは駅の改札口で小さく息を吐いた。つい一時間前までは晴天だったというのに。空をみれば、どんよりと重い灰色の雲がたゆたいザーザーと雨を盛大に降らしている。天気予報では夕方には一時的に強い雨が降るとは言っていたがいまはまだ昼過ぎ。家に帰るのも夕方前だと考えていたので、あいにく傘は持っていない。
ほかのひともそうなのだろう。改札口に現れるひとはほとんど激しく振る雨を見ては顔を顰め、コンビニで傘を購入したり、手に持っている鞄を頭に乗せてコンラートの横を過ぎていく。
せっかくの休日だというのに、気分が滅入ってくる。幸い、自宅まではあまり距離はない。走って帰れば十分程度で着くだろう。購入したものも濡れても大丈夫なものだけだ。と、ビニール袋をぎゅっと握り、改札口を出ようと足を一歩踏み出した、瞬間。声を掛けられて後方を振り返る。
「……コンラッド?」
「ユーリ?」
振り返ると、ユーリがいた。
「なんか見たことあるひとだなって思ったらこんなところで会うなんてな」
びっくりした。と、ユーリはうれしそうに頬を綻ばせた。
「今日は休み?」
「ええ。……ユーリは仕事ですか?」
見なれたスーツ姿とビジネスバック。しかし、週末にバーで会う彼とは若干雰囲気が異なるような気がする。日中の彼が見せる笑顔は、愛らしさが増しているように見えた。
「おう。いま、外回りが終わって会社に連絡したところだよ。今日は土曜日だから半日なんだ」
言って、わずかにユーリは襟元を緩めた。
「傘ないなら、入ってく? 家まで送るよ」
ビジネスバックからユーリは折りたたみ傘を開くとコンラートに手まねきをする。
「準備がいいんですね」
「むかしっからお袋や兄貴がうるさかったから自然と毎日持ち歩くようになってさ。……ほら、はやく」
ユーリはきっと、あたたかい家族に囲まれて成長したのだろう。週末でしか会うことのないというのに、こうしてやさしく声をかけてくれる。
ユーリに対して自分がどのような感情を持ち合わせているのかまったく気付かずに。
「いいんですか?」
尋ねると、すぐにユーリは「よくなかったら言わないよ」と苦笑いを見せた。
「バーではいつも話し相手になったり、色々世話になってるからこれくらいさせてくれよ。それとも、家をおれに教えるのがいやだったら、途中まででもいいし」
「家を知られたくない、なんて思うほど神経質なやつじゃないですよ。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
あたり前だが、折りたたみ型は通常の傘よりも小さくて大の男がふたりも入ると窮屈でユーリは「狭いな」と笑う。でも、コンラートに対して文句を言うものではなく、この状況を楽しんでいるかのようだ。それからユーリは、少し申し訳なさそうにコンラートに声をかけた。
「あのさ、コンラッド。お願いがあるんだけど……」
「なんですか?」
「くやしいけど、あんたのほうが身長が高いから傘、持ってくれないかな? おれが持ってるとあんた少し前かがみになってて申し訳なくって」
「もちろん。それに俺が持っていたほうが、家まで案内しやすいですし」
正直、いつ俺が持ちましょうか、と尋ねる機会を伺っていたので好都合です。と心のなかでコンラートは呟いた。もしかしたら、バーでもよく身長のことや自分の体形を気にしているとぼやいていた彼に尋ねれば、怒りはしないとは思うが拗ねるかもしれないと思っていたのだ。
渡される傘の柄にわずかに触れあった指先に口角が微かにあがる。たったこれだけのことなのに「今日はやはりツイているかもしれない」と思う自分の現金さを心のなかで笑う。
人ごみを縫うように歩き他愛のない会話を楽しむ。バー以外ではなし、会っただけだというのに新鮮に感じる。大通りを抜け、そろそろ住むマンションが見え「あそこのマンションですよ」とコンラートは指をさした。
「うわー、金持ちなんだな。高級マンションじゃん」
「外見だけですよ。なかはそんなにあなたの住んでいるところとあまり変わらないと思いますけど」
と言えば「うそうそ」とユーリは苦笑いをみせた。
「おれの部屋見たらびっくりするぜ。狭くて。今度機会が会ったら来いよ。おれもさっきの駅から遠くない場所に住んでるから」
「そうなんですか。じゃあ、今度ぜひ」
まさか、バー以外で彼と会う機会が今回以外にもあるなんて。ユーリにアプローチするチャンスだ。
そうして考えている間に、マンションのまえに着いた。
「助かりました。ありがとうございます」
「いや、おれもコンラッドとはなしができてよかったよ」と、再び傘を受け取ろうとする彼の腕をコンラートは掴む。
「もし、よかったら俺の部屋に来ませんか? まだ昼食食べてないってさっき言っていましたし今日のお礼になにか作ります」
「え! コンラッドが料理するの?」
驚いたように声をあげる彼に思わず笑ってしまう。彼の興味をひくことには成功したようだ。
「けっこう自信ありますよ。……それに、もうすこしあなたとはなしてみたいな。だめですか?」
我ながらずるい言い方だ。
ユーリは、やさしいひとだからお願いされたらきっと断れない。
「じゃあ、ちょっとお邪魔しようかな」
やさしいひとは、かわいそうだ。
――
「コンラッドのうそつき」
おじゃまします、のつぎにユーリの口からこぼれたのはうそつきだった。
「なーにが、おれの部屋となかは変わらないだよ。おれの部屋の倍以上はあるじゃん」
玄関で靴を脱ぎながらユーリは室内を見渡しうらめしそうに呟く。
「そう突っかからないでくださいよ。それに都会でビジネスマンで働くひとはきっとバーで働く俺なんかよりって思っていたので。なにもつまらない家ですよ」
廊下から直進にあるリビングに案内して「ゆっくりしていってください」と彼をソファーへ促し、キッチンに向かう。
「紅茶とコーヒーどちらにします?」
「紅茶をお願いします。おれコーヒーって苦手なんだよなあ、苦くて」
顔をわずかに顰めてユーリは上着を脱いだ。自分がどのような感情を持ち合わせているのか知らず、くつろぐユーリに警戒心を持たれていない安堵とわずかに残念な気持ちが胸のなかで生まれる。
そういえば、こんな気持ちになるのは初めてなのかもしれない。いままで気になるひとができてもすぐにアプローチをかければすぐに自分の思い通りにことが進むのがあたり前だとどこかで思っていたような気がする。
恋愛はそういうものだと思って過ごしていたのはいつの頃からだったのだろう。未だ、ユーリに対してはっきりとそういう感情を持ち合わせているのかわからないが、いままで知らなかった気持ちだ。
やはり、ユーリは面白い。それに不思議と一緒にいるのに苦痛じゃない。
ゆっくり、この関係を楽しんでいこう。
「はい、どうぞ」
トレイに紅茶とそれから焼き菓子を載せて彼に渡す。
「いまから作るのでちょっと時間かかってしまうんですが……」
「いやいや、気にしないで! 作ってもらえてうれしいし、待ってる時間も楽しいよ。コンラッドはなにを作ってくれるの?」
「そうですね……今日は暑いし、冷製パスタとかどうですか?」
「冷製パスタ! おれ冷やし中華しか食べたことないからたのしみ」
「たのしみにされたら、腕によりをかけてつくらないと」
言うと、ユーリは声をたてて笑い「まるで恋人の会話みたいだ」と言った。
そのことばにちょっとだけ舞い上がったのは、コンラートだけの秘密だ。
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