■ GIMLET

 深夜も過ぎると賑わいある街も静けさを漂わせ、店内に流れるジャズメロディーが鮮やかに店内を泳ぐ。グラスを丁寧に磨くコンラートの耳に流れる曲は『say it』主線のサックスが甘く、酒と話を楽しむ人々の時間を穏やかなものにさせている。とは、言ってもここはひっそりと街角に隠れた小さなバー。訪れるひとは少なく、閉店もあと一時間となるとカウンターに座る者は少ないが、カランとドアの鐘を鳴らすひとがいる。金曜日。週末の時間に現れる男性。
「いらっしゃいませ、ユーリ」
「こんばんは」
 少々くたびれたグレーのビジネススーツと、ブルーストライプのネクタイは、コンラートが呼ぶ男性客、ユーリの定番のスタイル。カウンターに設置された六つの椅子の左側の隅が彼がいつも座る場所だ。疲れているのだろう。ユーリはネクタイをわずかに緩め、息をつくとコンラートにオーダーをした。
「ギムレットをお願い」
「かしこまりました」
 シェイカーにジンとライムジュースを入れ丁寧にシェイクして、カクテルグラスに注ぐ。色気もしくは愛らしさのある白は彼によく似合う。
「ありがとう」
 成年より、青年という表現が彼には適していると、コンラートは礼をいい笑みを見せるひとに思う。
 彼、ユーリがこの店を訪れたのはもう三か月ほどまえのことになる。店の常蓮であったユーリの先輩に連れられたのがファーストコンタクト。常連客は、それから数日して転勤をしたとユーリが話してくれた。彼は、常蓮であった先輩がいなくなってからもよくお店を訪れるようになった。酒はあまり強くないらしい。はじめの一杯はギムレット。二杯目は、軽めのカクテルか、ノンアルコールのものをオーダーする。ユーリは、初店でそれを申し訳なく思っていたようで「あまり飲めないのに、申し訳ない」と先輩と自分に小さな声で謝罪をしたが、そんなことは誰も気にしていなかった。バーは、そのひとの一時を癒すためだ。楽しんでもらえればいい、とユーリの先輩が優しく微笑んでいたのを覚えている。コンラートもその言葉に賛同した。
 店の雰囲気がよかったのか、カクテルがよかったのか、それともほかの理由があるのか。コンラートにはわからなかったが、ユーリはこの小さなバーを気にいってくれたのはたしかで、今日もゆっくり味わうようにギムレットを飲む。ステムを支える指先と、落ちた視線が妙に色っぽく、コンラートの視線を惹きつける。
「……うん、コンラッドが作るギムレットはおいしい」
 グラスから口唇を離し、唇についたギムレットまで味わうように、舌で下唇をなぞったユーリが目元を緩めコンラートに感想を述べた。
「ありがとうございます。そう言っていただけてうれしいです」
 と、返答すれば「飲むたびにそう思う」とユーリが言うので、詮索する邪推な気持ちなく「ほかのバーでも、ギムレットを頼んだのですか?」と尋ねた。
「ううん、ない。おれ、先輩がいなかったらこういう大人の雰囲気の漂ったバーに行く機会なんてなかったし、好んで行こうと思わないから」
 と、ユーリが首を振った。
「そうですか」
「うん。このお店とコンラッドのギムレットがあれば十分。ふだんは、お酒を飲んだりしないしね」
 そう言って、ユーリはまた一口ギムレットを飲む。
「ギムレットの作り方を教えましょうか?」
 彼の言葉に気を良くしたコンラートが言えばユーリは「本当?」と、うれしそうに目を見開いたがすぐに「やっぱりいいや」と答えた。
「簡単ですよ?」
「いい。自分で作っても、同じ分量やレシピでもたぶんこの味は作り出せないと思うし、おれ、コンラッドがシェイカー振る姿が好きなんだよ」
 こうやって、と両手を絡ませシャイカーを振る真似をする。さきほどまであった色香が引き、愛らしさが見える。可愛らしくて、思わず小さく笑えば、ユーリは恥らうように唇を尖らせた。無意識の仕草なのだろうが、とてもじゃないが、二十歳を過ぎたひとにはみえない。こんなにも、表情がくるくると変わる社会人をコンラートはユーリ以外に見たことがない。
「もー、笑うなよ。あんたみたいに、スマートな仕草なんておれにはできないんだから」
「すみません、可愛らしくて」
「お世辞はいいよ。疲労困憊って雰囲気を漂わせた男のどこが可愛いんだか……」
 お世辞じゃありませんよ。と、答えようとしたがコンラートはやめた。言っても、彼はコンラートの言葉を受け入れずに、むっと額に眉を寄せるだけだろう。コンラートは、ほかのバーテンダーから受けた客のカクテルを作りながら、ユーリと会話を続ける。本来ならば、まだ三か月ほどしか経っていないお客を敬称も付けずに名前を呼んだり、自分の愛称である『コンラッド』と呼ぶのはおかしいはなしだ。けれど、三か月というのはただの数字で、そこに意味はない。そう呼ぶに値する理由がふたりのなかにはあった。
 ひとつは、常蓮であった先輩がユーリを連れて、コンラートと交えて会話をしていたこと。
 ふたつは、ユーリがカウンターで柄にもなくつぎつぎと酒を飲みながら、泣いていたことだ。
 距離がぐんと縮まったのはふたつめの理由だろう。半年ほど付き合っていた彼女に振られ、コンラートが閉店時間ぎりぎりまで話し相手になった。時折しゃっくりをしながらコンラートの名前を呼ぼうとするものの、うまく発音できずにすでに失恋で蟠っていたユーリの心に名をすぐに呼ぶこともできない些細なことが苛立ちを増やして、もう一杯酒を煽ろうとしたので「渋谷さん、コンラッドならどうです?」と言い、ユーリはそれに頷き「渋谷さんは、やめてくれ。苗字で呼ばれるのは会社だけで十分。おれのことはユーリと呼んでほしい」と言ったのがきっかけだったような気がする。
 敬称をなくすと、不思議なことにどうしてだか相手との距離がより親密になったように思える。それは、コンラートだけではなく、ユーリも思ったのか、それ以降はより気楽にコンラートに話しかけてくれるようになった。
 オーダーされたカクテルをスタッフに渡すと、グラスを開けたユーリが言う。
「コンラッド、二杯目おまかせでちょうだい」
「かしこまりました」
 二杯目は、ノンアルコール。なにを出すか、少しだけ考えて、コンラートは三種類の材料をを選ぶ。疲労困憊と言っていた彼に、甘いすぎるものはよくないだろう。適度にシェークして、グラスに注いだ。
 テーブルに置かれたカクテルの色を見つめて、悩むような顔をしたあとユーリは手にとった。
「これは……シンデレラだっけ?」
「正解です」
「やった! おれ、こういうの飲みたかったんだよ」
 オレンジ色したそれは、オレンジ、パイナップル、アップルジュースを混ぜたいわばミックスジュース。働きずめのからだには優しい飲み物だ。
「すごいよなあ。ミックスジュースもカクテルグラスに注がれるとこんなにもおしゃれに変身する。店の雰囲気は壊さないし」
 まじまじと、カクテルを見つめながら彼は呟く。
「もっと、おれもカクテルが楽しめるやつになりたいな。ギムレットもシンデレラみたいなノンアルコールも好きだけど、コンラッドの作るほかのカクテルも飲んでみたい」
 ユーリはなんの気なしに言ったのだろうが、コンラートには口説かれているように思った。いや、ほかのひとも聞けばそう思ったことだろう。
 店内に流れる曲が変わった。『Moanin』だれしも聴いたことがあるのではないかと思う。テンポのいいリズムに自然と店内もさきほど賑やかにみえる。音楽とは、ひとの感情をいとも容易くいい意味にも悪い意味でも作用する。
「おれ、この曲好き」
 ユーリが、振られてやけ酒をして落ち着いてきた後半くらいに流れていた。明るいメロディーがユーリの空いた心を癒し、耳に残っていたのかもしれない。
 ユーリは饒舌になり、コンラートにこの一週間の出来事を話す。大好きな野球のはなしから、日常で起きた失敗談、上司のはなし。シンデレラを飲み終えるころには、流れる曲の雰囲気もあってか恋愛のはなしになっていた。
「彼女ほしいなあ」
 本気で言っているようには、コンラートには聞こえなかったが「そうですか」と答えた。
「大丈夫ですよ。ユーリはとても魅力的なひとだからきっと素敵なひとが見つかります」
「うーん。コンラッドに言われるとうれしい反面、悔しい気持ちになるよな。だって、コンラッドはおれよりも格好いいのに恋人いないじゃん」
「俺は、ユーリが思っているほど格好いいやつじゃないですから」
「そんな謙遜いいから。うん、今日も楽しかったよ。そろそろ行かなくちゃ。お互いそのうち恋人できるといいな」
 ごちそうさま。ユーリは、一枚紙幣と取り出すとお釣りを受け取り店を出て行った。
「よい、休日を」
 彼の後ろ姿にそう声をかけると、ころあいを見計らったように、ひとりのバーテンダーが現れた。橙色の髪が印象的なコンラートの親友。
「いやらしい目してんな、コンラート」
「ヨザック……」
 呆れ口調で、親友の名を窘めるように呼ぶ。ヨザックは、意地悪気な笑みを浮かべたまま「本当のことだろ」と言った。
 コンラートはユーリの飲み終えたグラスを片付け、ヨザックに返答しなかった。それは、肯定を意味をした。
「純粋にお前のこと好いてるあの子が、本当に哀れに思うよ。それに鈍いともね。その目接客する目じゃねえもん」
 コンラートはなにも言わず、薄く笑みを浮かべながらグラスを洗う。ヨザックは大げさにため息をついていると、またオーダーが入った。
 ギムレットだ。
 コンラートは、馴れた手つきで分量を量りシェイカーを振る。曲は『Open Sesame』コンラートの好きな曲のひとつ。一層気分が陽気になる。
 ユーリは知らない。コンラートが話しをしている間、想像のなかで、ネクタイのほどけたシャツのボタンをひとつひとつ外し、首筋に唇を滑らせ、鎖骨を甘噛みし、上着を脱がせ、もうかたほうの手で秘部をゆるく撫ぜて、おもうさま愛撫していることを。己の双眸に映るユーリが何度、全裸に剥かれ犯されているのか、ユーリは知らない。
 ユーリが下唇を舐める仕草を思い出して、コンラートもまた、舌舐めずりをした。
 カクテルグラスにギムレットを注ぐ。受け取ったヨザックが、心底憐情を滲ませた声で言った。
「あの子が、本当にかわいそう」
 やはり、コンラートはなにも言わずにただ、微笑みを浮かべるだけであった。


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