■ ひかり

 ――覚悟はしていた。
 それは弟の渋谷有利が三歳のときには。
 覚悟はしていたんだ。

『いつか、二度と会えなくなる』
 
 と、いう現実を。
 兄である渋谷勝利はいつも忘れることなく、胸のなかでたったひとりの大切なかけがえのない弟の別れを覚悟をしていた。
 たとえば、キャッチボールしたときやテレビのリモコンをとりあうとき。部屋に戻り、隣の部屋の壁を目を向けたり――それこそ数えきれないほどに。
 有利が異世界に連れていかれ『魔王』になって、弟は言った。
『地球も眞魔国もどっちもおれの大切な場所。ホームベースなんだ』と。
 そのことばに嘘はないだろう。けれど、いつかその大切な場所のひとつに足をつけなければならないことを有利は知らないでいるのだろうと思った。
『渋谷』と呼ばれるいまの自分たち家族もまた、いままで母親や父親にあった大切なホームベースから離れてできたものなのだから。
 母も父も実家から出て、新しい場所でふたりで自分たち兄弟の大切な場所を作ってくれたのと同じだ。いつかはだれしも大切に出会っていままでのかけがえのない場所から離れていく。ずっとどちらも選らぶことなく未来に進むことはできないことを弟は知らなかったのだと思う。
 けれど、有利が『どちらも大切だ』と言ったあのとき勝利は思ったそれをくちにすることはしなかった。それをくちにするのは早いし、言うのではなくこれから弟自身がこのことに気がつかなければいけないことだと思ったからだ。

 ――あれから、数年が経った。
 有利は高校、大学を卒業し、その数ヶ月後『渋谷有利』という名は戸籍から抹消された。
 もちろん、有利は生きている。ならなぜ、抹消されたのかといえば、有利がようやく大切なふたつの居場所のどちらに足をつけるか決めたからである。
 弟が悩みに悩んだ結果だろう。けれどあったはずのふたつの選択肢を強制的にひとつ消されたようにも思う。
 なぜならば、有利の成長速度ががくん、と低下したからだ。
 それは、地球と異世界を行き来した影響か、それとも莫大な魔力の影響か理由はあきらかではないが、どちらにせよ彼の成長速度は人間ではなく魔族の成長速度へと変化したことには変わりない。
 弟の友人である村田健も同じく魔族寿命で、彼はだれよりも早くそのことを察していたらしかった。というのは、まだ有利が地球と異世界を行き来していた頃、家に遊びにきた村田が有利が席をはずした際に『もしかしたら、僕と渋谷は魔族寿命に成長速度が移行したのかもしれません』と。『まだ確証があるわけではないんですけどね』と彼は続けたが、そう思わせる節がいくつかあったのだろうと思う。
 ボブと出会って、覚悟していたことだとはいえそう告げられたときはトイレから戻ってきた有利のかおをまともに見ることができなかったのを覚えている。
 確証はない、と村田は言ったが勝利のなかでより一層『別れ』という文字がリアルに胸にささり、それ以来ふとした瞬間、寂しさを覚えるようになった。
 その真実を素直に受け入れるほど自分はできていなかった。
 けれども、自分が受け入れようと受け入れまいと時間というのは残酷なほど正確に時を刻み続けていく。
 ――そうして、あの日がついにやってきたのだ。
『渋谷有利』が『渋谷家』からも『地球』からも存在を消す日が。
 七月二十九日。有利の誕生日だった。
 その日は、母と父。それから自分と有利。ほかに村田と有利の恋人であるコンラート・ウェラーとともにホームパーティーをした。母はからあげやスパゲッティ。それから、定番のケーキとカレー。ありえない組み合わせの料理をテーブルいっぱいに乗せ、父は高級なワインや日本酒を買いこんでいた。……両親は自分と同じくわかっていたのだろう。
 並べられた料理は有利の好きなものばかりであったし、父はもりあがる夕食時、一滴も酒をくちにすることはなかった。
 たのしい夕食がおわり、ひと段落したなかで有利がぽつり、と呟いた。
『ごめんなさい』
と。
 なにを謝っているのか、とだれもくちを挟むことなく重そうにくちを開閉させる有利の話しの続きを待った。
『おれ、あっちの世界で暮らすことにする。……魔族寿命だっていうのがわかったっていうのもあるけど、支えてくれるみんなをおれも支えていきたいって思った。みんなだけじゃない。……国だけじゃなくて、世界を平和にしたいって思ってる。だから、あっちで生きようと思ってる』
 ぽつぽつと話す有利の声はちいさいものではあったが、それでも『だめだ』と言っても、聞き入れないだろうという強さが滲み出ていた。
 話し終えた途端、シンと静まる雰囲気のなか両親はかおを見合わせ、深く追求することなく『わかった』と言った。
『ゆーちゃんの人生。ゆーちゃんが選んだ道だもの。ママはゆーちゃんがいいならそれでいいわ』
『決めたからには、ぜったいに後悔するなよ』
 両親は笑顔で言い、緊張の糸がほどけたのか有利はその瞬間どっと涙を流した。その背中をコンラートかやさしくさするのを見ながら、弟は『魔王』であり、支えてくれる『恋人』がいるのだといまさらながらに実感した。
 有利が異世界で生きると決まってからの数カ月はあっという間に過ぎた。ボブと連絡をとり、有利の痕跡をひとつも残さないようにとあちこちから書類をかき集め、手続きに追われて日々が続き、その分厚い書類に目を通し、サインをするたび、有利が地球で暮らしていたという事実が消えていくのだな、胸がシクシクと傷んだ。
 そうして、一枚一枚丁寧に処理をし、最後に残ったのは『死亡届』この一枚の紙切れで有利はもうこの世界に存在しなくなるのだと思うと不思議な気持ちに包まれた。
 自分のとなりの部屋も、すっかりきれいだ。勉強机もベッドもなにもない。空き部屋になった。
 四人で食卓テーブルに座り、死亡届に必要事項記入していく父親の手をじっとみていた。さらさらと記入していく手が途中でとまる。『渋谷有利』という名前が書けないでいることがすぐにわかった。父親の嗚咽と震える手。そのとなりに座る母がくちを覆い、自分はぎゅっとズボンの裾を握り、下唇を噛み締めて、震える手でゆっくり一文字一文字、弟の名前を書く。印を押していた頃には、リビングはすすり泣く声で溢れかえっていたのを鮮明に覚えている。忘れることなんてできるわけもない。
 記入を終えて有利が『いままでありがとう』と誕生日のときとは反対に笑顔で別れを告げたあの日を忘れることなど一生ないだろう。

 ――あれから、また数年。
 勝利は、ボブの仕事を引き継ぎ、女性と出会い、恋をして、結婚をした。職場で出会った女性で、父と同じく魔族ということを隠して暮らしているひとと。いわゆる職場恋愛、結婚ということだ。
 結婚をしてからしばらくしてふたりのあいだには子どもができた。
 生まれた子は女の子。
 無事出産を終え、数日が過ぎ、実家へと赤子を見せにいったときのことだ。予想もしないことが起きた。
 インターフォンが鳴り、初孫に夢中になっている親のかわりに玄関の扉をあけて――驚いた。
「久しぶり!」
「……ご無沙汰しております」
 そこにいたのは、有利とコンラートであった。
 あまりのことに声がでない。
 なんと言っていいのか、ことばが出ず、くちをぱくぱくさせていると「勝利、くちがさかなみたいになってるぞ」と有利が笑う。
「赤ちゃん、生まれたって聞いたからそのお祝いに。あがっていい?」
 言われて、頷き家に招き入れる。
「勝利はやっぱ、親父似なんだな。顔つきが親父似てきた」
 と、有利が靴を脱ぎながら言った。
 あちらでは黒が高貴な色で、異世界にとばされたとき学ランがあまりにも似合っていたから学ランそっくりな服を着ていると前に聞いたことがあったが、からだの成長が遅い有利は正装であるという学ランを高校生のように着こなしていた。
 自分と同じくらいに年を重ねていく弟のすがたをこれからも見れないのだな、とあたまの片隅で思う。それにまた、寂しさを感じたものの、それでも久しぶりに会えたことがその寂しさを上回った。
「懐かしいなあ」
 自分も家を出てから、実家に帰るたびに有利と同じことを呟き、思うことがある。けれども、その呟きの重さがまったくちがう。
 勝利は、うっすら目がしらが熱くなってくる感覚を息を吐きだすことで払拭すると有利とコンラートのあとに続いて、妻と両親。それから娘がいるリビングに向かう。
 父と母は有利のすがたを目にした途端、驚いたのか目を見張ったが、声をあげて喜ぶことはせず以前とかわらず、まるで毎日有利が実家に帰ってきたときのように「おかえり」と言い、母と父は腰をかけているソファーに弟が座るスペースを開けた。
「わっ! かわいいなあ!」
 母の腕に抱かれている娘を見て有利が言う。
「有利も抱いてみ」
 勝利が言うとどう抱いていいのかわからないのか、有利は戸惑うように眉根をさげる。それを見かねて母が抱き方を教えながら赤子を有利の腕にあずければ、娘は目をぱちぱちさせたあとうれしそうに笑い声を立てた。
「あ、笑った!」
「ゆーちゃんのこと、気にいったのかもしれないわね」
 と母が言うと、有利は少し照れたのかはにかんだ。
「勝利、この子の名前は?」
 有利が尋ねると勝利のかわりに妻が「まだ、決めていないんです」と言った。
「そうなんですか」
「あの、ユーリ陛下……」
「陛下なんて言わないでください。あなたとおれはもう家族ですから」
 まあ、こっちじゃもうおれはいないんだけどさ、と有利は冗談で言ったであろうそれをだれも笑うことはできなかった。
 弟はひとの感情に敏感なところがあるがときおり、空気が読めないことも言ってしまう。
 穏やかな雰囲気にややぎくしゃくとしたのがわかったのが「あ、ごめん」と謝る有利のあたまを勝利は小突く。
 その空気の流れを変えるように、妻は「では、ユーリさん」と改めて弟の名を呼ぶ。
「この子のことでひとつお願いがあるんです」
「なんですか?」
 お願いとはなんだろう。だれもが彼女が弟にした『お願い』に耳を傾けると彼女は予想もしなかったことをくちにした。
「この子の名前をあなたにつけて欲しいのです」と。
「……え?」
 聞こえなかったわけではないのだろう。けれど、彼女の言葉が理解できずに声をあげた有利に妻は微笑んだ。
「この子はきっとあなたのことを知らずに生きていくことになります。それはしかたのないことです。けれど、あなたは私たちのかけがえのない家族。欠けてはならないもの。だから、娘の名前を呼ぶたびに私たちは家族の繋がりの尊さを実感することができます。……名前というのはとても大切なものだから」
 そうでしょう? と彼女は勝利に向かっていい、勝利はそれに頷いた。
「俺たちはこれからこの子にたくさんの思い出と贈り物ができる。でも、お前はそうじゃないだろう? 有利からも贈り物がほしい。一生、大切な贈り物をこの子にあげてほしい」
 勝利が言うと、有利は「おそれ多いなあ」と呟き、ソファーのよこに立っているコンラートとかおを見合わせたのち「わかった」と答えた。
「とびきりすばらしい名前じゃなきゃだめだからな」
 勝利が冗談めかしていうと、有利は眉をハの字にして「ハードルをあげるな」とくちを尖らせた。
 すると話しの内容などまったくわかっていないはずの娘が大きな声をあげて笑い、有利に小さな手をのばす。
「まあ……でもこんなかわいい子にはどびっきりの名前をつけてあげないとな」
 のばされた手に有利が指を差し出せば、赤子は有利の手をぎゅっと握る。
「力強くて、あったかい手だ」
 有利は言って目を細めた。


「――ねえ、パパ。あたしのなまえはどんないみがあるの?」
「意味?」
「うん。あのね、きょうてれびでみたの。みんなのなまえはそれぞれいみがあるんだって」
 今日はクリスマス。イブにたくさんのごちそうを作ってくれた妻を労い、今日はふたりで夕食を作ろうとデパートで買い物を終えた帰りに娘が言う。
 ちなみに夕飯のメニューはお袋直伝のじゃがいもがごろごろ入ったカレーだ。
「だからあたしのなまえにはどんないみがあるのかなあっておもったの」
 お袋からクリスマスプレゼントにもらったぽんぽんのついた赤いマフラーを揺らしながら娘が言う。
「ママとパパがつけたの?」
「ちがうよ。パパのな弟が名前をつけたんだ」
 言うと娘は驚いたかおした。
「パパにおとうとがいたの」
「ああ『有利』っていうんだ。いまは遠くで働いてるから会えないんだ。でも、お前と同じで間違ったことが大嫌いな弟で、あいつが笑うとみんなも自然に笑顔になるんだ」
 ひとというのは残酷で、どんなに大切なひとでも時が経つにつれて、会わなくなると声から忘れてしまう。いまは声だけではなく、顔をぼやけてしまった。けれども、ひまわりをみると『有利』の名前を思い出す。
『――よし、きめた! この子の名前は……――』
「『ひかり』っていう名前には『未来がひかりで溢れていますように』それから『ひかりと出会ったひとたちが笑顔でありますように』って意味が込められるんだよ」
「……みらいってなあに?」
 まだ幼稚園に通うまだまだ幼いひかりには少々、難しかったようだ。
「未来というのは、ひかりが小学生や中学生。大人になるさきのはなしのこと」
『この子がどんなに困難な壁にブチ当たってもしくは真っ暗な悲しい洞窟に迷い込んでもこの子に差し込むひかりがあるように。そしてこの子がだれかのひかりになるように』
 有利は娘に『ひかり』という名前をプレゼントした。どうして漢字じゃないんだ、と聞いたら有利いわく『ひらがなのほうがやわらかい感じがするから』だそうだ。
 たしかにこの子の名前は漢字でもなくカタカナでもないひらがなが適切だったと娘の過ごす日々のなかで勝利は思う。
 やわらかいふわふわとした雰囲気や笑顔が特徴的な娘にはぴったりの名前だ。
「……ゆうりおじさんにあってみたいなあ」
 ぽつりとひかりが呟いたそれに勝利は「そうだな」と相槌を打つ。
 有利とはひかりに名前をプレゼントしてもらったあの日以来会っていない。王様業が忙しいのもあるだろう。だが、おそらくは娘と会うことを避けているのだろ思う。頻繁に会わないにしろ、そのうち自分の成長が遅いことに気づかれてしまうかもしれないということを危惧しているのだ。
「ね、ゆうりおじさんのこととかパパのちいさいころのおはなし聞かせて」
「いいよ。そうだなあ……――」
 はじめて知った弟の存在に興味がわいたのだろう。ひかりが繋いでいる手をぎゅっと握って勝利にお願いする。
 そういえばここ数年、弟のことをだれかに話すということがなかったような気がする。なにから話そうかなんて考えずにもくちは勝手に有利との様々な思い出を語り出した。
 野球が好きだったことや自分のことを『お兄ちゃん』となかなか呼んでくれないこと。それから、ひかりくらいのときに有利を連れ出して、遠くに行こうとしたこと。それらにひかりはうんうんと相槌を打ち、もっと話しがききたいのか「それから?」と話しを促した。
「……あっ、」
 その途中、ひかりが声をあげた。
「どうした?」
 うしろを振り向いて、だれかを探すようにきょろきょろとクリスマスで賑わう大通りを見渡している。
「知ってるひとでもいたのか?」
 尋ねるとひかりは首をよこに振った。
「わかんない。……でも、どこかであったきがするの」
 そのことばに勝利は小首を傾げた。

END


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