■ そうして彼女は、歩き出す。





 当時は罪の意識なんてあまりおおきくなかった。
 けれど、実際は意識がなかったわけではなく、その罪の重さから無意識に背を向けていたのだろうといまならわかる。
 月日が過ぎれば過ぎるほど、あの日の罪を忘れるなと充実した日々のなか、時折警告するように夢にみるのだ。
 罪は罪。自分の犯したことだ。もう逃げてはいけない。そう思うのに、いまはどうしても――大好きなユーリのかおを見れないでいる。

『会議が少々長引いていてね、まだユーリはこちらにこれそうにないんだ。ごめんね、グレタ』
 と、言った父親であり魔王の護衛であるコンラートに謝罪をされ、申し訳ないと思いながらもグレタは内心ほっとしていた。
『ユーリもグレタにとても会いたがっているから、会議が終わったらすぐにここに来ると思うよ』
 言うと、彼はもう一度グレタに頭をさげ、早々とグレタが待っている客室をあとにする。
 それを確認するとグレタはそっと息を吐き、ソファーから腰をあげ、重い足取りで部屋に設置してある三面鏡のまえへと移動する。
 ひさしぶりにユーリと会うのだから、とびきりの笑顔でいなければ。
 そう思うのい鏡に映し出される自分のかおはお世辞にもとびきりの笑顔とは言いがたいもので、ぎこちのない表情にもとより憂鬱であった気分がさらに下降して、グレタは鏡から視線を逸らす。
 ……ふとしたときに思い出してしまうのだ。
 自分がユーリを殺そうとしたときのことを。
 ユーリは、自分のしてしまった過ちを許してくれたが、自分自身は未だにあのことを赦すことができずにいる。
 それだけではない。思い出すたびに卑屈な考えだと思われるだろうが、ユーリを慕う周りのひとたちは本当は自分のことをきらいなのではないか、と考えてしまう。
 自分が『魔王の娘』だからという理由で優しくしてくれているのではないか、と。
 どこにもそのような根拠はないのに疑ってしまう自分がいやでどうしようもない。もっと楽天的に意識を向けようとしてみても、胸のおくにドロドロと重くいやな気持ちが溢れていくのだ。
 ユーリはひとの心にとても敏感なひとだ。こんな気持ちで、鏡に映ったあのような笑顔で会えばすぐに心配するだろう。
 ユーリがここにくるまえにどうにかこの滅入った気持ちを払拭させようと息を吸い、重く息を吐くと――コンコンッ! と部屋のドアを叩かれ、グレタは勢いよくそちらを振り向いた。
 どうしよう。まだ、心の整理がついていないのに。
 緊張と焦りでうまく声がでない。
 すると、もう一度ドアをノックされ、グレタが返事をするよりもはやくドアが開かれた。
「……あ、」
「返事がなかったから、もしかしたらいないのかと思っていたけれど、よかった! ひさしぶりね、グレタ」
 現れたのは前魔王陛下であるフォンシュピッツヴェーグ卿ツェツィーリエ。通称、ツェリ様。
 あいかわらず三児の母親だとは思えないほど若く、美しい。
 笑みを浮かべたままこちらに向かってくる彼女に無意識に表情が強張ってしまう。
「……っ!」
「あら?」
 それだけではない。ユーリ同様彼女は親しいひとにたいしては挨拶の際、包容を好む。グレタは抱きしめようと手を伸ばしたツェツィーリエへの手を反射的に振り払ってしまい、ざっと顔を青くした。
「ご、ごめんなさい……!」
 唖然とした表情を見せたツェツィーリエへにあわててグレタは謝罪をする。
 気持ちが滅入って動揺していたからとはいえ、あまりにも態度が悪い。
 こんなことをしたら疑心暗鬼ではなく、本当に嫌われてしまう。
 謝ることしかできず、次第に目頭が熱くなっていく。
「グレタ、私の部屋にいらっしゃい」
 しかし、彼女はそんなグレタに冷ややかな視線や態度をするわけでもなく、改めてグレタの手を握るとやわらかく微笑んだ。
「……え?」
「さあ、ユーリ陛下があなたを迎えに来ちゃうわ!」
 強引に手を握り引っ張るわけではない強さでツェツィーリエはグレタを自室へと向かうよう促す。
 きっと『行きたくない』といえば彼女はこの手を離すのだろう。握られた手をグレタが見つめていると、
ツェツィーリエが言う。
「悩みがあるなら私が聞いてあげるわ。女の子はね、おしゃれとおしゃべりがいちばん悩みに効くのよ」
 と。
「聞くわ。と言ったけれど、話したくないなら悩みを打ち明けなくてもいいの。他愛のない話でも、きっと効果はあるわ。あなただって、ユーリ陛下にはいまの状態で会いたくはないのでしょう? ここはだまされたと思って私についてきてごらんなさい。ひとりで悩みを抱えているよりはいいかもしれないわよ」
 たしかに、ひとりでこの状態でいてもラチはあかないのかもしれない。
「う、ん……」
 グレタはおずおずと首をたてに振り、ツェツィーリエの部屋へと向かうことにした。


 ツェツィーリエへの部屋には数回しか訪れたことがない。そのいちばんの理由は彼女の愛称でもある『愛の狩人』にある。ツェツィーリエは魔王を退位したあとよく旅行へと出かけるのだ。
「おじゃまします……」
「はい、どうぞ」
 彼女の部屋は美しいもので埋め尽くされている。そんな室内を見渡しながら、グレタが「ここへ座ってちょうだい」と促されたのは三面鏡の化粧台。引かれた椅子に腰をかければ、向かいあうようにツェツィーリエも椅子にかけた。
「女の子の楽しみといえばお化粧だけれど、まだグレタには、早いしお化粧しなくても可愛いから今日は顔じゃなくてちがうところにお化粧を施しましょうね」
 言って彼女は棚から色とりどりの小さな小瓶のなかから桃色をひとつ手にとった。
「それ、なあに?」
「これは爪に塗るものよ。女の子は頭から爪先までおしゃれを楽しむことができるから楽しいわね」
 小瓶のフタをねじるとさきにはハケ状になっていた。それを瓶の縁で何度か慣らすとグレタの爪に塗りはじめた。
「ちょっと匂いがキツイのはがまんしてね。乾けば、匂いも収まるから」
「うん」
 塗られた箇所からきれいな桃色に染まっていく。まるで魔法みたいだ、とグレタは思った。人差し指から丁寧に塗ってくれるツェツィーリエの手をみながら、グレタは何度か口を開閉させたあと、ちいさく彼女に尋ねた。
「ね、ツェリ様」
「なに?」
「……あの、自分が嫌いになったり、みんなから嫌われてるかもって思ったこと、ない?」
 問えば、ツェツィーリエは穏やかな口調のまま「そうねえ」とグレタの問いに返事をはじめた。
「あるわよ。もうグレタはだれかに聞いたことがあるかもしれないけど、私がまだ二十六代魔王だったときはいつも思ってたわ。嫌われたくなくて、兄になにもかも任せて現実から目を背けたり、周りから陰口を言われているのを知ってたからほとんど部屋にこもっていたわ」
 彼女の息子であるグウェンダルにその話しは聞いたことがあった。眞王に選ばれたツェツィーリエだが、実質王の担っていたのは摂政である兄、フォンシュピッツヴェーグ卿シュトッフェルであり、その当時の彼女は失礼な言い方では眞魔国の象徴でしか過ぎなかったと。
 ツェツィーリエの過去に触れ、彼女を傷つけたいと思っていたわけではなかったグレタはいたたまれず、きゅっと下唇を噛めば「ああだめよ! そんなことをしたら唇が傷ついちゃうわ!」とツェツィーリエがあわててグレタに声をかける。
「過去のことにたいして、傷ついてないといえば嘘になるけど、べつに隠しているわけではないの。……まあ、嫌味っぽく尋ねられるといやだわとは思うけど、私には過去をくちにすることもひとつの償いだと考えているから」
「つぐない……?」
「ええ。過去の過ちは決してなくらないもの。私のことを嫌いなひとだっているでしょうね。でも、そんな私をちゃんと受け入れてくれるひとがいるから」
 言ってツェツィーリエはグレタに視線をあわせる。
 自分がなにで悩んでいるか、おおよそ彼女は検討がついているのかもしれない。
 グレタはツェツィーリエのはなしの続きを待った。
「こんなことをいえばユーリ陛下に怒られるかもしれないけれど、だれにでも愛されるっていうのは難しいのよ。どこで相手の心を傷つけているかなんてわからないもの。みんな好きと嫌いが違うんだから。どう上手く振舞ったって、いやだと思うひとはいるし、なにより自分が生きるのが難しくなっちゃうわ。だからね、まずは自分らしい自分を受け入れてくれるひとを信じなきゃだめだと思うの」
 話しているあいだに右手の指が塗り終わり、今度は左手の爪にツェツィーリエは色をのせ始めた。
「それにもういいよ、許すよ。という相手を信じなきゃだめ。信じなければ、相手の想いに向き合っていないことになるわ」
 穏やかに話すツェツィーリエのことばのひとつひとつがグレタの心に沁み込んでいく。
「……ねえ、グレタはいらない子じゃない?」
 けれど、不安は拭いきれなくてとうとうグレタはぽつりと、本音の欠片をこぼした。
「少なくとも私はいらない子だなんて思わないわ。自分の息子たちもかわいいけど、女の子も欲しかったし、私にとってグレタは孫みたいなものね。なんでもしてあげたくなっちゃうもの」
「ユーリにあんなことしたのに?」
 ひとたび不安をくちにすると、ずるずると芋づる式は胸に秘めていた想いがこぼれていく。心のどこかで吐露する自分に歯止めかけろ、と言われても自制がきかない。
「さっきも言ったけれど、過去は消せないわ。あのときのこととあなたが向き合うことが大切よ。なにより、いつまでもその罪に捕らわれては。悪いことをしたと反省して俯いていてもなにも変わらないもの。後悔したのならこれからさき、どう自分が変わっていかなければ考えないと。それこそが私は一番の償いだと思うわ。……さ、できたわ。見て?」
 可愛らしいでしょう、と言われた自分の爪先は桃色に染まりツヤツヤと輝いている。
「気にいってくれた?」
「うん……っ」
 グレタがこくん、と頷くとツェツィーリエは「じゃあ、これあげる」と桃色の小瓶をグレタの手のひらに乗せた。
「え、でも」
「いいの。これは私からグレタが元気になるおすそわけ。元気が出ないときはこれを使ってちょうだい。……ああ、それからはなしが戻るけど、あなたがいらない子かどうか、試してみましょう」
 そう言ってそれからツェツィーリエは立ちあがった。
「そろそろ会議も終わったころじゃないかしら。部屋の外にいる兵を連れて戻りなさい。いらない子だったらそんな子の爪までみないものよ?」


「――遅くなってごめんな! 待ちくたびれただろ!」
 ドアが開くなりばっと両手を広げてユーリはグレタを抱きしめた。温かくて優しい匂いが鼻腔を掠める。
「私も会いたかったよ! ユーリ!」
 同じくグレタもユーリの背中に腕をまわす。数十分前まで笑えなかったのが嘘のようにグレタの顔には自然と笑みが浮かぶ。
「今日はグレタが帰ってくるっていうから、昨日コンラッドと一緒に城下町で美味しい紅茶とお菓子を買ってきたんだ。ヴォルフラムもあとすこししたら合流するっていうからさきにテラスでお茶しよう! ……あっ!」
 テラスへと誘うユーリがグレタに手を伸ばした瞬間、声をあげ、グレタの手をとった。
「すごく可愛いね! グレタ、マニキュア塗ったんだ!」
「まにきゅあ?」
「ああ、ごめん。爪に色を塗ったんだねってこと! 桃色、とってもグレタに似合ってる」
「あ、ありがとう……っ」
 言われてグレタは思わず泣きそうになった。
 この爪の色に気がついたのはユーリだけじゃない。ツェツィーリエの部屋をあとにし、護衛についてくれた兵やすれ違う侍女もすぐに気がついてくれたのだ。
『かわいいですね!』
『とても素敵です!』
 だれも自分のことなんて興味がないと思っていたのに。
 もとより今日は悲観的だったから、というのもあったのだろけれど、それでなくても『自分を見てくれている』というのはなによりグレタの心を動かした。
「……グレタ、どうかした?」
「え?」
「なんかぼうっとしてたから」
 心配そうにかおを覗きこむユーリにグレタは首を横に振る。
「ううん、なんでもないの! やっぱり、グレタはユーリの娘でよかったなって。それからみんなのこと大好きなんだなって思ったの」
 グレタは言って「テラスに行こう」とユーリの手を引いてコンラートの待つテラスへと歩き出した。
 ……これからさき。今日と同じように悩んで、悲観的になることがあるだろう。
 でも、そんなときはツェツィーリエにもらった小瓶を開けよう。
 ようやく彼女が部屋で話してくれたことひとつひとつが理解できたような気がする。
 些細なことかもしれないけれど、いまの自分が嫌になったら変わればいいのだ。爪を塗ったり、服装を変えたりおしゃれをしてみる。そうすれば、いまとはちがった世界がみえるきっかけになるのかもしれない。
 過去に犯した罪は消えない。だからと言っていつまでもそれを悔いて、許してくれるという相手の言葉を信じられないことこそ、自分の罪から逃げていた。
 相手の言葉を信じ、これからの自分が許してくれた人たちになにを返せるのか、考えなければならない。。
「おれも、グレタのこと大好きだよ!」
 握り返してくれるあたたかい手にグレタは一層笑みを深くし、前を向いてまた一歩踏み出した。
 新しい自分になって。

END

[ prev / next ]
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -