■ 片恋者が月を見上げた日のはなしをしようか。1



 夏は、どんな季節よりも音が溢れている。四六時中セミが鳴いて休み時間になれば冷えた廊下の床に笑い声が反射していく。けれどその反面にぎやかな音は授業中になると閑散とする。
 なにをせずとも暑いのに未だ冷房の使用が許されていない教室はすべての窓が全開で、生ぬるい風が教室内を泳ぎ、生徒たちの眠気を誘う。
 有利の席は黒板からいちばんはなれた窓際の席だ。そこは眠るのには最適な位置で、先生の声も心なしかぼんやりとしている。
 深緑の黒板に浮かぶ白い文字を追い、ノートに書きうつす気力もなく、有利はぼんやりと校庭を眺めた。どこのクラスも月曜日は六限目の授業に体育がないらしい。ミンミン、ジワジワと鳴くセミの声だけが校庭に響き渡っている。うるさいと思うセミの声もどういうわけか、その声だけだと静寂を思わせるから不思議だ。
 あちらの世界――眞魔国で夏と呼ばれる季節は、湿気がなくカラリと晴れている。べとついた汗のかくこともなくキャッチボールを楽しめることを思い出すと眞魔国の生活が恋しくなる。クーラーがなくとも適度に心地良い風は吹くし、仕事が終わればコンラッドがキャッチボールに付き合ってくれたり、どこか避暑地へ連れ出してくれるのだ。それが、あちらで過ごすたのしみでもあり苦行でもある。思い出して有利はちいさくため息をつき、ワイシャツのなかにある青い石を握りしめた。
 ……この気持ちを、吐露するつもりはない。なんて言えばいいのかも、わからない。――同性に恋をするなんて不毛だ。もとより確率の低い恋なのに、同性ともなれば叶うことなどゼロに等しい。いっそ、それならばセミになりたい。七日で終える命。想いをぶつけてわんわんと泣きあかしても七日目には眠りにつくことができるし、想いをいわずともやはり七日目には人生に終止符を打つことができるのだ。……なんて、退屈をしているとくだらないことばかり考えてしまう自分に自己嫌悪する。
 有利は、校庭から目を黒板に目をうつした。気をとりなおして授業を受ければこのどうにもならない気持ちに向き合わなくて済むかもしれない。シャーペンを持ち理解できない英語をノートに書き写していく。が、もやもやとした気持ちが晴れたと思ったのは数分だけだった。
「そういえば、きみたちはご存じですか? 来週の日曜日はスーパームーンが観測できるんですよ」
 暑さにだらけた生徒たちの気をひこうとしているのか突然先生がそんなことをくちにしたからだ。机に伏せていた数人の生徒が顔をあげる。
「スーパームーンというのは、月と地球との距離が通常よりも近づいてとても幻想的な大きな月が観測できる。満月というのは、からだにも感情にも影響を与えてくれるんです。満月というのは達成するエネルギーに溢れていて、いままでできなかったことを実行すると良いともされ……」
 先生は黒板に書いた文字の一部を消すとそこに丸い円を書き真ん中に月と書いた。授業から脱線したのかと思った生徒がまた数人黒板に目を向ける。英語の授業というのは有利と同じで気ののらない生徒が多いようだ。顔をあげる生徒が増えると先生はちょっとだけ嬉しそうな表情をみせた。
「もしいま好きなひとがいるなら、この日に告白してみるというのもいいかもしれませんね。読んだことがあるかはべつとして、きみたちも知っているかの有名な文豪である夏目漱石がむかし、私と同じように英語教師であったころこんなことばを残しています。これをきみたちは何と訳しますか?」
 月のとなりに先生は<I love you>と書き、恋愛のこととなると敏感な反応を見せるいまどきの女の子、渡部さんが「愛してる、です!」と声を弾ませて答える。
「正解。当時、夏目漱石の授業を受けていた生徒も『I love you』を『我君ヲ愛ス』と答えたそうです。でもね、もっとロマンチックで素敵なことばがあるですよ。夏目漱石はこう答えた。『月が綺麗ですね、といいなさい。それで伝わるから』とね」
 なんで月が綺麗ですね、で伝わるのかわからない。有利が小首を傾げると、同じことを思った生徒がいたのか察したのか先生は意味の説明とともにはなしを続ける。
「当時の日本は直接愛を伝える表現が一般的ではなかったんです。だから間接的にぼかすような言い回しのほうが当時のひとには伝わりやすかったのかもしれませんね。『月が綺麗ですね』は『大切なひとと見る月はいつもより綺麗にみえる』そんな気持ちを表現しているのだと言われています。二葉亭四迷は『I love you』を『死んでもいいわ』と訳したと言われています。英文ひとつとってもいろんな日本語訳があるんですよ。……さて、みなさんは『I love you』をどのように訳すかこれを宿題にしましょう。それでは今日の授業はここで終わり」
 先生のはなしとチャイムが絶妙なタイミングで終了を告げ、みんな笑いながら席を立つ。さすがは英語を教えるのがうまいと評判のある滝田先生。授業が終わるとみんな自分ならどう訳すかという話題で帰りの会が始まるまでもちきりとなった。
 そんななか、有利はノートに書いた宿題の英文<I love you>を見つめまたひとつため息をついた。


 ジリジリと焼きつける夕日から背を向けて帰り道を歩く有利のあたまのなかは満月のはなしとI love youの訳がぐるぐるとまわっていた。
 満月については、彼が地球の世界にこなければなんの意味もない。それに満月が出て気持ちが通常よりも高ぶったところでどうにかなるものではない。どうにかしようとも思っていない。
 それよりも問題はI love youの訳だ。恋……と言うものを自分でもよく理解できてはいないし、告白さえしたことない自分が、間接的に情のあることばで表現するのはむずかしい。ことばは分厚い辞書が何十冊も発行されるくらいにあるというのにどうしてたった一文、一言を探すのさえこんなにも困難なのだろう。
 道端に転がる石を蹴飛ばしてI love youの意味を探す。ミンミン、ジワジワ鳴くセミが探したところでそんなことは無意味だと言っているようだ。
 重い足取りで、遠回りに河川敷を歩く。流れる川はまぶしいほどキラキラと太陽のひかりを吸収し、反射して有利は目を細めた。キラキラとひかるそれは、恋をしたばかりの自分によく似ているような気がする。なにも考えず、新しいもの(感情)を手にして喜んでいるはずかしい自分に、とても。
 有利は足をとめ、河川敷の草に腰を落とした。こうしていると、目に見えるものすべてが別世界のものに感じる。夜のにおいを混ぜたやわらかい風が頬をすべると心地がよく自然とからだのちからが抜け、気がついたときには草に寝そべり有利は目を閉じていた。
「こんなところで、居眠りは関心しないなあ。渋谷くん」
 突然、頭上から名を呼ばれ、有利はパッと目を開くとそこには仁王立ちになった滝田先生がいた。
「……滝田先生?」
「渋谷くんは、私のことをタッキーとは呼んでくれないんだね」
 滝田先生の愛称のひとつにタッキーという名がある。ここらへんの高校の教師のなかでは、格好いいとよく噂されていて愛称に名前負けのしないところがすごい。そんな先生のちょっと残念なところは通勤が自転車だというところだ。一見完璧にみえてどこか抜けているのは、あの男に似ている。
「となり、いいかな?」
 有利の返事も待たずに滝田先生は、自転車を止めるととなりへと腰掛けた。
「よいしょっ、と。……ああ、いい風が吹いてるね」
 とても気持ちがいい。
 先生はこどもように腕をぐんと空へと伸ばして、川でキラキラと輝く光の粒をみつめている。まぶしくないのだろうか。
「滝田先生は、なんでここに?」
「ここは私の通勤している道だからね。今日はとくにたまった仕事もないし……それに、きみがとても悩んでいるようにみえたから気になって声をかけた。もちろん、居眠りして犯罪に巻き込まれたらいけないし」
 さきほどの有利と同じように滝田先生は草のうえに寝ころぶ。
「……悩んでいるように見えましたか?」
 尋ねると先生は「ああ」と答え「少なくともここ最近はずっと悩んでいるようにみえましたね」と言った。
「みんなとはしゃいでいるときもふとしたときに、瞳が陰ることがあったし、今日の授業もうわの空でしたから」
「すみません……っ」
 授業中の集中力が散漫してことはしっかりばれていたようだ。有利は、申し訳なさそうに謝る。
「いいや、気にしないで。私も高校生のころはきみと同じようなものだったから。……なにより、恋をすればそれで頭はいっぱいになるものさ」
「えっ」
 驚いて、先生のほうをみれば「おや、違っていたかな」と小首をかしげられ有利は呟くように「そうじゃないけど……」と答えた。すると滝田先生は「青春ですね」と言った。
「初恋?」
「……」
「べつに答えなくてもいいですよ。でも、初恋や高校生で芽生えた恋は大切にしてあげたほうがいい。それはこれからさきもずっときみのなかにありつづける。私は、そうだよ。言わないのも淡くて切ない思い出になるだろうけど、言ったほうがいいと思いますよ」
 後悔はすくないほうがいい。と、先生はいつかの時間を思い出しているようなどこかぼんやりとした声音ではなしをする。
 言わずに、行動せずに後悔したこと。目を閉じて浮かんだのは、燃えさかる教会。自分に背を向け、片方の腕を床に転がし、気丈としていた男の姿。
 ――アノトキ、カレヲオイテイカナカレバ。
 ――モットチガウミライガアッタ?
 後悔しても、いいことなどないことはよく知っている。
「……でも、怖いです。あのひとと自分は、立場もそこにある絆それらが全部ふつうじゃないから。言えばどうなるかくらいわかってるんです」
 王と臣下。名付け親と名を貰った子供。友情ではない家族に近い絆。そして同性であること。このふたつの手や指では支えることも数えることもできないほど重くて多い。
「振られるだけならまだいい。でも、そのつぎの日から変わってしまう。あのひとの行動はふたつ。おれの目の前から消えるか、なにごともなかったように笑顔を向ける。一定の距離を置いて」
「それが怖い?」
「当たり前でしょう……」
 わずかに苛立ちを込めて有利は言い、先生を睨んだが、先生はやわらかく笑う。それが、どうしようもなく恋い焦がれる彼に似ていて背筋がぞくりと震えた。
「渋谷くんは何歳?」
「……十六ですけど」
「日本男性の平均寿命は七十九歳。これでいくときみはあと六十三年生きられる。私は後悔しないほうがいいと言ったし、高校生で芽吹いた恋は、一生の思い出になるとも言いました。意味わかる?」
「いいえ……」
「告白しても、後悔しても、怖くてもきみは死なないってことさ。人間っていうのは強いから。いままでも後悔したことあるでしょう? 死にたいと思ったことだってあるでしょう? でも、きみは生きてる。それはきみの知らない心のどこかで明日に希望を持っていて、すこしずつ良くしていこうと無意識に行動してるからですよ。だから、昔の後悔はちいさくなっていまはちがうことに悩むことができる。言ってしまえばいい。きみはどうせ明日も生きているし、そのうちまた笑ってるから。――怖いことはなにもない」
 滝田先生の言っている意味がよくわからない。でも、なんとなくそうだなあと理解ができた。そうだ。あのあとも自分は笑ったこともあったし、良くしようと行動もしていた。
「滝田先生は、先生だったんですね」
「ひどいですね。私は熱血先生なんですよ。生徒のことをいちばんに考えてるんです。……すこしは気持ちが落ち着いたのならそろそろ、家に帰りなさい。家族が心配していますよ」
 先生は立ちあがって、背中や尻についた草を払いながら自転車のもとへ歩いていく。それに続くように有利もからだについた草を払い帰り道へと足を向けた。
「なんだか、元気でました。先生ありがとうございます。いままで滝田先生のこと近寄りがたいなって思ってたんですけど……こんどからタッキーって呼んでいいですか?」
 尋ねると先生は、自転車のサドルに跨りながらまた笑みを浮かべて「もちろん」と答えた。
「渋谷くんの<I love you>の和訳たのしみにしてるよ」
「ええ、期待しててください」
 有利は答え、キラキラと輝く川を見る。もう、眩しくても目を逸らすことはなかった。
 期待をしててください、なんて言ったが正直まだなにも思いついていない。
「では、渋谷くん。また明日」
「タッキー」
「はい?」
「タッキーは、どこかおれの好きなひとに似てます。それじゃあ、また」
 それでも<I love you>とだけ書いた文字のよこになにか書けるような気がした。
 さきほどよりもずっと軽くなった足取りで、有利は歩きはじめる。滝田先生には申し訳ないが、家には帰るつもりはなかった。
 目指すは、もうひとつの故郷。彼の待つ、愛しのホームグラウンド。




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