■ サイドカー



 それは単なる出来心だった。好奇心だった。
 自室に戻りおそらく新作のあみぐるみを制作しているであろう王の摂政を務め終えたグウェンダルの元に彼の部隊に入隊している絶大なる信頼をおかれているグリエ・ヨザックが任務を終えて報告するために城内を歩いていた途中でユーリは偶然出くわした。
 ユーリもグウェンダルとともに王の役目をとして山積みになった書類の整理を終了して 執務室から自室に帰る途中であった。
 ヨザックとはこちらに帰還して二週間経ってやっと顔を合わせたこともありユーリは自然と手を彼に向けて手を振り呼びかければ、向かいからヨザックは同じように手を振り足早に自分の元へと駆け寄ってくれる。
 今日は普段執務が終了するとともにユーリの自室まで護衛してくれるコンラッドは定期的に行われる兵の指南におもむいていて不在だ。本来ならばこんなとき王であるユーリはほかの兵に護衛をしてもらわなければならないのだが、もとより王としての実感はあるが危機管理は地球で長年過ごしていたのもあり薄く、グウェンダルに釘を刺されていたものの兵を呼ぶこともなくひとりで廊下を歩いていた。ユーリの性格を理解しているヨザックはそんなユーリを困ったように笑い「閣下に御報告をするまえに坊ちゃんを自室までお送りさせていただきますよ」と付き添ってくれた。
「ありがとう、ヨザック。これで、グウェンダルやコンラッドに怒られないで済むよ」
 ユーリが言うと、ヨザックは喉奥でくっと笑いそれから大窓を指さした。
「閣下は自室にいるから大丈夫でしょうけど、隊長はだめでしょ。ほら、あそこ。こっち見てたみたいですよ。あらやだ、笑顔が怖い怖い」
「げ」
 ヨザックが指が示した窓から外を見れば、剣の指南が終わったのかコンラッドが城へと向かう途中の姿が見えた。彼の視線はしっかりとこちらを捕らえていて、思わず、ユーリは一歩後ろへ下がる。
「うわあ、これはやばいな」
「あとで、怒られますね。坊ちゃん」
「うう……」
 自室で小言を言われるのがすぐに思い浮かんでユーリはうなだれた。まあ、ひとりで部屋へと戻ろうとした自分が悪いのだから文句は言えない。
「まあ、なんだかんだお説教受けたあとはいちゃいちゃするんだからいいんじゃないんですか」
 まるで童話に登場する妖しげな猫のように、ヨザックはにゅっと笑顔を深めてユーリの肩を叩いたあと、「あ、」と声をあげた。
「今晩、隊長貸してくれません? 帰っている途中で、元隊長の兵の奴が城下町で酒場を開店させたって聞きまして、飲みに来てって言われたんですよ」
 元、というのはおそらくコンラッドやヨザックがルッテンベルク騎士団と呼ばれていた時代の仲間なのだろう。まえにコンラッドにそのころの話を聞いたとき、生き残ったものは少ないと寂しげな笑顔を浮かべていたのを覚えている。そんな数少ない仲間と酒を飲みかわすのはきっと楽しいだろうとユーリは思い、すぐに首をたてに振ればヨザックは意外そうな顔をする。
「坊ちゃんはあの男と違って心が広いんですねえ」
「は? だって仲間と酒飲むんだろ。心が広いとか、関係ないんじゃない?」
 と、返答すれば「やっぱり、坊ちゃんは純粋というかなんというか……」とヨザックは苦笑してみせた。
「もちろん、それが中心でしょうよ。でも、酒場っていうのはひとり身の寂しさを紛らわすために飲みに来たり、出会いを求める男女が集まってくるんです。いまや隊長の心は坊ちゃんただひとりのものですけど、あいつはモテる。女の匂いがついたらどうするんですか?」
 そう言われて、思わずユーリは顔を顰めた。ヨザックが言うようにコンラッドは夜の誘いがあっても乗ることはないだろう。けれども、匂いが移ったそのからだで自分の元へと帰ってくることを想像すると気持ちがあまりよくない。
「……って、そんなこと言ってヨザックはおれにコンラッドを行かせるなって言って欲しいの? そりゃ、嫌な気持ちにはなるけどさ。そんなことだけで久しぶりに友人と酒を飲みかわすことに断りはいれたくないよ」
「ふうん。坊ちゃんってば思ったより大人なのね。それじゃ、お言葉に甘えて今夜は隊長借りていきますよ」
「うん」
 気がつけば、部屋のまえについていてはなしこんでしまった。
 短い距離だか、護衛をしてくれたヨザックにお礼を言うとユーリは部屋に入り、歩を寝台に向けて迷いなく進めるとそのままうつ伏せに皺ひとつないシーツにダイブした。生涯酒を飲むことをしないと決めているのだが、ときおりその気持ちが揺らいでしまうときがある、とても簡単に。気持ちが揺らいでしまうときはこういうときだ。自分も飲めれば余計な心配などしなくて済むのだから。ヨザックに心が広いといわれるほど本来の自分はそうでもない。
 なんだか気分が悶悶としてきた。
 ごろん、と寝がえりをうつとふと寝台の横にあるサイドボードが目に入る。サイドボードにはともにスタツアをしてきた学生鞄がある。
 そういえば、鞄のなかに……こちらにくるまえに入れたものを思い出して、ユーリは鞄を開けるとあるものを取り出した。たまたま友人とその彼女の買い物に付き合った際に貰った口紅の試供品。綺麗なピンク色をしていて、ツェリ様に渡そうと思っていた品。こちらの世界にも口紅はある。コンラッドもまた、もしかしたら今晩艶やかな口紅をつけた女性と飲みかわすことがあるのだろうか。
「……シャツとかに口紅のマークがついてたらどうしよう」
 あの男はいい訳でもするのだろうか。と、そこまで考えて突然ユーリの好奇心が頭をもたげた。じっと、口紅の試供品を見つめていると扉をノックする音が聞こえる。
「陛下、入りますよ」
「はい、どうぞー」
 そそくさと試供品をズボンのポケットにしまうとドアが開く。姿を現したのは、未だに不適な笑顔を浮かべているコンラッドだった。
「……そういう怖い顔するのやめてくれる? 次回からはちゃんと護衛をつけるからさ」
「そう言って何度かあなたがひとりで自室に戻るところを目撃してるんですが……まあ、今回はすぐにヨザックが護衛をしてくれたみたいなのでもういいませんが。それは、ヨザックから貰ったんですか? 焼き菓子」
「うん、一緒に食べようよ。訓練疲れたでしょ」
「お気づかいありがとうございます。では、紅茶用意しますね」
 ありがとう、と礼を言うとコンラッドが用意してくれている小さな円卓テーブルの席へと移動する。それからさきほどヨザックに言われた話をすると一瞬眉をしかめ「行きません」と言っていたが、ユーリが「たまには息抜きをしてきなよ」と何度か言えば折れたように「それでは、お言葉に甘えて」と答えた。
「すぐに帰ってきますね」
「そんなおれに気を使わなくていいのに」
「あなたといることが俺にとって一番の癒しなんですよ」と事もなげにコンラッドは口にする。酔っていなくても平然にこのようなキザな台詞が出るのだから思わず頭を抱えたくなってしまう。
 このタラシめ。
 ユーリは心のなかで毒づく。
 まあ、キザなセリフにいたってはいまに始まったことではないのでいまさら悪態ついても仕方がない。ユーリは焼き菓子を貪りながら、ポケットを触った。


* * *


 そうして、ゆるやかに時は過ぎ、空は暗く夜を迎えた。
 ユーリはコンラッドの自室を訪れていた。とくになにをすることもなく他愛もないはなしをしてコンラッドはいま、浴室でシャワーを浴びている。
 浴室に入ったばかりだからすぐには部屋には戻ってこないだろう。ユーリはポケットに入れていた試供品を取り出し化粧品を指でなぞるとそれを自分の唇に塗る。鏡を見る暇もないので唇に塗ったそれはかなり不格好であろう。が、それは気にしない。とりあえずちゃんと唇についていればいいのだ。
 普段リップクリームもまともにつけないので、かなり唇に違和感を感じる。すぐに 拭いたい衝動を抑えてユーリは口紅を塗り終えると極力足音を押さえて浴室場へと向かう。そこにあるのは、コンラッドの着替えのシャツだ。そろり、とそれを手にとるとやはり軍人というべきかユーリの気配に気がついたコンラッドが扉越しに声をかけた。思わず、びくりとからだが震える。
「ユーリ、なにをしているんです?」
「あ、いや、なにも。やっぱり出掛ける服はいつものやつなのかなって思って、気になっただけ。これじゃちょっと寒いんじゃないの? 上着も着てったほうがいいよ」
 彼の心配をしているそぶりをしながらユーリは考えていたことを実行に移すとすぐさまシャツを折りたたむ。それから口紅を落とせば、コンラッドが浴室から現れた。やったことがばれないようにシャツは自分で持ったままだ。
「今日はおれが着せてあげるよ。上着も選んであげる」
「それは嬉しいサービスですね」
「たまにはね」
 コンラッドが髪や肢体をタオルで水滴を拭うと鏡に彼の姿が映らないよう注意しながら服を着せていく。「なんだか新婚さんみたいですね」なんてふさげたことを口にして部屋の扉を開けるときにキスを強請る男に渋々付き合い唇を合わせるとやっとのことでコンラッドは出て行った。
「……さてあとは、」
 あとは、コンラッドの帰りを待つだけだ。
 彼はどういう態度をのちに自分に見せるのか。楽しく酒を飲んで来るのだからこれくらいの意地悪をしても罰は当たらないだろう。ユーリは彼の帰りを待つことにした。自室の寝台で眠るよりも一回り小さな寝台の彼の匂いのするシーツに包まれると意外にも早く睡魔が訪れた。



 ――それからどれくらい経ったのだろう。ふいに肩を揺さぶられてユーリは目を覚ました。ぼやけた視界を瞼を擦りクリアにすれば、そこには困った顔を浮かべた部屋の主がいる。酒臭い。
「ユーリ、」
「ん、おかえり。コンラッド。楽しかった?」
「ええ、おかげさまで」
 おかげさまで、というわりには顔が苦笑いなのはなぜなのか。ああ、自分の作戦が成功したのか。ユーリはし掛けたことを思い出して口角を吊り上げれば突然唇を貪られた。舌を差し込まれて、アルコール臭いにおいと唾液が口内を蹂躙される。飲み込みきれない唾液が口端を伝ったあとやっとのことで口が離れた。
「な、にするん、だよ……」
 ユーリが眉根を顰めて言えばコンラッドは「それはこちらのセリフですよ」と微かに瞳の奥に熱を帯びたまま上着をめくりとある場所を示した。左胸のあたりを。
「ユーリ、こんなところにキスマークをつけるなんてどういうおつもりですか?」
「え、なんで」
「ばれたのか、と言いたいんですか? わかりますよ。あなたのことですから。誰がこの唇に触れていると思っているのですか」
「だからなんでそんなくっさいセリフを簡単に口にできるんだよ……」
「ユーリ限定で言っているんですよ」
 意味ありげにコンラッドはユーリの唇を人差し指でなぞる。さきほど、キスでからだには熱がこもっていてそれだけで肢体が震えてしまう自分がすこし情けない。酒を煽ったからあとだからか無駄に色気も出ているこの男が悪いのだ。自分のし掛けたことがすぐにばれてしまったことにも腹が立つ。
「……あんたのことだから、きれいなお姉さんに抱きつかれてキスマークでも付けられたとか誤解して動揺しているあんたがみたかったのに」
「違う意味で動揺しましたよ。こんな可愛いことをしてくれる恋人がいるのにおちおち酔っていられません」
 そういって耳元に息を吹きかけられる。酒を飲んだ男がした濃厚なキスのせいでこちらまで酔ってしまったのか、からだを倒されても抗うことができない。ゆっくりとボタンが外されていく。
「……ねえ、ユーリ。セックスしたいんですが」
「ですが、って最後に疑問符がついてないのはなんでかな?」
「なんででしょうね? いいんですよ、断っても。キスマークつけたお仕置きってことで始めますから。あなたが、了承くださればとても優しく愛撫して、愛してあげますけど……どちらにします?」
 と、いうことはここで首を横に振れば鬼畜に攻め立てられるってことなのだろうか。
 すでにユーリのからだにはキスで火がついている。答えはもう決まっていた。
「すっごく優しくしろよ」
「ええ、あなたから卑猥な言葉で俺を強請るくらい優しくします。ああ、それと今度からはこちらにキスマークを付けてくださいね」
 コンラッドは自分のシャツをはだけるとキスマークをつけた左胸を指で示した。
「こちらなら洗っても落ちませんし、だれにも見られる心配はありません」
「だれもそんな心配してねえよ!」
 こういう展開を望んでいたわけではないのに。いつもよりコンラッドの押しが強く、言葉が甘いのはやはり酒で酔ったせいなのか。どうでもいいことを考えていると、ユーリの考えを読み取ったかのようにコンラッドはユーリの首筋に顔を埋めながら腰が砕けそうな声音で呟いた。
「あなたのキスマークはアルコールよりも俺を酔わせるんですよ」と。


END

サイドカーはカクテルの名前から。運転手よりも同乗者のほうが被害を受けるところから名前の由来が来ているそうです。今回は運転手(コンラッド)よりも同乗者の(ユーリ)が被害を受けた感じで。ユーリからし掛けたので被害って言わないかもしれませんが……


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