■ カレノニオイ

 自分が最低なことをしていることは、わかっていた。
 でも、それを止める理性は、あのときユーリにはなかった。手が、のびる。そして、掴んだ。
 本当に、自分は最低な人間だ。
 と、思う反面手に取ったものに顔を埋めている瞬間は、驚くほど胸が歓喜に騒いで安堵していた。
 ばれない。おそらく、ばれやしない。コンラッドが、自分を疑うことなんて、しない。
 コンラッドの信頼を利用して、このようなことを思う自分は果して彼に好かれる価値がある者だろうか。思い、ユーリは泣きそうになるが、この衝動を止められることはやはりなかった。
「ごめんな、コンラッド」
 この場にいない彼に謝罪する。決して、面を合わせて言えない謝罪を。
 ユーリは手に取ったもの……コンラッドの白いワイシャツを大事に鞄に詰め込むと、すぐさまコンラッドの部屋をあとにし、逃げるように大浴場へと向かった。
 逃げるように、ではない。自分は、逃げたのだ。
 数週間は、眞魔国へ、コンラッドのもとへ帰らない決意をしていたのだから。

 
* * *


 地球に戻ってからのユーリの行動は、異常だった。
 極力、水には手を出さないようにし、食事は料理と置かれるコップに注がれた水を避けるようにひとりで食事をし、風呂はどうかスタツアをしませんようにと祈るようにシャワーを浴びてすぐさま出る。察しのいい友人、村田にも自分の心境を読み取られないように避けて、過ごしてもう数週間になる。
 こんなことをしても、家族や村田。それから眞魔国にいるみんなを心配させるだけだとわかっている。そして、こんなことがずっと続くわけではないことも理解していたが、ユーリはいまのことだけを考えることに専念した。
 そうして、長い一日を終えるとベッドに彼のシャツを広げて、床に膝をついた。これもまた、あの日からのユーリの日課になっていた。
 ベッドにのせた彼のシャツに顔をうずめ、パジャマのズボンに手をしのばせる。
「……ん、」
 コンラッドの顔、声、体温、すべてを想像して、下着のうえから秘部を撫でた。徐々に陰茎に熱が集中して、甘い快感がからだじゅうを巡る。自然と口が開いて浅ましい嬌声がこぼれ落ちるのをユーリは下唇を噛み殺す。血盟城にある自室とは違い、こちらの部屋の壁は薄く気を抜けばとなりの部屋、兄に聞かれてしまうかもしれない。
 コンラッド。コンラッド。
 頭のなかで恋人の名を呼べば、衣越しに触れていた陰茎がさらに熱を持つ。ユーリはそれを下着から取り出すと裏筋を擦り、くびれや鈴口に爪をたてた。すると快感に従順なからだは先走りの量を増やし、愛撫をする手の動きをより淫猥にさせる。
 鼻で息を吸う。コンラッドの体臭がからだを刺激する。もう数週間は経っているのだからにおいなどしないとは思う。これは幻臭だ。理解しているが幻臭であっても彼のシャツでユーリは充分興奮を覚えている。
 口端からこぼれた唾液がコンラッドのシャツを汚す。そのことに対して罪悪感を持ったのははじめのうちだけで、いまはなにも感じなくなってしまった。どうせ、このシャツを彼に返すことはないのだから、と言い聞かせて感情が麻痺してしまったのかもしれない。
 やがて、自分を追い詰める手の動きが早くなる。室内には、噛み殺してもこぼれてしまう荒い息と粘ついた水音が鼓膜を震わせた。
「コ、ン……ッド……っ」
 小さく愛しいひとの名を口にして、ユーリは熱を爆ぜた。途端に、肢体が脱力し、ぼうっと手のひらについた白濁を見つめ、とてつもない嫌悪感を覚える。
 毎日のように、自慰をしているなんてとんだ、淫乱だ。
 嫌悪感と虚しさがぐるり、ぐるりと胸のなかを暴れているような気がして、思わず左胸を押さえる。押さえても、意味がないのは知っている。
 自分のことを、素直だとか、純粋だと言ってくれるやさしいひと。
 本当は、こんなに自分は淫乱であると知れたらどうなるのだろう。コンラッドは、きっと、落胆するに違いない。
「なにやってんだろ、おれは……」
 近くにあるティッシュで汚れた手を拭いて、そのままベッドへとからだを沈める。
 彼と出会うまで、自分は性欲に対してたんぱくだと思っていた。友人と猥談で盛り上がったり、AV鑑賞をしたりしたが自慰をするほど興奮を覚えたことなどなかったからだ。ゆえに、コンラッドと恋人になっても、そういうところはあまり変わらないと思っていた。たしかに、キスやセックスをしたときは彼と恋人同士になれたことに喜んで、驚くほど感じてしまったけれどそれとこれとは、はなしが別だ。
 一緒にいるだけでは、たりない。
 隣にいるだけでは、手を繋ぐだけではたりないと思うようになってしまったのはいつからだろう。
 やさしい彼は、きっと自分がやましい想いを抱えていることを知らない。
 コンラッドが、時折意味ありげにユーリの頬に触れることがある。その瞬間「あ、キスされる」とわかって自然にからだが期待に震える。
 だが、彼の唇が押し当てられることはない。
『すみません。ちょっと、恋人になったからと言って浮かれていますね。自分は』と、期待で震えた自分を緊張していると思ってか、普段の笑顔を浮かべて手を離し『ユーリを怖がらせてすみません』と言う。
 そんなことはない。キスもそのさきもしたい。
 正直な思いを口にして自分から彼を誘えばいいことだと思うが、愛してると愛の言葉さえ言うことがままならない臆病な自分が誘うことなどできなかった。
 もっと強引に誘ってほしい。自分の考えていることがわかるというなら察してほしい。
 と、行動に起こせない自分を棚に上げてそんなことを思い、付き合いだしてからの二ヶ月のふたりの関係は健全過ぎていつしかコンラッドにたいして不安を覚えるようになった。
 キスは数週間に一回。セックスをしたのはまだ一度だけ。
『あなたを抱ける日がくるなんて夢みたいだ』と言ってくれたのは嘘だったのか。いや、嘘ではなくコンラッドの態度が恋人の在るべき姿なのかもしれない。ヨザックは彼のことを夜の帝王と称したことがある。コンラッドにとっては、キスもからだを重ねる喜びももうとっくにあたり前のものなのだろうか。
 恋人になって浮かれて、なんの発展もないことに焦りを感じているのは自分だけなのか。
 そう思うと、どんなに自分が幼稚な思考であるのか思いしらされて、やはり強請ることはできないのだ。
 しかし、それらの欲求は腹の底に溜まる一方で昇華される兆しは一切にみえない。それどころか時折ユーリは夢でコンラッドとまぐわう光景を見ては朝から頭を抱えることになる。夢精するなどどうしようもなさすぎる。けれど、昼夜問わずそのことが頭の片隅に貼りついてしまい、ついにユーリは手を出してしまったのだ。
 コンラッドのシャツに。
 最近では彼の香りにすら、興奮を覚えてしまいもう理性が追い付かなくなってしまった。
 このどうしようもない衝動が収まるまでは、眞魔国には帰れない。だから性欲が落ち付くまでこうしてひとり慰めている。
「……なのに全然落ち着かないなんて、おれはサルかよ」
 たしかに性欲は満たされる。が、それよりも自慰をしたあとはひどい焦燥感と罪悪感に苛まれるのだ。
「恋愛初心者には、あんたのやさしさがつらいよ。コンラッド」
 もっと自分を愛して、行動で示して欲しい。
 自分はもう、彼の香りを嗅ぐだけで頭がどうにかなりそうなくらい愛している。
 やさしさなんていらない。
 もっと暴力的に、愛して壊してくれたっていい。
 なんて思う自分はやはり思春期思考で幼稚で、ユーリは自傷的に笑うとコンラッドのシャツに顔を埋めてそのまま瞼を閉じた。



 目が覚めたのは、次の日の朝。インターホンが三回、それと母親が自分を呼ぶ大きな声で目が覚めた。
「ゆーちゃん!」
「いま、したにいく……」
 生返事を返して、ベッドから起き上がりサイドテーブルにある電子時計を見れば朝の八時。日曜日を表示がされていて今日が日曜日だということを思い出す。
 ロードワークに出かけるのは七時。昨晩、目ざましをかけ忘れてた結果一時間も遅い起床だ。母親はそれを心配してくれて起してくれたのだろうか。欠伸を噛み殺してパジャマのまま、とりあえず朝食を摂ろうとドアノブに手をかけて……開けて、閉めた。
「……」
「おい、渋谷! その態度はひどいだろ!」
 外側からドアを開けられて、思わず顔を顰める。
「村田……」
「おはよう、渋谷! 今日は清々しい朝だね! こういう日は、眞魔国へ行きたくなるよね!」
 自分との村田のテンションのあまりのテンションの違いに、頭が追い付かない。けれど反射的に『眞魔国』という単語はユーリを動揺させた。そうして、自分が失態を犯したことを知る。
 友人の顔していた村田の顔が、ユーリの心境を見抜いたように意地悪い笑みに変わる。この笑顔を浮かべたときの彼にろくなことがないことを、もう十分というほど経験上理解している。
「どうしたの、ウェラー卿とけんかでもしたのかい? 僕に言わないでひとりでさきにスタツアしちゃうなんて、ひどいな、まったく」
 ひどい、なんて思ってもないくせに。むしろ、面白がっているくせに。
 と、ユーリは思ったが口にはしなかった。村田は面白がっている反面、不機嫌であることは雰囲気でわかったからだ。
「ねえ、彼となにが起きたのか。どうしてひとりで帰っちゃったのか……教えてくれるよね」
 そう言って、村田はドアを閉めた。
 わかっていたことだ。何度もこのような結果のシチュエーションはしていた。
 水を極力避けても、村田やひとから距離を置いてもそれらはただ現状を引きのばすだけのことだと。
 けれど、ユーリはため息を吐かずにはいられなかった。
 ああ、目覚ましをかけておけばよかった。
 そうすれば、あと少しくらい逃げれたのに。


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