■ 月が綺麗ですね

「本当にコンラートは趣味が悪いな」
 膨大な資料の束を整理しているヴォルフラムが呆れながら言った。
カビ臭い書庫で黙々と作業するのも飽きたのでコンラートは「そういえば、つい先日彼女と別れたんだ」と言ったらばっさりと切り捨てられた。弟、ヴォルフラムは兄を慰める気はさらさらないようだ。
「ひどいな。これでもちょっとは傷ついてるんだけど」
「ちょっと、だろ。しかもさっき『そういえば』とも言った。気まぐれで思い出しだだけだろう。それにぼくは最初からあの女がコンラートと付き合うのは反対だったんだ」
「へえ、心配してくれていたんだ?」
 うれしくなって、つい声が弾む。
 書庫の大窓から見える外は、橙と紫が空を染め始めていた。街頭にもぽつぽつと灯りがともりはじめたからもうもうすこししたら長兄のグウェンダルがふたりを呼びにくるだろう。
「心配などではない! 毎回とっかえひっかえ肩を抱く女がぼくの兄の彼女だと思うと恥ずかしくて外に出れないんだ!」
 はなしながら興奮してきたのか、ヴォルフラムは徐々に声のボリュームを上げ、最後には拳で強く机を叩いた。山のように積み上げられた本や紙がぐらぐらと左右に揺れて、コンラートは慌ててそれらを支えた。
「ひとは外見で判断するものじゃないと思うけどなあ。それに別れたあの子はとても足がきれいだった」
 足のパーツモデルをしているの、と彼女が言っていたのを思い出す。
「足はたしかにきれいだった。が、顔をまるで魚みたいだった。気合いを入れてつけまつげなんかした日には、ぼくはあの女と深海魚が重なってみえた。あと、性格もあまりいいとは言えないと思うぞ。あいさつがまともにできない奴なんて」
 たしかに。
 彼女はあいさつや礼儀に関してはあまり褒めたものじゃなかったな。
 グウェンダルやヴォルフラムに紹介したときもなあなあだったような……指摘されてコンラートは気がついたが、もうすでに別れてしまったので彼女を立てるようなことを口にはしなかった。
 彼女には悪いが、さして好きだったわけではなかったし。
「正直、コンラートを見ているかぎりその場のなりゆきで付き合ったとしか思えない恋人しかぼくは見たことがない。もっと恋人は慎重に作るべきだ。貴様だけの問題じゃないんだ。恋人となった相手のことも思いやらなければいけないんだ。すこしはグウェンダル兄上を見習え」
 グウェンダルは幼馴染である女性、アニシナと付き合っている。巷では、アニシナは通称毒女と呼ばれるマッドサイエンストだ。研究者であり女性の味方。見た目も美しい。けれど、ことあるごとに研究の実験にされているグウェンダルを見ていると羨ましいとは思えない。お似合いのカップルだとは思うが。だが、とりあえずコンラートは「そうだね」と答えた。これ以上、ヴォルフラムを怒らせてせっかく整理した書類や本が崩れたら困る。
「コンラートはどんな女性が理想なんだ? 手当たり次第ではなくまとを絞ればもっといい出会いに巡り合えると思うぞ」
「そうだな……」
 言われてみて、そういえばそんなことを考えたことはなかったな、と気づく。ヴォルフラムの助言も一理あると思い、コンラートは理想の恋人を頭のなかで模索する。
「まっすぐで素直な子がいいな。笑顔が可愛くて、ちょっとエロい子。できれば、美人というよりもかわいい系がいい。太陽みたいに明るい子」
「バカでエロいなんてAV女優みたいな女だな」
 その世界で仕事をしている女性に聞かれた首でも絞められそうな発言にコンラートは微苦笑した。
「だから、理想だよ。理想。それぐらい夢みてもいいじゃないか」
 数百ページにもわたる膨大な資料を読み終えて、ファイルに閉じジャンルごとにわかれた棚に収納をしたとき書庫の扉をノックする音がした。
「コンラート、ヴォルフラム。日も落ちた」
 眉間にしわを寄せたグウェンダルが顔を出す。書庫整理終了の合図だ。
 カビ臭い書庫から一歩で新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込みながら、コンラートはグウェンダルに尋ねた。
「さっき、ヴォルフラムにも言われたんだけど俺って女性の趣味悪いかな」
 グウェンダルは眉間のしわを一本増やし一拍置いてから頷いた。
「……良くはないな」
 遠回しな言い方がじつにグウェンダルらしい。





 秋にもなると日が暮れるのが早い。いつもより早めに夕食を摂ったのだが、空はすっかり暗闇に包まれていた。けれど、視線を下げてみるとどこも明るい。街頭や家の明かり以外にランタンをもった子供がうろうろしていた。夜は昼間以上に笑い声がよく響く。
 窓から外を眺めながらコンラートは着々と身仕度を済ませていく。これから、仕事だ。
 見鏡の前で最終チェックをする。銀縁の細いフレーム眼鏡に、チャコールストライプのスリーピーススーツ。ネクタイはグレー。そのうえに黒のロングコートを羽織る。部屋をあとにしようとして忘れものに気づいた。ローテーブルに無造作に置かれたホルスターを掴み、腰に装着する。これを忘れては仕事にならない。
 部屋を出て、廊下のつきあたりにあるグウェンダルの部屋へと向かう。形だけのノックを二回をして開けると、グウェンダルはせっせと編みぐるみを作っていた。
「お邪魔するよ、グウェン。俺そろそろ行ってくるから」
「ああ、わかった。気をつけて行ってこい。今日はとくに人ごみに紛れてやつらが現れやすいからな。それと、机にあるそれを持っていくといい」
 作業の手は留めずに、顔をこちらに向ける。複雑な網目で作っているのに器用だと思う。編みぐるみ自体はぶたなのかねこなのかわからない顔だけど。
「気をつけるよ。まあ、今日現れるやつなんてほとんど無害なやつらばかりだと思うけど」
 いってきます、と机上にあるものを適当に掴んでロングコートのポケットに入れ部屋をあとにして外に向かう。ホルスターからちゃりちゃりと音がする。できれば、これを使わずにして無事仕事が終了すればいいのだが。
 コンラートはホルスターをロングコートのうえから、確認するように叩いた。



 外に出ると、室内で聴こえていた声がより大きく耳を刺激した。それからすぐ、声をかけられる。
「こんらーとおにいちゃん。とりっくおあとりーと!」
 視線をよりしたへ落とすとそこにはさんにんの子供がいた。吸血鬼とフランケンシュタインの格好をした男の子と魔女の格好を女の子。手にはカボチャをくり抜いて作った手提げを持っている。手提げには、色とりどりのお菓子がたっぷり詰められていた。
「いたずらされたらかなわないからね。これで許して」
 コンラートは、ロングコートのポケットに手を突っ込むと金貨の形をしたチョコレートを一枚ずつ、カボチャ手提げのなかに入れた。金貨のチョコレートはグウェンダルの机に用意されていたものだ。
「ありがとう!」
 お菓子いっぱいになったかぼちゃをうれしそうに抱えて子供たちははしゃぐ。
「とつぜん、すみませんね。お仕事中なのに……」
「いや子供たちもお仕事だ。気にしないでくれ、ハインツ。よかったら、俺の家に寄って行ってくれ。ヴウェンダルが菓子とプレゼントを用意しているから」
 少女の父親ハインツがうやうやしく頭をさげた。ハインツの頭には黒い獣の耳がついていて思わずコンラートは笑う。
「かわいい魔女の使い魔の仮装か?」
「ええ、いい年した男が黒猫の耳をつけるとは思いませんでした。しかしかわいい娘にせがまれてはね。のちほど、家に伺わせていただきます」
 愛おしそうにハインツは、少女の頭を撫でた。ハインツとは昔の仕事仲間だ。
「そうしてくれ。グウェンダルは見かけによらずかわいいもの好きだから、とても喜ぶと思う。今日は、ハロウィン陽気な夜に誘われてよくないものが現れるから気をつけて楽しんでくれよ」
「あなたに神のご加護を」
 ハインツは自分のことを思い言ったのだろう。「ああ」と答えて彼らから背を向ける。
 夜でよかった。
 コンラートは、口を手で覆う。
「神様のご加護ね。……神様なんて信じてないけど」
 この世に神様がいるのなら、神様は暴力や殺人を好むらしい。
 コンラートはもう一度、ホルスターを叩いて、賑わう大通りをあとにした。


 ――それから数時間が立つと、活気は波のように引いて家の明かりがちらほらとまばらになる。仮装をして家々を回る子供はみんな、ベッドのなかだろう。聞こえるのは、酒屋で飲みかう大人の笑い声だけだ。
「……俺も早く帰って、酒を飲みたい」
 寒いなか数時間も街を巡回していると飽きてくる。そういえばこの間、悪友であるグリエ・ヨザックから上等なウィスキーを貰ったのだ。帰宅したら、すぐに熱いシャワーを浴びて、ウィスキーをグラスの口いっぱいになみなみと注いで飲もう。帰りにコンビニエンスストアでいくつかつまみを見繕って。帰宅後の自分を想像しながら腕時計に目を移す。時計の針は十二時ちょっと過ぎを指していた。
 コンラートは来た道を戻ることにした。ここから家まで歩くと四十分くらいだろう。コンビニエンスストアに寄り、普段よりも歩くペースを落として行けばグウェンダルとの巡回交代する時間にちょうどいい。
 気まぐれに吹く冷えた風が頬を撫でる。仕事だとはいえ、まったく億劫なものだ。万が一のために今夜は通常より、念入りな巡回だったが心配していた輩は姿をみせなかった。彼らも思っていたより馬鹿ではないようだ。
「……いや、やはり過大評価だったかな?」
 コンラートはすぐに前言撤回をして苦笑した。なにもなかったことに安堵しながらもどこか期待をしていた自分を笑う。
 微かだが気配がした。
 わずかに歩くペースを速める。ふたつめの路地裏からだ。足音を消して存在に気がつかれないよう慎重に曲がると、複数の声がする。なにやら言い争っているようだ。
「夜遅くまで出歩いてるなんて、本当は構って欲しかったんじゃないの? こんな格好までしてさ」
 下心を隠そうとしない、男の粘着質な声。
「違うって言ってんだろ! おれは驚かせようとしただけなの!」
 それから、嫌悪感を隠そうとしない子犬を彷彿させる声。高いがソプラノほど高くはない。感じからして、おそらく少年だろう。路地裏の奥で言い争っているので、街頭のひかりが届かず大まかな予測しかできないが、会話を聞くかぎり九割方正解だろう。
「ったく、うるせえなァ」
 そのさきも予測は、していた。下心を隠しもせず猫撫で声。下手に出ているのはことばだけで本質は、絶対的に己が優位であると自信を持っている者が戯れを長く楽しむはずがない。
 パンッ! と音が静かな路地裏に響き一拍置いて壁にぶつかる音と、呻く声が続いた。
「――そこまでだ。こんな陽気な夜に無粋なことは似合わない」
 ホルスターからナイフを抜いて背後から男の首、頸動脈に先端をあてる。
「っ!」
「お前の首にあてられているナイフの名を知っているか? ツイスト・タガーと言うんだ。アメリカで開発された殺傷能力のみを追求したナイフ。それがお前の首、頸動脈を狙っている。このまま俺が力を込めたら……どうなるか、わかるだろう?」
 ゆっくり、撫でるように刃先を皮膚に押し付けた。殺すためだけにつくられたナイフは、皮膚の感触に歓喜しているのか、焦れているのか。ただ力も入れずに押し付けているというのに、そこから血が滲みはじめた。暗い場所でも、わかる。男が息を飲み喉ぼとけが上下した。
 コンラートは首からナイフを離すと、男の背中をそっと叩いた。
「行け」
 瞬間、脱兎のごとく男が足をもつれさせながらも去っていた。走りながら、男がなにか言っていたが、よくわからなかった。それは、残された者も同じことを思っていたようだ。
「……あいつ、なんて言ったの?」
「さあ。でも、察しはつきますよ。俺への不満でしょう。……それよりも、頬を叩かれたようですが大丈夫ですか?」
 コンラートとともに残されたのはやはり少年だった。少年の髪は闇に溶けるような黒。顔はうつむいてみえない。コンラートの差し出した手を躊躇いなくとった少年にもう笑いをこらえることができなかった。少年の手を握りコンラートは自分のほうへと引き寄せる。
「――仮にも、あなたは悪魔なのに襲われているなんて」
「うるさいなっ!」
 バツ悪そうに少年が顔を歪める。
「それにおれは、あなたって名前じゃない。有利っていう名前なの! なんだよ、助けてくれたと思ったら笑いやがって」
「助ける? あなた、いやユーリを助けたなんて俺は言ってませんよ。俺は悪魔狩りを仕事にしている人間、エクソシストなのですから」
 少年もとい悪魔であるユーリを退治するために足を運んだのだ。
 エクソシストと聞いて動揺したのかユーリの手が跳ねた。彼の手を離さないようにしっかりと握ると再び大通りへと向かう。
 街頭のある大通りに出ると、ユーリの風貌がより鮮明にコンラートの目に映し出さた。
 山羊の角を思わせるくるりとした角に、すこし尖った耳。ちらりと見える赤い舌と、犬歯。服装は、高めの襟は特徴的なニットカーディガンにインナーは淡いベージュのUネック。パンツはサスペンダー付きのネイビーカラーのチノパン。澱部のあたりからは黒い先がトランプのエースのような尖る尾がある。靴はこれまた黒のレザーマウンテン。こんな夜更けにするようなコーディネートではないなとコンラートは思った。
 くりくりとした大きな漆黒の瞳と、少年特有の丸みを帯びたフェイスライン、華奢な肢体にはぴったりなものだとは思うが。
「……こんな可愛らしい格好をしていれば、さきほどの男が言うように誘っていると思われても仕方がないかもしれませんね」
「はあ? おれ男なのに男を誘ってどうするんだよ」
 この悪魔は少々抜けているのかもしれない。
 コンラートは呆れたように「性別に左右されない人間がこの世界には存在するんですよ」と言った。
「ふぅん。人間もあっちの世界と同じなのな」
 もうコンラートがエクソシストと名乗ったこともついさっき男に襲われていたことすら忘れているような口調に毒気を抜かれてしまう。これでは、さきほどの男が少年が悪魔だということに気付かなかったのも仕方がない。それに今日はハロウィン。仮装をしていると勘違いされてもおかしくはないのだ。
「ユーリはまったく悪魔らしくないね」
「なにそれ、悪魔の定義とかそんなのあんたちが勝手に考えてるだけだろ。そりゃあ、ひとを驚かすことがみんな好きだよ。なかにはすごく悪いことをしている奴らもいるけどそんなのはごくわずかだ。……今日は悪魔でも人間に混じって楽しむことができる日だって聞いたからこっそり来たんだ。まあ、あわよくばご飯も食べれたらとは思っていたのは事実だけど」
「食事……ね」
 悪魔と言われる者は、種族によって食事が異なる。人の血肉を好む者がいれば悪夢を好む者、悪意や嫉妬など感情を食べる者もいる。それから魂。悪魔の数だけ、食はある。だが、それは必ず摂取しなければならないというものではないらしい。あれば食べるということであり、人間と同じ食べ物をおおよそは食すと聞いたことがある。ひとに紛れて。
 エクソシストだからと言ってもあれこれ構わず退治するわけではない。ユーリが言ったように悪質な悪魔だけを退治するのだ。
 ユーリは雰囲気や話し方を見ても人間に害を与えるような印象はない。ただ、人間界に遊びにきたのだろう。もし、自分で与えられるようなものであれば、与えたい。
 ふと、胸に芽生えた思いにコンラートは驚いた。いままで女性と付き合ったことはあるが、このようなことを思うのははじめてだった。
「どうかした?」
「いや、なんでもない。……それより、ユーリはお腹空いてるの?」
 尋ねると、ぱっと顔を輝かせた。
「トリックオアトリート!」
 ユーリはこのことばの意味をおそらくわかっていない。だが、これを言えばお菓子が貰えるのは学習しえいるようだ。
 まだチョコレートが残っているのかもしれない。ロングコートのポケットに手を入れてみるがなにもなかった。
 ユーリはひとの感情の変化に敏感らしい。すぐにポケットになにもないことを察したようだった。残念そうに眉根を下げたあと「いや、いいんだ」とユーリは言う。
「あんたに、恵んでもらおうと思ったおれがわるい。さっき助けてくれただけでも感謝しなきゃいけないんだ。おれ、帰るよ。また、いつかあんたと会うことがあればなにか礼をさせてくれ」
 一歩距離を引いて、ユーリはコンラートから背を向け歩きはじめた。
「待ってください。ユーリ、あなたはなんの悪魔なんですか」
 ユーリの手を掴む。なぜ、引きとめたのかわからない。気がついたら掴んでいた。
「おれ? おれは、インクブス」
 インクブス。英語ではインキュバス。夢魔または淫魔と呼ばれる悪魔だ。寝ている女性を襲い、妊娠させ種族を繁栄させるという言い伝えがある。
「もしかして、だれか襲いに行くのですか? それでは、俺はユーリを退治しなければならなくなる」
 言うと、ユーリの頬がぼっと赤く染まりコンラートの手を振りはらった。
「いまおれ帰るって言っただろ! それにあんた勘違いしてる。おれらインクブスやスケブスは無理やりひとを襲うことなんてめったにないの! それは、はるか昔の極悪犯罪者集団がやらかしたことでおれたちは相手の了承得ない限りやらないの。無理やり悪魔の子を身ごもっても意味がないの知ってるから。……それに、おれはまだそういうのよくわかんないし」
 最後のほうは言っていて恥ずかしくなったのか、蚊の鳴くような声で聞きとりずらかったが、コンラートの耳には届いていて、再び笑いがこみあげてきた。
 ユーリは、人間でもめずらしいとても純粋な子らしい。
「それなら、俺でもあげられる」
 言うと、ユーリが驚いたように目を見開いた。
「相手の了承をとればいいんでしょう?」
「……おれ、男だぞ。そ、それにあんたとえっちとか」
 困惑した表情のままユーリが言う。
「セックス以外でも大丈夫でしょう? 聞いた話では性欲的な快楽が味わえればいいと聞いたことがあります」
「そりゃ、そうなんだけど……」
 と、ぼやくユーリの頤を指ですくいコンラートはユーリの下唇を親指の腹でなぞった。
「こうされるの、気持ち悪い?」
「っていうかくすぐったい」
 警戒する子猫のような反応が可愛らしい。
 彼は悪魔なのに、自分はどうかしている。自分は、エクスシストだ。
 思うが、不思議なことにコンラートの胸に罪悪感の影があらわれることはなかった。それよりも、ふっくりとしたユーリの唇の感触に興味が湧き刹那、唇を合わせた。ユーリのからだが震え距離をとろうとするがコンラートはそれを許さなかった。彼の腰に片腕をまわし、しっかりとホールドする。「んー!」と色気ない声がユーリの口内から聞こえ口唇を離す。息を止めていたユーリは、すぐに酸素を求めるように口を開いた。赤い舌が見える。コンラートは、もう一度唇を重ねた。今度は重ねるだけではなく、舌を口内へ潜りこませ小さな舌を捕らえて深いキス。
「……これは教えがいがありそうですね。息は鼻でしないと」
 キスの合間に囁く。ユーリは、はじめて与えられる接吻に理性が追いつかないのか、ぎゅっとコンラートのコートの裾を掴み誘導に従順に従った。耳に遠くから酒場の笑い声と唾液が溢れてくちくちとなる水音にコンラートは興奮を覚えた。
 キスだけでこんなにも興奮を覚えたのは、はじめてかもしれない。それから、気持ちがいいと思うのも。
 これは彼が夢魔だからなのだろうか。
 どれほどそうしていたのかわからない。口が離れると、銀糸がふたりの間に伝っていた。それを指で切る。
「どうです、お腹はいっぱいになりましたか?」
 どうやらユーリはからだのちからが抜けてしまったらしい。コンラートの腕が腰を支えていなければそのまま地面に膝から崩れてしまいそうだ。酸素不足それとも快感からか、ユーリの瞳には涙でうるんでいて、きらきらと輝いていた。
「お腹いっぱい、だけど……なに、これ」
 悪魔としての主食をはじめて口にして戸惑うような声を漏らし「すごくおいしかった」と独り言のように呟いた。
「それはよかった」
 キスだけこんないい表情をしてくれるなんて、男冥利に尽きる。コンラートは満足気に口端に笑みを浮かべた。
「俺も、よかったです」
「恥ずかしいこと言わなくていいからっ!」
 徐々に理性を取り戻したのか、ユーリはちからない拳でコンラートの胸板を叩く。
 いままでこんなに他に対して興味をもったことはない。一時間も経っていないのに自分の心がこの小さな少年悪魔に魅了されている。彼を魔界に帰せばもしかしたら二度と会えないかもしれない。そう思うと名残惜しい気持ちに駆られた。
「ねえ、ユーリ。俺は悪魔を退治するのが仕事ですけど、どこに悪魔がいるのか識別する能力はそんなに高くない。未然に防ぐことができるのはごくわずかなんです。だから、力を貸してくれませんか?」
 胸板を叩いていた手が止まる。意味がわからない。表情豊かなユーリの顔がコンラートに告げる。コンラートははなしを続けた。
「見たところユーリは、実践で学んだほうが身に付くタイプのようだしあなたが立派なインクブスになれるよう俺がフォローする代わりにユーリは人間に紛れた危険な悪魔を見つける、または判断をする。俺は、あなたに寝る場所と食事を提供する」
「食事って……さっきみたいなおいしいやつ?」
 ユーリにとってキスは食べることらしい。コンラートはくすくすと笑いながら頷く。
「気にいったようならユーリがお腹が空いたときにいつでもあげる。仕事がうまくいけばもっとおいしいものをあげましょう」
 これでは、どっちが悪魔なのかわからなくなってきた。自分よりも一回りもちいさいまだ少年ということばが似合う彼を誘惑しているなんて、本当にどうにかしている。
 ユーリは悩んでいるのか唸り声をあげる。
「なんであんたは、おれにそんなにやさしくしてくれるんだ? エクソシストなのに」
「たしかにエクソシストではある。でもそれは仕事です。俺個人としてユーリのことがもっと知りたくなった。だからユーリも悪魔であるまえにあなた自身がどう思っているのか知りたい」
 コンラートが言うと、ユーリはうつむき沈黙がふたりの間に流れた。もう、酒屋からの笑い声も聞こえない。しばらくして、ユーリが顔をあげた。
「……おれよくこっそり人間界を見てたんだ。みんな楽しそうで、でもよく耳にしてたんだ。悪魔は嫌いって。それはしかたのないことだと思ってた。だけど、悪魔が全員悪いんじゃないってこと知ってほしかったんだ。おれ――あんたと一緒にいたい」
 もっと色々と知りたい。もっとおれたちのことも知ってほしい。ユーリが泣きそうな顔してコンラートの手を掴んだ。
 真っ直ぐな瞳がコンラートを捕らえる。
「ええ、色々とこの世界のこと教えてあげましょう」
 姿、形は漆黒に包まれても、彼の心は自分よりも純粋で真っ白でとてもあたたかい。
 胸が熱くなるのを感じる。
 コンラートはユーリの手を握り返した。「では、行きましょうか。……ああ、グウェンに怒られるな」
 ちらり、とみた腕時計の針は交代の時間まであと数分を指している。急いで帰っても間に合わないだろう。
「グウェン?」
「俺の兄。グウェンダルのこと。あと弟、ヴォルフラムがいる。あとで紹介します」
 遅刻よりも、ユーリのことで怒られるような気がしたがコンラートはあまり気にしなかった。
 コンラートにとって、ユーリはおそらく初めて「愛おしい」と思う気持ちをくれたのだ。それに、ユーリは人間界と魔界に存在する偏見を解いてくれるような気がした。
 繋いだ手がとてもあたたかい。
「あ、そうだ」
「なんですか?」
「あんた、名前は?」
「そういえば、名乗ってなかったですね。俺はコンラート・ウェラーと言います」
 いまのいままで名乗っていなかったことに気づく。ユーリはコンラートの名前を口にしようとしているがうまくいかないらしい。何度か繰り返すもたどたどしい。
「コンラート、が言いにくいようでしたらコンラッド、でも構いませんよ。仲のいい友人はそう呼ぶひともいるので」
「コンラッド?」
「ええ、コンラッド。改めてよろしくお願いしますね、ユーリ」
 今日からなにかが自分のなかで変わっていくような気がする。となりで笑う少年をみて、ふとヴォルフラムとのはなしを思い出した。
 ユーリは、自分が理想としていた好みにぴったりだということを。
 この出会いは大切にしていこう。コンラートは、手のぬくもりをたしかめるようにわずかにちからを込める。
 夜空を見上げる。丸い月、やさしいひかり。
 近いうち、きっと自分は神様がちょっとだけ好きになるだろう。この世に愛を創ったことに。なによりも、この出会いに感謝して。
「月が綺麗ですね」
 コンラートが呟く。ユーリも月を見上げて頷いた。ユーリはこのことばの意味を知らないのだろう。
 今宵はとてもあたたかく、とても月が綺麗だ。

END

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