「いい名じゃないか」
女は愉快そうに声をあげていた
奥の客席が笑い声を付け足す
勇者の影は女の言葉に意外だという顔をあげた
「そうなのか?」
名前の響きに善し悪しなどあったのかと
単純に感心した勇者の影に逆に女店主が目を丸くした
「あっはっはっは!」
「っ!?」
急に笑い声をあげた女に勇者の影がギョッとして椅子から落ちそうになる
「変なこというねぇ、あんた、…ふふ、さっきのは話の流れで言っただけだがね」
「……」
「私に名前の意味や良さなんか判断できないさ…ただね、名前を持ってるのは幸せもんだよ」
先程まで笑いが絶えなかった奥の席から少し言い争いが聞こえ始めた
だが勇者の影は目の前の女の言葉に耳を傾けた
「名前があるとね、自分を誇れるんだ…人じゃなくても名前を持つと命が宿る、だからあんた、名付け親にしっかり感謝しなよ」
とうとう奥の席からグラスのいくつかが割れる音がした
相当激しい争いになっているらしい
女店主は怒鳴りながらカウンターを出て奥の席に行った
勇者の影はまだ少し茫然としながらミルクカクテルをグラスの中で転がした
気が付けば白猫はもう先程の位置には見られなかった酒場の中を注視して探すが見当たらない
勇者の影はグラスの中身を飲み干して酒場を後にした
「そう言えば、アンタ前にもここに来ただろ?」
白猫は酒場を出た所に座って勇者の影が来るのを待っていたようだ
もうそろそろ日の出の時間になるが
今はその前兆とでもいうように空は黒かった
「丁度その頃だよ、町中の人間がリンクを『忘れた』のは」
あんたの仕業だね、と声に出すまでもなく少し鋭くなった猫の瞳がそう言っていた
「貴様の記憶も食べたはずだが…?」
何故今も尚この猫の口から『リンク』という単語がでてくるのか不思議でならなかった
勇者の影が記憶を食べたということはつまり食べられた者はリンクの存在自体をそっくりそのまま忘れてしまう筈なのだ
「強い記憶は心を通して魂にまで刻まれるもんさ、猫の魂がいくつあるか知ってたかい?」
白猫は欠伸に大口を開いて小さな牙を見せた
勇者の影は腕を組んで猫の言うことを整理してみた
その白猫曰く
猫の魂が複数ある為に
リンクの記憶も完全には失っていないということらしい
なるほど、と頷いて猫の凄さを思い知った勇者の影の様子に
白猫はもう少し緊迫感を要求したくなった
「それで…またアタイの記憶でも奪いに来たんだろ?」
そう言う割りには警戒もせず気楽に構える白猫の横を勇者の影は無関心に通り過ぎた
「一度食べた記憶は必要ない」
必要は無い
それが人ならば、或いはまた食べていたかもしれない
しかし猫ならば別に問題にはならないだろうと勇者の影は考えた
彼はただ無作為に記憶を貪るわけではないらしい
勇者の影がもう一度空の色を確認して歩み始めた方向は町の外ではなかった
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