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(…酒場だ)


少し開けられた扉の隙間に猫が逃げ込んだのを見た
近くで見ると傍の看板が酒場の扉であることを示している

猫が入っていくのには丁度良い隙間だが勇者の影が入るには狭過ぎると見るに明らかだった
しかし勇者の影が引き続き猫を追うことを躊躇ったのはそれが関係したわけではない

余りにも暖かい光と笑い声が扉の内から溢れていたからだ

ここは自分が来るべき場所ではないと勇者の影は直感した
この明かりは自分の身体とは異質の相容れない物質なのだと彼は知っていた
だがしかし看板には「影の人お断わり」なんて文字は一つも無いと理由付けて
勇者の影はゆっくり扉を押した





「いらっしゃい」

中年の女の声に迎えられて一瞬に呆然とした
女にとってはただ業務用語だが自棄に威圧的な女の顔に本来の目的を忘れ
勇者の影は入り口付近のカウンターに腰を下ろした
こじんまりとしているが酒場にしては荒れてもいないし
奥に大人数で席を占めている連中もあらくれ者には見えない
一般人には正当だが酒場としては不当な酒場だった


「何にするんだい?」

カウンターにいる女は店主らしい
わざわざ入り口側の端に座った勇者の影の元に来て注文を取ろうとする
それが普通といえば普通だが
できれば彼としては話し掛けられたくなかった


「別に…必要ない」


「おや、だったら何だって酒場に用があったんだよ」


女は呆れたようで腰に手を当てて
席に座る勇者の影を見下ろした
勇者の影は自分と反対端のカウンターの上に座る白猫の姿に気が付いた

ここまで追い掛けてきた猫だ
猫は勇者の影に目も向けず傍に据えられたミルク入りの皿に顔を近付けている
何と説明すればいいのか
勇者の影は悩んだがこんなところでわざわざ嘘を繕う必要もない



「その猫に、…連れてこられた」


何だかやっぱり自分の言っていることがおかしいと思いさり気なく顔を背ける
女は白猫と勇者の影に何度か目をやってなにか納得したらしく小さく笑った


「そういうことなら、持て成してやらないとねぇ!」

そう言って女は後ろに並んだ酒達を選び始めた
勇者の影は店主の後ろ姿を見た
酒を選ぶのにひらひらと空を遊ぶ女の手を見た

勇者の影は記憶を手繰った

自分はこの女と手を繋いだことが…いや、あれは握手という代物だろう
自分はこの女と握手をしたことがある
というよりもこの女が自分と握手をしたという映像が目に浮かぶ

それは記憶

しかしよくよく見ればそれは勇者の影ではない
似ているが別人
真に人々が求めている勇者リンクの姿だ
脳裏に浮かんだそれは
以前に勇者の影がこの女から食べたもの
リンクと握手をしたこの女の記憶だった




(俺は誰の記憶にも残らないのだな)


暖かく光る酒場の景色を除外したくて目を閉じ俯く

目蓋の裏は闇

彼の居るべき所

誰も居ない
冷たく
どこまでも広がる空間






「はいよ」



女は小さいグラスに乳白色の液体を注いで寄越した




「ロマーニ種極上の牛乳カクテルさ、普段は作らないんだがね…」




自信たっぶりに語る女の声
勇者の影は俯いたまま反応を示さずに目だけでカクテルを見ていた
女の言葉を右から左に聞き流すだけでただそこにある暗闇のように静まっていた




「…あんた、名前は?」




唐突な話題に勇者の影は頭を押さえていた手で前髪を掴み乱した
いつもなら聞かれた直後に「名は無い」とでも言い捨てることが出来るのに
今だけはその言葉を聞き流すことが難しかった


「言いたくないのならいいさ」


しかし女店主はため息混じりに助け船を出したので
勇者の影は何も言わずに済んだ

何も言わないというより何も言葉が出てこない
何故か喉が渇くような不快感に見舞われて
勇者の影は目の前のミルクカクテルに手を伸ばし
飲んだ後の反応を見届けようとする女の挙動を無視して一口を飲んだ


濃厚なミルクに薫る仄かな甘さと微かに喉を焼くアルコール
腹の奥から体が暖まってくるのがわかる


勇者の影は小さく驚いて右手にあるグラスと
その向こうでしたり顔をする女を眺めた


不思議と苛立ちも葛藤も溶かされ消えていくようだった







「勇者の影…」




「ん?」




「……」





「それがあんたの名かい?」





勇者の影は黙って小さく頷いた
渋々とした感は出していたがしっかりそれとわかる動きだった








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