シャリシャリと鋭く這う音は、時が経つにつれ鮮明に耳に滑り込み、彼の意識を徐々に覚ました
朝の自然な目覚めのように無理なく瞼が開くがしかし、気分に関していえばそんな爽やかさとは対極だった
刃と砥石が擦れ合うそれは鼓膜を削ぐようで、悪寒が背筋を犯すのは至極簡単
ムジュラの目に入ったのは、埃っぽく、四隅に満遍なく蜘蛛の巣を張り巡らせた屋敷の天井
それが遠くに見えて、己の体が冷え切り、横たわっているの分かった
「い、たい…」
「おんやぁー、オメェ目覚めただかぁ」
「ギャプ!?」
ムジュラの視界に無遠慮に押し入り、もとい覗き込んできた大男の顔面のプレッシャーに、情けない悲鳴をしながらムジュラは飛び上がる
その拍子に目の前の人かどうかも判別しかねる大男の無駄に硬い顔面に衝突し、ロマンの欠片もない接触による嘔吐感を殆どスルーするならば、まず真っ先に気になるのは、この状況は何であるかということだ
何よりも体の節々がキシキシと痛み、考えを妨げる
それから遅れて、冷え切った体の芯からの寒気が鈍く伝わると、もはや正常に現状把握をするどころではないのだ
「ここ、ナニ、ドコ!?」
「ここはオラん家だぁよ」
「オマエダレ!!?」
「ドサンコフだ、スノーピークに住んどる」
「スノーぴーク?…ナンでボクここにイルんだっけ」
「そりゃあオラも知らんて」
話を続けるうちに心に余裕が取り戻せて、ムジュラは乾いた笑いを随所に挟めるようにはなった
よくよく見ればそこは厨房らしき部屋で、石を敷き詰めた床壁は恐ろしく冷たいながら、グツグツと煮え立つ大鍋の中のスープ、それを熱する強火は少し離れていても温かさが伝わってくる
そういえば、とムジュラは思い返した
主人公の言い付け通りスノーピークに向かったはいいものの
仮面に戻れない体が極寒の中で音を上げてしまい、身もろとも意識を広大な雪上に投げ出したところまでが最新の記憶
そこをどんな経緯でかは知らないが、このスノーピーク在住の大男に助けられたらしい
簡単に何という事はない、助かったのだ、そうムジュラは安堵する
だがそれも束の間でしかない
ドサンコフの大きく分厚い手に握られた、これまた巨大な包丁を見つけてしまったからだ
「ネェ、オマエ、何ツクッテンの」
「おぉ、これか?オメェが寒そうだったからのぉ、体暖めるのにスープ作っとったんじゃ」
普通ならば何ともありがたく温かい話だが、この大男を前にして恐怖がチラリとでも覗いたならそんな温かさは陰った
スープを飲んで体を暖めるなど夢幻に変わる
体を暖めるのにはその大鍋の中へ、スープの具材として…
そんな惨い連想を駆り立てる材料は多く見られた
何より気付けば彼が横たわっていたのは巨大なまな板の上だったのだ
「ボクって、ムジュラだからサァ…」
「んー?」
「食べラレル趣味無いンだケド」
丸い目を殊更小粒にして口を閉ざしたドサンコフは、数秒後、爆発したかのように声と息を吐き出し、腹を抱えて笑い出した
「ガッハッハ!!なんじゃぁオメェ、オラが怖くてそう震えてるんか」
「っ!ベツにコワクナイヨバカ!!」
「なぁーに、オメェみてぇに皮と骨だけの不味そうなもん喰わんから安心しろぉ!」
ガッハッハ、とまた響く声が大きくてムジュラは耳が痛かった
遠回しに肉付きがよければ食べられていたかもしれないという台詞にも聞こえたが、どうにも豪快な男の笑に釣られてムジュラはケラケラと笑っている
「暖炉の部屋で休ませてやりたかったんだがのぉ…」
吹雪の中、白に埋もれそうになっていた人間を発見など出来そうもないことだが獣人の目にはそれができた
防寒などしていない生身の人間も同然のムジュラがスノーピークに足を踏み入れ、遭難し、動けなくなり、死にかけてしまうなど当然で
その通りを実行して凍りついてしまった彼を、ドサンコフが保護して自邸に連れ帰り、現在に至る
しかし何故こんな調理場に寝かせられたのかと問えば、帰ってきたのは一転してモジモジした答えだった
「実はヨメさんと……、喧嘩しとって…」
「ヘェ…」
「この屋敷の扉の鍵はどれもヨメさんが握ってるもんでな」
「ダカラ?」
「色々と入れん部屋があってなぁ」
「……オニヨメか」
「いんやぁー、怒ると恐ぇけど、笑うとそりゃあべっぴんじゃよ」
然り気無くのろけを聞かされたようでムジュラはあからさまに苦い顔をしたが、ドサンコフは当然のように気付かない
出来上がったスープを大きな御椀によそってムジュラに差し出して、うんめぇぞ、と念押しし笑う
寒さばかりが凶暴で、他はどうも平和な空気のようだとムジュラは思って何か、知らず張っていた肩の力を抜き、それを口にした
無理の無い野菜の控え目な甘さと、芯からじわりじわりと染みる暖かさに一時の憩いを感じる
だがそれは飽くまでも一時に過ぎない
大事なものが抜け落ちてしまったことをムジュラはすぐ後に知る
[*前] | [次#]