ムジュラが消した姿を出現させたのは、ガノンの息荒い鼻から10メートル程離れた正面の森の中
急に現れた人間の姿を目にしても、考えることなど何も無いのか
はたまた考えるほどの理性も残されはしなかったのか
魔獣の暴走は戸惑いも荒れもせずにムジュラとの距離を縮める
ムジュラは自身の中に、確かに渦巻く魔力を感じ、それを両の掌に流し集めていく
こんなにも静かに、鮮明に、力を感じ、操ることができたのは初めてのようだった
「キヒヒ、ツーコウ止めだ!」
ムジュラは長い袖の一方を振りかざし、宙に一線、横棒を引く
一瞬後、それに従い、間近まで迫り来ていたガノンの鼻先の空間が前触れもなく爆発し
そこから空間を切り取るかのように、東西に炎の壁が燃え上がる
獣が恐れ避けたがる炎ならば、いくらか魔獣の足も狼狽えるのではないか
などとムジュラが考えたかは謎だが
彼はこれで十分、あの巨体は止まると思ったのだ
しかし
「グオオォォーー―――――!!!!」
「ゲゲ!!?」
地を揺らす足音は止まることを知らなかった
ムジュラをはね飛ばし炎をものともせず声を上げ
寧ろ一層勢いづいてガノンはひた走るばかり
木がポッキリ折れるか、斜めに倒されるか、のガノンの通り道に投げ出されムジュラは受け身を取ることも知らずに背や頭を打った
「いっ、、タァァー!!!」
「魔の類いは無効でしょうか」
追い付いたクレは音もなくムジュラの側に現れ、そんな判断を、ただ無作為に戦う男にも分け与えたかと思えば再び素早く身を走らせて消えてしまう
その後から勇者の影も、若干汗をかきながらやって来た
「アイツ結構、トマんないヨ!」
「当然だ、仮にも魔王と、呼ばれた男だ」
「…ムカツク」
「貴様の力は直接効かないだろう、村を守るとほざくなら避難誘導でもしていろ」
「ム カ ツ ク!!!」
ムジュラは顔を真っ赤に染めて怒りを露にし、また魔法により何処かへと消えていく
勇者の影はそれを鼻で笑い飛ばし、舞い上げられる土煙の向こうに小さくなってしまったガノンの尻尾を追いかける
魔獣の足取りは意外と鈍重なもので、クレは直ぐ様追いつく
真っ正面から攻撃を仕掛け、吹き飛ばされず尚且つこの巨獣の突進を受け止め踏ん張れるほどの力を持ち合わせていないとクレは自覚していた
力の及ばない相手ならば足下をすくうまで
クレはガノンの後ろ足の近くに貼り付くように走り、両手の短刀の先を揃え、足の付け根辺りの、その体毛の中に突き刺した
瞬間地響きのような呻きが上げられ、思わずクレの顔が歪む
赤黒い血を吹き出す足を挫き、魔獣は悶えながら体を横たえるように倒れる
ただその際も木々をなぎ倒し下敷きにすることを忘れない
「…、傷が…!」
だがガノンは間もなく立ち上がった
頭を数回振り、傷を負った後ろ足で、感覚を確かめるように地面をかいた
その一連の動作の間にクレの与えた傷はおろか、飛び散った血の跡さえも綺麗に消え失せたのだ
一度暴走を止められ魔獣は獲物を視界に入れ認識する余裕を与えられたことになる
クレを目掛け猛スピードで駆け出すガノン
その巨体が一瞬の内に距離を詰めてやってくる光景には計り知れない威圧感があり、彼の回避への判断力を鈍らせ遅らせてしまった
クレは咄嗟に横へ飛び退くも、鋭い前足の爪が、脇腹の肉を抉り去る感触が確かにあった
「っ、…!!」
「貴様では奴を倒せない」
「…勇者の影、貴方なら、倒せると、でも…?」
腹の出血を抑え膝を着くクレに、ようやっと追い付いた勇者の影が早口で言った
それの言葉が不服に耳に張り付き
クレは少し挑発的に言葉を返した
勇者の影はそれに肯定も否定もせず、左手で黒剣を抜きガノンに向ける
それが勇者の姿と重なるのか
ガノンはピクリと微かに反応を示した
先に地を蹴るのは勇者の影だった
真っ先に正面から突っ込むという行動に、端から見ていたクレは目を疑い軽く目眩を起こした
ガノンも反応遅くも勇者の影に飛び掛かり行く
それを見計らい、勇者の影は更に姿勢低く、地を蹴り出す力を強め素早く魔獣の腹の下に潜り込む
勇者の影が持つ勇者の記憶をあてにするならば、魔獣ガノンの弱点は腹部にでかでかと残る光の傷跡
それを攻めればいくらかでも威勢を失い大人しくこの場でのたうち回る筈、と勇者の影は画策した
だが
「傷が…無い、だと!!?」
潜り込む見上げた白い腹には
獣の臭いを放ち前から後ろへ流れていく毛並、ただそれだけ
勇者の影の驚きは思わず声に出して叫ぶほどのものだった
そうしている間にも勢い死なず何処かへ突進し続ける魔獣の、その腹の下で、後ろへと掻き飛ばされる石や土が呆然とする勇者の影を襲い
続く後ろ足が黒い男を容赦無く踏みつけ転がす
「がっ……!!」
最後に尻尾によりかなりの距離を吹き飛ばされ、折り重なる木々の間の地に叩きつけられた勇者の影を
嘲笑うかのように、ガノンは鼻息を逃がし
深傷を負い動かずに樹の根本にて静観していたクレの、血の臭いを追うようにそちらに顔を向けた
弱った獲物を優先して狙うのは当然のこと
クレはさしてその状況の危うさを表情に出すこともせず立ち上がり
迎撃の為腕を上げ力を込める
だがガノンが突進してくる前に
魔獣の尻尾に強烈な痛みが送られそれは阻止された
勇者の影が両手で黒剣を突き刺し、紅の目を血走らせ
相手は自分であることを念押す
「貴様の、相手は、、俺だ!」
ガノンはその主張に乗せられ簡単にターゲットを変える
勇者の影の方へと体を反転して巨体の重心を前に預け飛び掛かった
重々しく威力の増した両前足の爪の切り裂きを避け
勇者の影は魔獣の醜い顔面のその大きな鼻に
ある種の怒りを込めて黒剣の切っ先を向ける
あとは両者の突っ込む勢いが剣を深々と突き刺す
かと思ったのだが
爪を避けられたと知るや魔獣が大きく口を開け放ち牙を向いたのだった
「ぐ、あぁッ――!!!」
剣は勇者の影の左腕ごと口内に入り上腕からを折る勢いで、鋭い牙が食い込んだ
勇者の影は痛みに声を上げるがガノンは離そうとはせず
寧ろ一層、歯列の噛み合わせを確かめように顎を押し付けて男の腕を食い破らんとしている
―― ガ キ ィ ー ン
骨が折れたかと思ったがそれ以上に勇者の影には衝撃だった
魔獣の奥の歯が黒剣を砕く甲高い音を聞いたのだ
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