真剣文字書き60分自主練編 第70回「天より降るは」 お題:全部 ○と○(丸の中には同音異義語) →天と点 アメンボは赤いか 水たまりを照らす虹 近くて遠い 輝く瞳に夜の色 ジャンル:近未来 女子高生 2116文字 「あめんぼあかいなあいうえお、うきもにこえびもおよいでる」 オレンジ色の差し込む小さな教室に、男女数人の声が輪のように響く。各々が手にしているのは、何度もコピーにコピーを重ねた手書きの文字。「発声練習!!」大きく書かれた紙の右端、感嘆符の横から顔をのぞかせている猫らしき生物は、すでに2つ上の代から解読が不能だった。 まだ硬さと幼さの残る初々しい声を聴きながら、少女は椅子の背に寄り掛かった。後輩たちは夕日を背負い、口をはきはきと動かしながら、懸命に小さな文字を追っている。 「うえきやいどがえおまつりだ」 わずかなばらつきを残して、声が消える。声が壁や天井に吸い込まれ、しん、と静まり返った教室に、はにかんだような、手持ち無沙汰な表情が浮かぶ。 わずかな間のあと、顔を見合わせた後輩たちが、恐る恐る少女に声をかける。 「……亜衣先輩?」 「あ、ごめん。うんと、上手上手。後半越えると、中だるみなのかね、声量が落ちるし、ばらつくから、その辺り、明日から注意してみて。じゃ、次はランニング、いつもの回数。行ってらっしゃい」 うへー、と男子の集団から声が上がる。それを聞き逃さず、亜衣と呼ばれた少女は、視線をそちらに向けた。 「別に、監督が私だからって、甘くはならないよ。基礎訓練は大切。はい、行った行った」 「亜衣先輩も一緒に走りましょうよぉ」 泣き事のような甘えたような、そんな声が女子の一人から上がる。ちらりとその子へ視線を送ると、期待するような瞳がこちらを見返してきた。光源を背にし、暗く影の落ちた顔の中で、まるい瞳に夜の色がぱちくりと輝く。数秒の見つめあいの後、亜衣は再び窓の外へと茶の瞳を向けた。雨が降った日の夕暮れは、心なしか明るく鮮やかに見える。確か、空気中の塵が洗い流されるから? 「悪いけど私、面接待ちだから」 大体数か月前に引退したのだし、スカートの下にジャージを履いていない辺りで察してほしい。言外に訴えると、後輩たちが小さく息を詰めたのがわかった。 「ってことで、君たちが戻ってきたとき、私は居ないから。あとは部長から指示があった通りに。学年リーダー、よろしくね」 「はいっ」 一人の後輩に目を向けると、はきはきとした返事が届いた。続いて全体に視線を送ると、小さな頷きや真剣な表情、様々な反応が返ってくる。 「よし、ランニング、移動開始!」 学年リーダーの張り切った声に、後輩全員が一斉に動く。数秒ののちには、机や椅子が後ろへ下げられた教室は、がらんと静まり返っていた。 「さて、と」 亜衣は立ち上がると、椅子の背に手をかけた。一番前列の机に椅子を返すと、小さく伸びをする。黒板の上にかかった時計を見ると、そろそろ約束の時間だった。 鞄を背負い、自分の忘れ物がないか、後輩たちの荷物から貴重品が顔を出していないか目視で確認した後、亜衣は教室を出た。冷えたほこり交じりの空気が、静寂と共に体を包む。 部室棟を出ると、コンクリートの小道や脇の植え込みに、ぽつりぽつりと水たまりができていた。その中に、小さく虹が映りこむ。 上履きを濡らさないように、小さくステップを踏みながら避けて歩く。ひとつを飛び越そうとしたところで、動く影を見つけた。挙げた足を下ろし、何事かと目線を送り、小さく眉を動かす。 水たまりにいたのは、小さな黒い、生き物をかたどったものだった。 「これが、アメンボ」 特に感情をこめず、ぽつり、と声に出す。 ドームの全体洗浄――「雨」と共に、天井から降る産物の一つ。柔らかなバイオ素材で作られ、数時間ののちには溶けて地面に還る、かりそめの生き物。 とはいえ、水たまりに着陸することなど、建物の密集した広いドームを考えれば奇跡に近いこと。亜衣も話には聞いていたが、実物を目にするのは初めてだった。 情緒を感じる、だか、子供の頃に野山を駆け回った日々がなんちゃら、だか、年寄の自慢のような懐古により設定されたらしい。その年寄たちだって、生きたアメンボは知らないくせに、と小さな思いが浮かんでは消えた。 つい、とアメンボが動き、虹を滲ませた。虹の弧を追うように視線を上に送ると、ホログラムの虹が天井に映し出されている。 「……本物、いつかは、見られるかな」 しっかりと目を凝らしても見えるはずのない、「天」に埋め込まれた無数の点。そこからプログラム通りに「雨」を降らせ、紫外線を送り、昼や夕焼けを映し出し、夜には星を瞬かせる。 本物の天とやらと比べれば、遥かに近くて遠い、人工の半球。 数か月後、あるいは数年後、私はあそこへと昇る。天を修理する役目を担って。 心の中で改めて夢を唱え、覚悟を固めると、亜衣はゆるゆると視線を下ろした。そのためには、やらなければならないことが山積みだ。面接に行かないと。 「……っていうか、赤くないじゃん。やっぱり都市伝説だよ、あれ」 歩き出そうとして、もう一度足を止めると、水たまりに目を落として独り言ちる。 アメンボは赤いか。――否。 また一つ知識が増えた。いずれ後輩に教えてあげないと。雨が降ると赤いアメンボが空から降ってくるらしい、と、雨に怯える子は、クラスに必ず一人は居る。演劇部にも、確か誰か居たはずだ。 ふう、と小さく息を吐くと、亜衣は歩き出した。 「高い高いその外には」の、亜衣のその後。 [目次] [小説TOP] 2 |