| 森の新緑を含んだ風が、小さな街を吹き抜ける。空いた窓のカーテンを揺らし、アーチを潜り抜け、やがてたどり着くは石畳の広場。 穏やかな甘い歌声が響く広場の、その中央には目を引く噴水。石で組まれた池には澄んだ水が満ち、白い噴水からは絶えることなく水が湧き出している。 その中を、すいと泳ぐ影が一つ。ルビーレッドの尾ひれを揺らし、水面を波打たせた。影は白い華奢な腕を石の縁にかけると、ぐいと身を空中へと押し上げる。銀糸のような短い髪が水滴を散らし、噴水の縁に水玉模様を作っていく。ふいに、広場に小さく響いていた歌声が途切れた。 「おはよう、猫さん! ご機嫌いかが?」 「……こんにちは、レディ・レーネ。もう午後ですが。ええ、天気も良いですし、気持ちも晴れやかです」 声をかけられた男は手にしていたハープを横に置き、隣に肘をついた女性へと視線を落とす。男の腰元から長く伸びる尻尾が、飛んだ水滴をはじくように一度膨らみ、ぱたりと揺れ動いた。 「ねえ、聞いて! 今日は海底で真珠を貰ってきたの、これでアクセサリーを作ろうかしらって思うのだけれど、どう?」 レーネ、と男に呼ばれた人魚の女性は、男を見上げながらからりと笑う。手のひらを広げると、大粒の真珠が数粒、日の光を受けて淡い虹色に輝いた。 「おや、素敵ですね。きっと女性をさらに引き立たせるでしょう」 「あら、そう? じゃあ、これで髪飾りかネックレスでも作りましょ! ……それで、今は何を歌っていたの?」 「そうですね、古い時代の騎士道物語……英雄譚です。剣を手に取り、邪悪な龍や巨大な怪物を打ち倒し、都市を守る一人の男の詩ですね」 「リュウやカイブツ? それって何かの名前? そんな悪い生き物が、そこにはいるの?」 不思議だという感情を瞳いっぱいに込め、こてんと首をかしげる女性に、男は苦笑いを返した。吹く風に、つばの広い羽根つき帽を飛ばされないよう、手袋をはめた片手で押さえると、男は再度口を開く。 「龍や怪物というのは総称であって、それそのものの名前の生物は……」 「ソウショウ?」 「……ふむ……なんと説明したものか」 口元に手をあてがい、考え込むような様子を見せる男の顔を、人魚はじっと見上げる。わずかな沈黙の後、ふいにレーネが声を上げた。 「ま、良いわ! とにかく、そういうおっきくて危ない生き物がいるお話ってことね!」 「……まあ、そういうことになるでしょうか」 ゆらり、と黄と黒の縞が入った尻尾を揺らしながら、歯切れ悪く男は返答する。まだ何かを続けようと口を開きかけたところで、レーネの声がそれを遮った。 「シェーヴィル! ね、今日の売れ行きはどうだった? もし余っていたら、パンを頂戴!」 広場を行く人々が大声に振り向く中、黒い大きな影が立ち止まった。僅かに顔をしかめながら振り返ると、大股に噴水に近づく。レーネの前に陣取ったその立ち姿に、吟遊詩人は猫の耳をほんの僅か後ろへと倒した。 「……今日は、全部売れた」 「ええ!? あたしの分は!?」 「ない」 「ないですって!?」 訥々と簡潔に言葉を紡ぐ男をぐいと見上げ、レーネはひれを大きく揺らした。ひれの先が水面を叩き、水を大きく跳ね上げる。男――シェーヴィルは引くことなく、背負っていた籠をおもむろに地面へとおろす。肉球と爪が見える大きな熊の手のひらで、籠を覆っていた布を器用に外すと、中には仕入れてきたらしき粉が一袋入っていた。 「ない、ものは、ない」 「じゃあ、今から作ってよ!あたし、今日は朝からまだ何も食べてないの!」 「まあまあ、レディ。素敵な女性は、そういった振る舞いをしないものですよ」 今にも噛みつきそうなレーネをいさめたのは、傍らで半ば巻き込まれていた吟遊詩人だった。途端に、レーネは怒りの矛先を収めたようにしおらしくなる。 「はぁい……じゃ、海で何か食べ物を分けてもらってくるわ、」 言うが早いか、石の縁から腕をするりと離し、小さな水音と共にレーネの体が水中へと沈む。噴水の奥深くへと潜っていく姿をのぞき込み見送った後、二人の男は目配せをしあった。 「…………助かった、シャトー」 「いえ、お気になさらず」 ふと笑みを浮かべると、シャトーと呼ばれた吟遊詩人は脇に置いていたハープを手に取った。シェーヴィルは籠を背負い直すと、くるりと踵を返す。 「……帰る。……眠い」 「おや、お疲れのご様子ですね。ごゆっくりお休みください」 「ん。……また、パン、買いに来い」 「ええ、明日にでも伺わせていただきます」 肩越しに振り返り短い会話を交わすと、シェーヴィルは歩き出した。石畳に木靴が重くゆったりと響く。それを聞きながら、シャトーは軽く尻尾を揺らした。 「……さて、次は何にしましょうか」 [目次] [はじまりの街 案内板](小説TOP) |