セヴンス・ヘヴン・ボイルド・ガールズ3 | ナノ

03


 外と中とを遮るカーテンを勢いよく引く。シャッ、と鋭い音と共に視界に現れた寝顔に、内村は奥歯を噛み締めた。
 小さく溜め息を吐き、数歩。簡素なベッドのすぐ傍に立ち、静かな寝息を立てている顔をじっと見下ろす。
「オイ」
 加湿器の駆動音しか聞こえぬ静かな保健室に、鋭利な声がきんと響く。帽子の影に宿る細い目は、乱れることなく相方の顔を映し出していた。
「森」
 名前を呼び、横たわる体に手を伸ばす。薄い掛け布団の上から少々乱暴に体を揺すってみた。しかし一向に目を覚ます気配はない。
 柔らかそうな頬に涙の痕が残っているのが見えて、内村は人知れず舌を打った。
「ユートーセーがいつまで寝てんだ」
 吐き捨てるように声に出しながら、傍にある丸椅子の上にどかりと腰を下ろす。機動性を重視して短く折ったスカートの下には、足首が見える程度に裾を捲った学校指定の長ジャージ。椅子の上で片足だけあぐらをかいて、太ももに頬杖を突く。
 もしもこんな姿を森に見られたなら、すぐにでも「内村、お行儀が悪いよ」などと声が飛んでくるのだろう。想像して、これではそれを待っているようだと気恥ずかしくなった。
 頬杖を突いていた手を緩やかに元に戻しながら、内村は大きく息を吐く。帽子のつばを、指先でぎゅっと握る。
 桜井が例の出所に胸のすくような平手打ちをお見舞いしてから、もう間も無く半刻が過ぎようとしていた。


 部の連絡でもない限り滅多に顔を見せない奴が来たと思ったのも、束の間。わざわざ礼を言いにくるような殊勝な面もあったのかと勘違いする間もなく、勝ち気な彼女の右手は、思わずあっぱれと言いたくなるような音を教室に響かせたのだった。
 あれだけ見事にビンタを見舞えば自分の手も痛んだことだろう。しかし案じるよりも先に、内村は頬が弛緩してしまうのを感じた。
 ばちりとこちらを向いた桜井が、ひらひらさせていた右手をぐっとガッツポーズに変える。にんまりと弧を描いたその唇に、内村は高揚する意気もそのままに小さな握り拳を作ってやった。
 遅れて一組の教室に飛び込んできたのは神尾で、「森と内村と桜井のカタキはどこだ!?」と甲高い声をきんきん上げながら拳をぶんぶんさせていた。カタキって、と桜井と同じタイミングで噴き出してしまった直後、濡れたような黒のロングヘアをじっとり靡かせながら伊武が続く。最後に顔を覗かせたのは石田で、見上げる長身の少女は穏やかな性分はどこへやら、精悍な眉を吊り上げ静かに怒りを堪えている様子だった。
 教室内にじろりと片目を這わせる神尾と二重幅の違う美少女二人の顔を眺める内村は、口角が持ち上がるのを諌めることが出来ない。
 ――あーあ、しっかり顔揃えてやがる。
 うんざりとした悪態が飛び出るより先に頬が緩んでしまったのは、内村が好戦的な性格だからか、それとも、長いとは言えないものの密な付き合いを重ねる中で、すっかり彼女たちと気の置けない関係性を築いてしまったからか。人付き合いが得意とは言い難い自分の性分をよく理解しているからこそ、気分が高揚していることが不思議で、おかしかった。
 そこまで巡らせたところで、当たり前に思っていた森の姿が見当たらないことに気付く。そういえば、と神尾が飛ばした台詞を思い出した。森と内村と桜井のカタキ。桜井と自分に関してはあることないこと吹聴されたのだからわかるが、森に関する人言は一度たりとも耳にしたことが無い。件の女は、同じクラスなのだ。耳に入ることがないとはとても思えない。
 嫌な予感が、背中を冷たく滑ってゆく。
 しかし、誰かに問い質そうと唇を持ち上げかけた寸前――つい今しがた張られたばかりの頬を押さえる女が、金切り声を上げながらこちらに対峙してきた。
 要約するに、こうだ。
 彼女は、橘杏に好意を寄せている。だが杏は女テニ以外の女子とは、楽しく話してくれることはあっても然程密な仲を築いてはくれないという。内村も含め女テニ部員からすればその部分はよくわからなかったが、少なくとも傍からはそう見えるらしい。簡単な話、彼女は女テニに嫉妬したのだ。
 やがて、折好く産婦人科医院から出てくる桜井の姿を見かけたという取り巻きの言葉に、あることないこと付加して詰め込み吹聴するようになった……という話だった。
 そんな無粋なことをしたところで、杏を振り向かせるどころか余計距離を置かれてしまうだけだろう。単なる嫌がらせが目的だったのかもしれないが、そうだとすれば尚更、あまりに無意味な行動である。
 哀れみさえ覚える彼女とその取り巻きたちの姿に辟易しているうちに、騒ぎを聞きつけた教師数人が教室へと入ってきた。
 また女テニか。学年主任の老年の男性教諭が呆れたような溜め息を吐くのを、じろりと睨む。つい先日、内村が彼女を殴り飛ばした時にも彼は同じ嘆きを零していた。
 事なかれ主義、我関せずの教師ばかりが揃うどうしようもない学校なのだ。それは一年生の時から身をもって知っている。大会を勝ち進み、部が躍進を遂げた際には手の平を返したように褒め称えてきた癖に、こんな時は「喧嘩は程々にしろ」のたった一言である。
 喧嘩というより、そもそも発端は一方的な嫌がらせだったのだ。ふつりと切れそうになる理性を引き戻してくれる相方は今、幸か不幸かこの場にいない。一年生時に女テニの顧問を務めていた男の顔が、忌々し気にこちらを睥睨する老年教師と重なった。耳の裏が、熱くなる。
 握り込んだ小さな拳を、じわりと持ち上げたその時だった。
「すみませんでした。以後、気を付けます」
 明るい声音をきっぱりと吐いたのは桜井だった。
 彼女は教師連中に向かってさっと頭を下げるやいなや「時間のムダ」と小声で零すと、ひらりと手を振り出入り口へと向かた。はっとしたように桜井に倣って軽く頭を下げた石田が、すぐに彼女の後を追う。暗色の瞳をじとりと教師連中に這わせた伊武は、「神尾、行くよ」と幼馴染みの手を引いた。
「杏くんの好みのタイプも知らねぇで、よく好きとか抜かしてられんな」
 去り際、鼻を鳴らした神尾が小声でぼそりと吐き捨てるのが聞こえた。彼女にしては珍しい、低く潜めたような聞き慣れぬ声音だった。
 恐らく神尾は『そんなことするような奴だけは杏くんは好きにならねぇのにバカじゃねぇの』というようなことを言いたかったのだろう。神尾のバカにしては皮肉が効いてやがる、と感心しているうち、滾っていた怒りはいつの間にか収束し始めていた。軽口を叩き合う仲である現部長が、大人な態度を見せたせいもあるのだろうか。
 内村は何も言わず件の女をふっと睨み、教師陣の横をすり抜けた。廊下に出た途端、沈黙を守っていたクラスメイトたちがどっと一斉に呼吸し始める音が聞こえる。これから先クラスに居づらくなるのだろうか、などとは今更考えもしなかった。そんなものはもう既に一年生の時に味わっている。
「またしばらく昼ご飯、部室で皆で食う?」
「冬は寒いから嫌なんだよなぁ」
 桜井と伊武がおかしそうに囁き合う傍で、石田がそっとこちらに視線を注いできた。何だと目だけで問えば、長身の少女に案じるような声で名前を呼ばれる。
「早く、保健室に行ったほうがいいんじゃないか。きっと森は……内村の為に、泣いたんだ」
 形良い唇から吐き落とされたその名前に、肩が跳ねた。
 それは紛れもなく、内村が今一番聞きたいことだった。怒りに我を忘れそうになっている場合ではなかったのだ。
 何故保健室にいるというのか。具合が悪い? 怪我をした? あまり想像を巡らせたくないことばかりがぐるぐると思考を占拠してゆく。
 話の流れが読めず、内村は間髪入れずに「どういうことだ」と聞き返す。すると石田は「そういえば話してなかったんだった、ごめん!」と慌てて神尾に目を向けた。釣られるように慌てた神尾が、「そうだった!」と乱暴に口を開く。
 彼女が早口に一通り話し終える間もなく、内村はさっさと保健室に向かって走り出していた。
 振り向きざまに、背中を見送ってくれる彼女らに「さんきゅ」と小さく礼を述べる。面映ゆさを押し隠そうと、すぐに帽子のつばを握り込んだ。しかし内村の精一杯の感情表現は、気心の知れた彼女らには十分に伝わったらしい。
「少ししたら、うちらも行くからー!」
 背中に届く桜井の声に、微かに耳の先が熱くなる。余計な気を遣われたようで恥ずかしい。視線だけを後ろに流した内村は、「うっせー」と悪態を飛ばした。
 廊下を突っ切り、数段飛ばしで階段を下り、一直線に保健室へと駆け込み――現在に、至る。


 どんな顔をしているものやらと覗き込んでみれば、残る涙痕以外は拍子抜けする程に穏やかなものだった。
 内村が保健室を訪れた時には、眠る森以外に誰もいなかった。神尾が彼女を伴って来た際には養護教諭がいたらしいが、今は留守にしているようで丁度良かった。休み時間、養護教諭がいれば保健室は遊び半分の来訪者でごった返しがちだ。
 人差し指で膝をとんとん叩く。寝顔を見つめている以外に、何もすることが無い。秒針が時を刻む音しか聞こえぬ空間に、次第に落ち着かなくなってくる。つい先程まで一触即発の状況にいたからか、或いは、相方の寝顔をまじまじと見つめる機会など早々無いからか。
 手持無沙汰に、彼女の頭に手を伸ばす。いつも付けているカチューシャをそっと外してみた。毎日色の変わるそれは、今日はクリーム色だ。カチューシャに手放された癖毛がちな短い髪の毛が耳と頬にかかる。その間もじっと視線を注いではみているが、やはり目を覚ます気配はない。奪い取ったそれを人差し指に引っ掛けて、ゆらゆらと弄ぶ。
「森」
 今一度その名を口にして、少しだけ逡巡し、数拍。
 内村は静かに椅子から立ち上がると、寝顔を見下ろしつつ、そっと彼女の耳の裏に触れてみた。小さな手でショートヘアをさわりと撫でる。そのまま頬に、つっと指を滑らせてみる。
「……ん……」
 くすぐったそうに身を捩らせた森から、今日初めて声を聞いた。安堵が、じんわりと体を満たしてゆく。生きてる。そんな大袈裟なことを口の中だけで呟いて、内村はさらに彼女の耳の裏をくすぐった。
「……か……やだ……」
 すると森が、く、と眉根を寄せて掠れた声を漏らした。
 夢の世界の中でふるりと左右に頭を振る彼女が、何を訴えようとしているのか。内村はそっと手を離し、はたと見つめる。森。みたび名前を呼んだ声は、優しく秋の空気を震わせた。顔を近付け、息を飲んで耳を傾ける。
「……すいかは……いやだ……」
 一拍だけ、間を置いた後。
 ふわりと鼓膜を打ったのは、拍子抜けするような間の抜けた寝言だった。
「……てめぇ」
 寝顔に悪態を吐き、再び丸椅子へと乱暴に腰を下ろす。脚を組んで頬杖を突きながら、彼女がおばけのように巨大なスイカに追いかけられているところをふと想像した。くつくつと喉が震える。くは、と笑みが零れ落ちた。
 なるほど初めから、彼女は心配されるような弱い人間ではないのだ。そもそも、取り巻きを引き連れた件の女の元に一人で飛び込んでいったくらいである。
 それにしても、心根が優しく滅多に怒りを露わにしない彼女の逆鱗に、一体何が触れたというのか。最も気になるところはそこだった。石田の言葉がふと脳裏によぎる。内村の為に泣いた。もしもそれが本当ならば、森が泣くはめになったのは自分にも責任の一端があるということになる。あまり見過ごせた話ではない。
「……めろ…ん…も、いやだ……」
 すると、不意に。
 ぐるりと巡らせていた思考をぶった切るような寝言が、再び耳に飛び込んできた。
「はー……」
 ひくりと吊り上がる口端を諌めながら、内村はすっくと立ち上がる。
 ――相変わらず、ゼータクな好き嫌いしやがって。
 ――こっちはお前と違って頭使うの苦手なのに、今必死で回してんだよ。
 案じる気持ちはどこへやら、穏やかな苛立ちが胃の腑に積もる。ファンタジーな夢を見ているのか、はたまた嫌いなものを口許に押し付けられているのか。どっちでもいいからとにかく早く目を覚ませ。そんなふうに念を籠めながら、内村は彼女の胸元に躊躇いなく手を伸ばした。
 カーディガンとセーラー越しに微かに感じるワイヤーの感触。頬を撫でる時よりもずっと躊躇いの無い手付きで、もう少し上に小さな手を移動させる。
「……ぅ……ん……っ」
 柔らかな感触を、指が捉える。
「起きろー」
 薄らと汗ばむ寝顔に吐き落として、空いているほうの手も伸ばす。服を着ているとあまり目立たないが、小柄な少女の小さな手では包み込めない程度には豊かな胸。揉み込む指に従って形を変える柔らかな乳房。
 そろそろ、ブラジャー邪魔。そう思い始めた、矢先のことだった。
「わぁっ!?」
 素っ頓狂な声を上げ飛び起きた森の頭が、鼻先にごつんと当たる。痛みに耐え兼ねて思わず声を上げれば、丸っこい瞳がはっとこちらを捉えた。
「は、あ、び、びっくりした……。う、内村か……」
 さっと掛け布団を抱き寄せながらやんわりと笑みを貼り付けた森に、内村は鼻先を押さえながら向き直る。
 どうしたの、鼻。不思議そうに問われるものだから、そのまま軽く睨んでやった。自業自得だと言えなくもないのだが。
「……えっ。うわ、内村だ!」
 改めて驚かれ直されても困る。
 何と返せば良いかわからず、内村は静かに丸椅子に座った。
「あっ、神尾は……?」
 ぱくぱくと口を開閉させる森に向かって、「一時離脱」と適当な言葉を舌に乗せる。
 そっか、と納得したのかしていないのかわからない曖昧な返事を寄越した森の目は、自分だけに向けられていた。そのことに途方もない安堵を覚えてしまい、羞恥と自己嫌悪の合間のようなぬるい感情が押し寄せる。隠すように内村は、下唇を長い舌で湿らせた。
 じっとこちらを向いていた目が、ゆっくりと視界の中を傾いでゆく。力が抜けたように再びベッドに横たわった森の丸い目は、横向きにこちらを見上げていた。小柄な内村にとって、あまり慣れぬ位置からの視線だ。
 沈黙の帳が、再び静かに降りてくる。
 降り積もってゆく時の音だけが、二人の耳を打っていた。相手は森だ。今更沈黙に気まずさを覚えるようなこともない。しかし今ばかりは、少し様相が違った。
 どうしたものかと手持無沙汰に帽子を取る。ついさっき勝手に拝借した彼女のカチューシャを、裏返した帽子の中に放り込んだ。あ、私の。上がった声に、素直に目を向ける。細く切れた三白眼が、柔らかな相貌を映し出した。
「……あのさ」
 じっとこちらを見上げたままの森が、やがてゆっくりと口を開いた。
「勝手なことして、心配かけて、ごめん」
 ――いや、内村が私のこと心配してくれてたのかどうかは、わからないけど。
 慌てたようにそう続けて、聡明な少女はほろ苦く笑った。そんな顔を見ているうちに、すっかり落ち着いていた苛立ちがふつりと首をもたげる。
「勝手なこと、ってのはよくわかんねぇ。うちもお前も別の人間だ。いつも勝手なことして生きてんだろ」
 率直に出した言葉を、森は黙って聞いてくれる。いつだってそうだ。同意ならばそのまましかと首肯してくれる。意見が違えばしっかりと咀嚼し反芻してくれた上で、筋道立てた反論を寄越してくれる。だから彼女の隣は、他の誰よりも居心地よく感じてしまうのだろうか。恥ずかしくなるようなことを考えている自分がおかしくて、笑ってしまいそうになる。
「ただ、その後がムカつく。お前うちのこと、何だと思ってんだ」
 森は敏い。内村が言外に伝えようとしていることを、いつもあっさり汲み取ってしまう。今日も例外なくそうだった。彼女の瞳の動きでそれがわかってしまう自分も大概だ、と内村は頭に手をやる。ベリーショートをがしがしと掻きむしった。これが照れ隠しだということも、とうの昔にばれている。
「うん。ありがとう、内村」
 薄い布団を首元まで掛け直しながら、森はくすぐったそうに笑った。薄く色付いた唇に乗せられた礼を、内村は少し持て余してしまう。
「私、あの子たちが何で桜井のことあんなふうに言い始めたのか、大体見当ついてたんだ」
 ――杏くんのこと、好きなんだよね。たぶん。
 携えた微笑をほんの少し苦くさせた森は、何かしらの決着はもうついたのだろう、と悟っているように見えた。
 内村は頷き、帽子の中に入れたままだったカチューシャを取り出す。
「それであの子、今度は内村のこと、言い始めたよね。殴られたからって」
 鈴の音のような笑みをこそりと浮かべて、森は眉尻を下げた。
 内村も、実際それは耳に入れたのだ。そもそも内村を困憊させることが相手方の目的であったならば当然のことと言える。
 黙って頷き、再び人差し指にカチューシャを引っ掛けた。ゆらゆら揺れる自分のヘアアクセサリーに、森の視線が一瞬奪われる。
「それでさ。私この間クラスの子たちに、『森さんってドーセーアイのこと、どう思う?』って聞かれたんだ」
 指に絡めていたカチューシャが、するりと帽子の中に飛び込んでいった。
 必要以上なまでに穏やかな語り口が、彼女が孕む怒気の猛々しさを物語っている気がした。
 内村は、横たわる森の顔から目を逸らせなくなる。
「ああこの子たち、内村の噂聞いて私のとこに来たんだな、って思いながら『性の指向は人それぞれだよ』って答えたら、」
 一度そこで言葉を区切り、森は短い横髪を指先で弄った。それでも、二の句を躊躇う様子は無い。
「今度は他の子から、『お前相棒の帽子のブスとセックスしてんの?』って。ヘラヘラしながら、聞かれてさ」
 彼女を凝視したまま無意識のうちに詰めていた息を、そっと吐く。解放された肺が大きく酸素を取り込んだ。保健室特有のつんとした消毒液のにおいが、鼻腔の奥に溜まりを作る。
「内村はレズだって」
 件の女が内村について吹聴し始めたこととは、間違いようもなくそれだった。
 外見で人を決めつける稚拙でオツムの弱いカワイソウな奴ら。そう思い無視することに決めたとはいえ、自分より以前に桜井に関しても法螺を吹いていたのだ。加えて、尾ひれ背びれを生やしたそれは、知らぬうちについには無関係な森の元にまで飛び火していた。
 もしも今日、例え見かけだけでもああいった形で終止符が打たれなければ、不快な嫌がらせはきっと女テニ全員に波及していたことだろう――もっとも、幸か不幸か凄絶と言っても過言ではない虐めを受けていた彼女らにとって、今回の件は学校へ向かう足取りが重くなる程のものではなかったのだが。
 森は、ほんの僅か頬の筋肉を弛緩させた。微笑と言うには少し心もとないそれは、あまり彼女に似合う類いの笑みではなかった。優しく賢明な心根から滾々と湧き出るような、屈託の無い笑み。相方の顔にそれが戻ってくるには、もう少しだけ時間を要するらしい。
「私、いてもたってもいられなくなって、あの子たちのこと呼び出したんだ」
 あは、と照れ臭そうに頬を掻く森に、内村はゆるゆると目を見開いてしまう。
「は? お前が呼び出されたんじゃねぇのか」
 驚いた様子も隠せず早口に問えば、「え? 違うよ」とあっさり否定された。
「まあでも、そうしたら逆に、私が泣いちゃったんだけど。あはは、情けないね……」
 ゆるりと苦笑を深めて、森はそっと寝返りを打った。天井に備え付けられた蛍光灯にまばゆく目を細めた森は、視線だけをこちらに寄越す。細められた丸い目が、横目に内村を捉えた。
「だって私、今度はそれを流した本人に、同じことまじまじと聞かれたんだよ。森サンは、内村サンと、セックスしてるの、って!」
 内村は、ひゅっ、と空気を飲み込んでしまう。
 諌めようと下を向けど、小刻みに肩が震えてしまう。薄い下唇をぎゅっと噛み締め、丸椅子の縁を両手で握りしめる。
 今度こそ帽子の中からカチューシャを取り出して、内村はそれを森に戻すつもりでベッドの上へと放った。次いでさっさと被り直した黒のキャップのつばを、ぎゅっと握り込む。
「……く、」
 思わず声が、漏れ出てしまう。
 くく。一度出てしまえばもう抑えることは出来ず、次から次へと飛び出してゆく。三白眼を細め、小さな頭を揺らす。おかしくて堪らなかった。腹が痛くなる。
 何がおかしいのか。決まっている。噂として広まっていた自身の性的指向に関することが、ではない。件の女に森が言われたことが、でもない。
「お前、森」
「はい」
「相当、キレてんな」
 きょとりとこちらに顔を向け直しながら、森はぱちぱちと目を瞬かせた。その様子が、込み上げる笑いをさらに煽る。
「え。そう見える?」
 びっくりした、とでも言いたげに円らな瞳を尚のこと丸くさせる相方は、しかし次の瞬間、内村と同じ類いの笑みを唇に纏わせた。
 こんなにも頭に血を上らせている相方を見るのは、初めてのことだ。彼女も彼女で、そんな自分自身がおかしいのかもしれない。
「お前みてぇなお優しい奴が、ワザワザうちの悪口を包み隠さず本人に伝えてくるあたり。キテんなって」
 くつくつ喉を鳴らせば、森は慌てたようにごめんと何度か謝った。しかし、内村が今求めているのは拙い謝罪などではない。
 はちきれんばかりに肥大した彼女の憤りの根源が自分であることを嬉しく思ってしまうのは、捻くれてしまっているからか、それとも、いつになく素直になってしまっているからか。
「あと、『ヘラヘラ』とか強調しちゃって、もうカシコい森さん、クソ共のことマジでバカにしまくりって感じでサイコーにイカすわ」
 はは、と声を立てて笑ってしまう。
 そんな内村の言葉に目を見開いた森は、数拍の間を置いた後、やがて「ふふっ」と面映ゆそうな苦笑いを零した。
「ありがとう。内村にそんなにちゃんと褒められたの、私初めてかも」
 苦笑を深める森に、内村はにんまりと片頬だけを持ち上げる。帽子のつばを引き下げれば、目許に落ちる影が濃くなった。
「うちとそんなん思われて、お前のがヤだろ」
 背を丸くさせながら、ぶらりと脚を投げ出す。再び太ももに頬杖を突き、影の中から表情を窺った。
 すると森は一重目蓋を一度上下させて、しっかりと一呼吸するだけの間を置いてから、きっぱりと口を開いたのだった。
「ううん。それはないよ。私が怒ってるのは、違うことだから」
 ほんのりと頬を紅潮させた相方は、白い歯を覗かせつつそっと上半身を起す。
 ――やっぱりこいつは、少し素直過ぎる。
 苦手だ、と口の中だけで呟く内村の頬は、しかし相方にあてられたようにほんのりと熱を帯びていた。
 緩慢な動作で伸びをする彼女に向かって、「へぇ」と適当な相槌を打つ。涼秋の空気にさらされて乾燥した唇を、内村は今一度長い舌で湿らせた。
「私の内村への気持ち、そんなふうにばかにされたくなかったから」
 だから、それ程までに憤りを募らせてしまったのだと。
 鼻から抜けるような笑みが落ちてゆくのとは裏腹に、首の裏までもが静かに熱を持ち始めるのが情けない。
「あと。内村との初めては、もっと大切にしたいから」
 素直なその口は、今日はほとほと何もかもを喋り尽くすつもりらしい。鼻の先が熱くなる。心臓が、ぎこちなく跳ね回った。
「だからもうヤったみてぇに思われてんのが、嫌だって?」
 呆れた様子で返せば、森はすぐに「うん」と首を縦に振った。
「……ハハ。傑作。訂正するわ。お前、マジでイカれてる」
「あはは、そうかな。私はただ、……内村のことが好きなだけ、だよ」
 ゆっくりと言葉を紡ぐ森の耳の先は赤い。
 こそばゆくてかなわなくなった内村は、さっと丸椅子から立ち上がると、取り繕うように少しだけ伸びをした。ぱきぱきと筋が音を立てる。
 やがて腕組みをして、精一杯の憎まれ口を叩こうとする。
「イカれてるし、そんで、」
 しかし。
「私とのこと嫌じゃない、内村もイカれてる」
 少しだけ早く台詞を奪われ、面食らう。
 悪戯っぽく微笑んだ森の顔に差す赤みを、頬に出来た小さな笑窪を、鋭さの鳴りを潜めた三白眼は柔らかく宿していた。
「先に言うな」
 咎めれば、ふくふくとした屈託の無い笑みを浮かべられる。最も彼女らしい、見慣れた笑顔。そして同時に、最も今日の彼女らしくない笑顔。
「……噂、ホントにしてやるか?」
 だから自分も、あてられてらしくないことを言ってしまった、だけなのだ。
 自分を言い含めるように、内村は平らかな胸の中で繰り返す。頬が、首の裏が、耳の先が、爆ぜたように熱い。心臓が、鼓膜のすぐ近くで波打っている。
「……あはは。私も同じこと、ちょっとだけ考えてた」
 真っ赤に頬を紅潮させながら、しかし森は確かに返答を寄越してくれた。
 ――二言はねぇぞ。
 聞こえるか聞こえないかわからぬ程の声量で呟き、内村は小柄な身をそっとベッドに寄せる。傍に座れば、丸い瞳はすぐにきゅっと目蓋に隠れて見えなくなった。
 切れた瞳を彩る短い睫毛を、静かに下ろす。
 やわく触れ合う、唇と唇。リップクリームの施された森のそれは、自分のものよりしっとりしていて柔らかだ。長い舌先でつっと突けば、森はすぐに薄く口を開いてくれる。
「……ん……」
 唾液が絡み合う音が、互いの情欲をふつりと煽る。肩に手を置いて体勢を固定させれば、森からもおずおずと首の後ろに両手を回された。
 長い時間をかけて、互いの粘膜をなぞりあう。最近覚えたばかりの拙いキス。長い舌を使って森の舌を弄んでやれば、恐る恐るといったふうに彼女からも絡められた。
 は、と。
 浅い呼吸と共に離れてゆく、互いの顔。これ以上ない程に煩く喚く心音と、どくどくと波打つ脈。体を密着させているせいで、それがどちらのものなのか最早わからない。
 しっとりと細められた森の瞳は、熟れたように潤んでいた。それとも、熱に浮かされた自分が映っているせいだろうか。或いは、その両方か。
「うちむら……すき、だよ」
 言われなくとも、十二分に伝わっている。
 しかし彼女程素直に出来ていない内村は、同じだけの気持ちを上手く伝えられる言葉をいつだって持ち合わせていない。
「……うちも、」
 ――だけど。
 ――今日は、イカれたついでだ。
 そう思い微かに笑った内村は、相方にだけしか聞こえぬ小さな小さな声で、そっと続きを紡いだのだった。


◇ ◇ ◇


 すっかり平素の朗らかとした表情を取り戻した森を取り囲むようにして、女テニ面子が狭いベッドを占拠している。
「生きてて良かったー!」
「あはは、そんなに簡単に死なないよー」
「おい森聞いたか、私の武勇伝。お前の相方に借り返してやったから」
「うん、内村からしっかり聞いた」
「思ったより元気そうで、本当に良かった……」
「ふふ、ありがとう。むしろよく眠れていつもより元気かも」
「そんなに早くくたばるような奴じゃないでしょ」
「わ、深司が素直だ」
 口々に交わされる会話を隣で聞く内村は、輪から一歩下がったベッドサイドで黙って腕組みをしている。
 中央に座る森の右サイドに神尾と伊武、反対側に桜井と石田。浅く腰掛けているとはいえ、簡単な造りのベッドに五人も乗っていればいつか壊れてしまうのではないか。内村のささやかな心配もよそに、「とうっ!」とヒーローの掛け声よろしく神尾が森に抱き着いた。次いで桜井が、その上に折り重なるようにして飛び込む。
「もう、危ないよ」
 三者三様色違いのカーディガンを纏った体格の違わぬ少女たちの山に向かって、石田が苦笑を浮かべた。お前の体重が一番危ねぇんじゃねぇか。自身の平らかな胸部と大柄な彼女の豊かなそれとを見比べながらそんなことを思うが、しかし声には出さないでおいてやった。彼女がそれを気にしていることは内村とて知っている。
 ちなみにもう一人の美少女はというと、神尾の耳の先を引っ張って遊んでいた。ポーカーフェイスはいつになく楽しそうに崩されている。
「内村、なに突っ立ってんだよ」
「お前も早くー」
 森に抱き着いたままのかしましい少女二人に手招きされる。何が「早く」だ。そう思いはするものの、内村とて平素通りというわけではない。少しばかり浮かれた気分であることは、悔しいが否めなかった。
 昼休みの終わりを告げる予鈴は、とうに鳴り終わっている。しかし、日頃生真面目に授業を受けているであろう森や石田ですら咎める声を上げることはなかった。何だかおかしくて、唇の端が震える。
 く、と笑みを零せば、神尾と桜井に纏わりつかれたままの森がこちらに視線を寄越すのに気付いた。不意に、つい先程交わしたばかりのキスの感触を思い出す。首の裏が、みるみるうちに熱を帯びていった。こちらを見つめたままの森は、ふふ、とおかしそうに眉を八の字にさせる。彼女の頬も赤い。
 羞恥を押し退けるようにして、内村は帽子のつばを掴む。やがて一歩、大きく踏み出した。
「楽しそーじゃねぇか」
「内村サン来てくれたぁ」
「やったー!」
 空いているスペースにどかりと腰を下ろす。ぎし、とベッドが軋む音が聞こえた気がするが、最早関係ない。落ちる時は落ちる時、運命共同体というやつだ。
「お前らうちの女に手ぇ出してんじゃねぇよ」
「きゃあっ内村さんてばぁ」
「シビれる憧れるぅ」
 軽口を叩く桜井と神尾に合わせるように、喉の奥にせり上がってきた台詞を適当にそのまま吐き出す。
 すると森が、ぱっと口許を押さえるのが横目に見えた。疑問符を浮かべつつその顔を窺えば、あろうことか彼女は「内村格好良い……」などと本意気のトーンで零している。途端、かっと鼻の先が熱くなった。キャップのつばを強く握り込み、ぎゅっと引き下げる。
 やめろ。低く潜めた声で吐く。すると桜井と伊武が、頬をひくひくさせながら意味ありげな視線を流してきた。殺すぞ。浮かんだ悪態をそのまま小声で吐き出す。
「わ。お邪魔だった?」
 カーテンを引く鋭い音が六人の耳に飛び込んできたのは、その時だった。
 狭いベッドの上で戯れる少女らを映し出す目は猫のように鋭く切れ上がっているが、瞳は円らだ。耳が出るか出ないか程度の長さを無理矢理後ろに一纏めにした栗色の髪。細い絹糸のような後れ毛が、傾げられた首に従ってふわりと揺れた。
 小作りに整った相貌を驚きに染めていた少年は、しかし数拍も経たぬうち、ふふっと噴き出したのだった。
「あああ杏くん!」
 いの一番に彼の名を口にしたのは、言わずもがな神尾であった。ぱっ、と慌てたように身を跳ね起こすものだから、折り重なっていた桜井と内村にまで被害が及ぶ。ベッドから落ちそうになるのをどうにか堪えた。
 隣に座る伊武が、包み隠そうともせずに「げっ」と悪態を吐くのが聞こえる。
「ちょっと男子ー、女子に無断でカーテン開けないでくださぁい」
 わざとらしい台詞を述べつつ唇を尖らせる桜井に、杏はおかしそうに喉を震わせる。ごめんごめん。小さく謝罪を口にする少年を見る神尾の目は、まるで恒星を映し出しているかのようにきらきらと輝きを帯びていた。
「皆、流石だよね。誰の影響なんだろうって、俺ちょっと責任感じちゃった」
 ベッド脇の丸椅子にそっと腰を下ろしながら、杏は歌を口ずさむように軽やかに話す。姉とよく似た瞳を楽しそうに構える少年は拳を握り込んだかと思うと、アッパーで何度か空気を切った。やがて、簡素なベッドに身を寄せ合ったままの同級生の少女らに一様に視線を滑らせる。
 この口ぶりからするに、昼休みに何が起きたのか――いや、ここ最近の女子テニス部を取り巻いていた不穏な一件の全てを、彼はもう既に知っているのだろう。
「あ。姉貴は何も知らないみたいだから安心して。まだ三年までは届いてないみたい」
 そもそも鈍感だからなー。苦笑を零す杏に、神尾を除いた皆が口々に同意を示す。赤みを帯びた頬を両手でぺちぺち押さえている快足の持ち主は、幼馴染みから寄越される恨めしそうな視線に気付いていない。
「ていうか。君にも一言謝ってもらいたいところ、あるよなぁ」
 神尾に投げていた視線をそのまま持ち上げながら、伊武がぽそりと呟く。深司、と困ったように石田が眉尻を下げる。
 長い黒髪を指先でつっと弄る美貌の少女に、杏は苦味走った笑みをゆるりと深めた。
「ごめんね。皆、本当にごめん」
 素直に、そっと頭を下げられる。ここにいる誰のものより色素の薄い髪の毛が、さらりと重力に従って空気を揺らした。
 少年の毅然とした態度に、少女らは思わず目を見合わせる。やがてゆっくりと二回瞬きをするだけの時間を置いた後、皆が同じタイミングで頬を綻ばせた。
「謝られたら謝られたで、なんか嫌だよなぁ……別に君が悪いわけじゃないし」
「モテますって言われてるみたいでムカつくよなー」
 伊武と桜井の言葉に、杏は「じゃあどうすればいいのか教えて」と眉を八の字にさせながらも軽やかに笑った。
「だってもう、二年中この話で持ち切りだよ。おまけに皆揃って授業出てないんだもん」
 そう言ってけらけらと喉を震わせる彼もまた、同じ穴の狢である。
 彼は転校してきたばかりの頃から今まで、変わらずずっと自分たちの味方でいてくれる。多くの生徒や教師に距離を置かれる中、彼の存在は随分と頼もしく稀有で、大きなものだった。それは女テニの同輩ら皆が認めるところだろう。神尾が杏に懸想するのも仕方がないことと言える。
「姉貴ってば、本当に良い後輩に恵まれてるよ」
 裏表の無いあけすけな微笑を湛える彼は、贔屓などしたこともない内村の目から見ても、十二分に端正な顔立ちをしているとわかる。そんな杏から、自分も含めたこの場の誰もが最も嬉しくなるだろう台詞を今、吐き落とされたのだ。
 頬に熱が溜まるのを逃がそうとベッドの中に視線を向ければ、同じような顔をした皆と目が合った。情けなくはにかんで、皆で笑い合う。
「可愛くて格好良くて強くて。皆以上の女の子、俺知らないよ」
 ふわり、と。
 まるで空気に乗せるかのようにして紡がれた台詞に敵う者など、果たして今ここに一人でも存在しているのだろうか。答えは無論、否である。
 この男が、女テニの中で神尾以外に惚れられていないことが本当に不思議でならない。自分を棚に上げながらそう思う内村には、しかしその理由の察しは大体ついている。きっと何も知らないのは、今となっては神尾くらいのものだろう。つい最近までは、石田もそうだったのだろうか。
「杏くんさ、好きな子とかいねぇの?」
「うちらに構ってる暇あったらヨソ行けヨソ」
「打っても響かないのに、こんなとこでそんな台詞、もったいないよなぁ」
「はは……橘さんの弟なだけ、あるっていうか」
「ふふ、そうだね」
 完全にリズムを狂わされてしまっている茹で蛸を除いた皆が皆、面映ゆさを早く霧消させようとそれぞれに声を絞り出した。
 けらけら笑うだけで何も返事を寄越さぬ杏が、何をどこまで悟っているのか。今はまだわからないが、別にわからないままでも一向に構わない。ただ一つ皆がわかっているのは、おそらく杏も『性の指向は人それぞれ』と明快に答えてくれるだろうということ。
 うっとりとハートマークを顔中に散りばめている神尾の片頬を皆でつつく。伊武が籠める力が人一倍鋭いことに、少しだけ笑ってしまった。
 そんな少女ら六人を朗らかに眺めている杏が、校内一の男前であるということ。それは各々主張の違う女テニの同輩たちが一様に意見を同じくさせる、数少ない事例の一つであった。





Epilogue


 金髪に染め上げられたベリーショートから、水滴がぽたぽたと床に滴り落ちてゆく。それに気付いたのか、姉は「む」と身を屈めると肩に掛けていたバスタオルを頭に被った。
 何でもないといったふうに、今日も今日とて無防備にさらけ出される筋肉質な両乳房。年子の弟がテレビを見ているリビングをショーツ一枚で平気でうろうろ出来る神経に、杏は近頃いよいよ辟易していた。
「すまんが杏、そこのティッシュ取ってくれないか」
 父親譲りの厳めしい眉が、ぎゅっと下げられる。他にもっと申し訳なさそうにするところがあるだろう。何度言ってもわからないのだから、思うだけに留めておいて口には出さない。労力の無駄だ。
 はぁと大袈裟に溜め息を吐きながら、杏はローテーブルの上のティッシュ箱をぽんと投げる。「ありがとう」と受け取った姉はそのままの格好で床に膝を付き、落ちた水滴を拭った。
 良く言っても鈍感、悪く言えばただただ無神経である。
「姉貴さ。ちょっとくらいでいいから、気、遣えないの?」
 フローリングを拭う度にたぷたぷ揺れる筋肉質な胸を極力視界の端から追い出しながら、杏は久しぶりにやんわりと彼女を咎めた。しかし姉はというと、やはり「何がだ」と顔に疑問符を散らばすのみだった。
 ――ああ、ほら。
 ――今日もまた、無駄な労力を使ってしまった。
 正確なコントロールで投げられたティッシュの塊は、少し遠くにあるゴミ箱に見事に入った。
 得意気にふんと鼻を鳴らす姉は、良くも悪くも子供っぽい。そう感じてしまうのは、彼女が誰よりも気に掛けている後輩たちと少し長く話してきたからか。彼女らのほうが姉よりも大人びている部分が多くあることを、話す度に実感してしまう。
「そんな姿知られたら、また桜井さんあたりに怒られちゃうんじゃないのーって」
 もう慣れたことではあるのだが、それでも極力裸を目に入れないようにしつつ唇を尖らせる。
 すると、そんな弟の言葉に珍しくも表情を強張らせた姉は、頭に被っていたバスタオルを慌てたように肩に掛け直した。一応、自覚はあるのだろうか。
「杏……何で私が桜井に怒られたこと、知ってるんだ……」
「ふふん。今日、小耳に挟みまして」
 いくらあの橘さんでも見逃すことは出来なかった、などという大仰な前口上と共に桜井が話していたことを思い出す。
 男である自分としては詳細はわからないのだが、それに関する姉の口癖が『生理痛は気合いでどげんかする!』なのは転校前からのことだ。だがそれは、鈍感で大雑把な性根が似ている高身長の昔馴染みとの間だけの常識である。部活中だか何だかに例のごとく姉がそれを口走ったところ、女テニの中でも一等精神的に早熟な次期部長に怒られてしまったらしい。
 桜井という少女は時々皆の『お姉ちゃん』のような部分を垣間見せる子だという印象を持ってはいたが、なるほど次期部長に推されるだけのことはあるのかもしれない。その最終判断を下したのはほかでもない姉のようだが、まさかその一件が大きな要因になっていたらどうしようと想像して、杏は苦笑した。
 目覚めが早い祖母と曾祖母は、もう既に就寝している。共働きの両親は反対に帰りが遅く、まだ帰宅前だ。だから杏は、必然的に姉と二人きりで過ごすことが多かった。
 家族で居る時に標準語を使うのは、初めのうちはくすぐったく感じられた。しかし最近ではもう随分と慣れたものである。父親の転勤が決まってからの短期間、互いに方言を出さず喋れるようにと練習していたことが懐かしい。少し恥ずかしくも、楽しい思い出だ。
「というか、杏。私が一人寂しく受験勉強してる間、お前はあの子たちと楽しくお喋りしてきたってことか?」
「うーん? まあ、そんな感じかな」
 本当は授業をサボタージュして無人の保健室で話し込んでいたのだが、自分の為にも彼女たちの為にも、よもやそんなことは言えるはずもない。口を濁して視線を逸らせば、姉は何の疑いもなく「羨ましいな」と肩を落とした。
 彼女たちが思っている以上に、この姉は後輩たちのことを好いてやまないのだ。でなければ、三年の二学期半ばという大層な御身分で、週に何度も部に顔を出しに行くこともないだろう。
「ていうか姉貴、受験勉強とかしてたんだ。びっくり。もうどこ行くか決めたんじゃなかったの?」
「入るには入れても、勉強についていけないようじゃ論外だろう」
「わ。姉貴も一応そういうこと、ちゃんと考えるんだね。俺、少し安心しちゃった」
 猫のような瞳を丸くさせながら、杏は口許に笑みを浮かべる。
 それにしても、スポーツ推薦で夏前には早々に私学に声をかけられていたとはいえ、あの時期に突然髪の毛を脱色してきたことには流石の杏も呆れ返るしかなかった。その一方で、杏は姉のそんな破天荒な程の、どうしようもなく真っ直ぐで不器用な部分を好いてもいる。常に、脇道を正道に変え生きてきたような女傑なのだ。女に生まれてきたことがもったいない。そう思うのは、弟の贔屓目なのだろうか。
 歴史が好きな石田が、『橘さんは坂本竜馬の三番目のお姉さんみたいだ』と昼下がりに語っていたことを思い出す。幕末史に明るくない杏にはそれが何某を指しているのかあまりぴんとこなかったものの、仮にそうならば自分は坂本竜馬のような気転の効く豪傑になれるということだろうか。
 そんな明るい返しをすれば、女テニの皆は口を揃えてなれるなれると褒めそやしてくれた。一部からは、煽られているような気がしないこともなかったのだが。
 汗が引いたのかようやくTシャツを頭から被った姉に、杏はほっと息を吐く。別に今更、目にしたところで特別な感情が湧き上がるわけでも何でもない。ただ、ぼんやりとした気まずさを覚えるのが嫌なだけである。
 ソファの隣にぼすんと豪快に腰を下ろす姉を横目に、杏は栗色の髪の毛を耳にかける。
 もう少し短く切ろうか。昼間そんな話をしたところ、「短いのも絶対似合うと思う!」と神尾に破顔されたことを思い出した。いつの間にかファーストネームで呼ぶようになっていた彼女は、自分がプレゼントした髪留めを今でも大事に、常に使ってくれている。姉ではなく妹がいたなら、きっとあんな感じなのだろう。杏はほっこりと顔を綻ばせた。
「あ。そういえば森さんに本借りてたんだった。今日返せば良かったな」
「あいつは読書家だな」
「姉貴も少しは見習ったら?」
「はは、私はあの子たちから見習うところばかりだな……」
「本当、そう思う。偉そうにボスみたいな顔しちゃってるけどさ」
 読了するやいなやリビングに置き忘れてしまっていた文庫本を、ソファ前のローテーブルからそっと手に取る。
「この本の作家さん、九州出身の人なんだって」
「だから借りたのか?」
「いや、うーん。他にも理由はあるけど」
 黒地を紅色の花模様が等間隔に彩る表紙を、はらりと捲る。これまで純文学などあまり読んだことのなかった杏だが、短編集だからか思っていたよりも読みやすかった。
 それにしても、難儀な少女ばかりが出てくる一冊だった――と、本の中身をぼんやりと巡らせたところで、一つのベッドを占拠していた六人の顔を思い出す。
 別に、彼女らがこの本の登場人物たちのような性質を帯びているわけではない。だとしてもこの既視感の正体は、紛れもなく彼女たちなのだろう。
 長い睫毛が彩る二重目蓋を上下させながら、杏は形良い唇の端にぼんやりとした笑みを浮かべた。
「他にどんな話をしたんだ?」
 興味深げに視線を寄越す姉に向かって、杏は「うーんと」と曖昧に返事をする。例の一件に始まり、姉のこと、テニスのこと、今のままでは人数が足りないから女装して試合に出てくれ、と本気かどうかわからぬトーンで頼まれたこと、それから、覚えてもいないような他愛も無い話をいくつか。しかしここで全てを話して聞かせてしまうのはもったいない気がして、杏は含んだような笑みを浮かべる。
 一連の件を何も知らない姉は、彼女たちが淑やかにたおやかに、或いは烈として双方に向け合う情愛にも、きっと全く気が付いていない。そう考えると、姉の鈍感さも悪いことばかりではないと思える。裸でうろうろされるのは、やはり堪ったものではないが。
「姉貴にはまだ、内緒」
 そっと零し、唇だけで柔らかに笑う。
 少年はこれから先もずっと、蠱惑に惑わされぬ難儀な少女たちの味方でいるつもりである。


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