幻覚

エアベルンに襲いかかる魔獣の群。羽根を生やした魔獣が束になってレイナスたちに飛び掛かった。
丁度その日は太陽の日差しが眩しくて、上を向くたびちらちらと目に光が飛び込んでくるのがうざったかった。それに、我関せずと爽やかさを振りまく青い空にも何だか苛立ちが募る。
「はぁっ!!」
レイナスが両手に握った短剣を突き刺し、後ろからハントが援護をする。
下がって、と冷静にヴァイスから指示が飛び素早く身を引くと、魔獣の群は眩い雷に包まれた。
ロナードは構えも殺気も解かないままで、戦闘に生まれるだろう一瞬の隙を狙っていた。と、今度はヴァイスの放った最強魔法が眩くて、ロナードは目を細める。ちかちかと、今日はやけに目障りに瞼に全ての光が焼き付いている気がした。
「ロナード!」
全てを消し尽くそうとする魔法の光の中から、最後の力を振り絞り一匹の魔獣が飛び出してきた。それはレイナスの顔の横を過ぎ、一直線にロナードに向かう。
ロナードは、長い前髪を乱暴に払いのけた。は、とひとつ呼吸をするのに合わせ、慌てることなく剣を振るえば肉を断つ感触が柄から伝わってきた。
それから耳にざっ、と音がして血飛沫が頬にかかる。
それは真っ赤な血だった。
自分の頬を拭った手の甲を見、魔獣の血も赤いんだよな、などどうでも良いことを思う。
デッキに散らばった残骸は音を立てて蒸発していく。後を濁さない、魔獣らの最期を見つめてるといつも不思議な穏やかさが胸に帰ってくるのだ。このために戦っているような、そんな気持ちにさせる光景は嫌いじゃない。

さぁ、ヴァイスが横に並び、微笑みかけてきた。ロナードは頷きかけて、くらりと少し眩暈がした。
ほんの少し足元が揺れた感覚。
ロナードの変化に敏感なレイナスが駆け寄ってきて、その振動がやけに大きく頭に響いた。
「ロナード、大丈夫か?」
見た所外傷はなさそうだが、ぼうっとしている彼には危うさを感じる。ニアも近寄ってきて癒しの光、要る?と首を傾げた。
「…いや、大丈夫だ」
安心させるように柔らかく微笑んで断ると、さっさと船内に戻るハントに続きエレベーターに乗り込んだ。
なんだか体が重いのは、下降するエレベーターの中にいるからだろう。
そう決めつけてロナードは頭を振った。気のせいでないことには、自分が一番気づいているのだ。



「シャワー浴びて来いよ」
ずっと口を噤んでいた前を歩いているハントが、堪りかねたように振り返って言った。
「血がべったりついてる。ほら、こことか」
「…そうか、じゃあ」
「さっきからぼーっとしてっけど本当に大丈夫なのか?」
「あぁ」
怪訝そうに眉を上げるハントは手の甲でぐいとロナードの頬を擦った。ロナードはされるがままに、猫のように目だけ細めてみせる。その大人しい様子に更に気味悪そうに顔を歪めて、さっさといけ!とロナードをシャワー室に押し込んだ。
誰もいないシャワー室は酷く静かだ。
落ちる水滴の音さえも壁に吸い込まれて、暖かい風呂がまだ湧いていないせいか、漂う冷たい空気は知らない場所のようにそっけなくロナードを包み込む。
彼は居心地が悪くなって身を小さくして脱衣所で軍服を脱いだ。
そういえば、と、黒のカットソーにかけていた手を止める。血が頬についていると言われたばかりだった。せめて顔だけでも洗ってから風呂に入ろう、そう思って洗面台に近づく。
大きく横に長い、クルーによってぴかぴかに磨き上げられた鏡。
どの辺だろうと顎に指を這わし身を屈めた格好で、ロナードは動けなくなった。
…鏡の中の自分と、目が合った気がしたのだ。
そのもうひとりの自分は全く同じ端正な顔にべったりと血をつけて、
―――べったりと、血を?
おかしい、血はハントに拭ってもらったはずだ。これは見間違い、そう思う彼に鏡の中の自分の表情がゆっくり変わり、口の端をにんまりと持ち上げて笑いかけた。
初めて見る自分の笑い方。そして触れているはずの自分の手が、指が、誰か別のものである感覚。するりと顎から頬へ指が動く。動悸が早くなる。
その場を離れようとするが足が動かない。目も、離すことができなかった。
「…ロナード」

の中のロナードが、囁いた、ように思えた。
よくよく見れば、その彼の髪はかつての腰まで伸ばしていた長髪で、冷たい瞳、貼り付けた笑顔、頬には鮮血。その血が、どうしても魔獣のものだなんて、思えなくて―――やめてくれ、そう叫びたかった。
でも声の出し方を忘れたように息が詰まって喉が張り付いて、何も言えず金魚みたいに口をぱくつかせるだけで、ロナードの鼓動はどんどんと早く、大きくなる。
―――ロナード
確かに鏡の中から、再び声がした。

「ロナードー?タオル洗いたてのあるからここ置いとくねー!」
はっとして顔をそちらに向ける。ラナの声だった。
途端に力が抜け、洗面台に肘をつく。どうにか絞り出したからからの声で彼女に聞こえる様に礼を言った。
金縛りのように動かなかった体は、今は滝のような汗が流れている。嫌な汗だ。
今のは何だったのか、ロナードは恐る恐る鏡を見る。
そこには青い顔をした髪の短いロナードがいた。頬にはほんのり擦った赤い跡。
見間違いに違いないと、勢いよく服を脱ぎ、雑念を払うようにロナードは思い切り蛇口を捻った。



お前、本当に顔洗って来たのかよ、とはシャワー室から出て来ていの一番に彼に浴びせられた言葉である。ハントが眉を顰め、少し高い自分の方にロナードの頭を乱暴に押して上を向かせた。
「顔真っ青だぜ」
「気のせいじゃないか?」
「何かあったのか」
「取り立てて何も」
はぁ、とため息をついてロナードの頭を離した。ついでに軽くはたいて。
「何があったが知らねぇが調子悪いなら言えよ。お前は大事な戦力だからな」
「…わかった」
やっぱりぼうっとしているロナードを睨む。シャワー浴びる前より悪化してやがる、と口の中で舌打ち、駄目押しとばかりに付け足した。
「何でも一人で抱え込むなよ。若造は若造らしく年上を頼れ」
その真剣な目にロナードは押されるように思わず頷いた。
普段ヘラヘラとしていてもやはり年上で、大人の男なのだと再確認している内にハントは歩いて行ってしまった。
しかし頼れと言われても、仲間は信頼しているし、十分頼りにしているのだ。それに今の状況は、自分が何故不調なのかがわからない。
疲れているだけだろうからロナードは風に当たろうとエレベーターに乗ってデッキへ向かった。

ロナードは、自分のことになると途端に勘が働かなくなり、まぁいいかと頓着しないところがある。
それで度々仲間といざこざが起きたりもするのだが、彼にしてみれば仲間たちが自分以上に自分に気をかけるので、気にしないで済む、のだそうだ。そんな毎回アテにされるこっちの身にもなってください迷惑な、とは彼のそんな一面だけは相入れないと常々思っている魔術師の言葉である。
今回も、なんだかスッキリしない気分も風とクラウディアの空を見たら晴れてしまうだろうからと足を進めたロナードの勘は大いに外れ、不幸を被ることとなってしまった。
エアベルンはあまり良くない天候の中運航していて、丁度ロナードがエレベーターに乗った時、雷雲の中を突っ切ろうとしていた。
その瞬間、ばち、と船全体から爆ぜる音がして船体が大きく傾ぐ。
そして視界は暗闇に飲まれる。停電だ。
稼動エネルギーを多くの電気とそれを補助する魔力に頼っているエアベルンは、途端に機能を失い、傾くとゆっくりと墜ちて行く。
「親方、傾いてますー!!」
「サブエネルギーに切り替えろ!!魔力強化でサポートしろ!使ってねぇエネルギーこっちに回せ!最悪荷を捨てろ!」
遠くで対応に追われる船員たちの声、ベルンハイムの怒号が聞こえる。彼らの迅速な対応で暫くして船の落下は止まったのだがエレベーターは動かない。どうやら船の推進力以外へのエネルギー供給がまだ追い付いていないようだ。
取りあえず沈没の危機が去ったことに安堵のため息をつき、ロナードはエレベーターの壁に凭れ掛かかる。エレベーター内は真っ暗という程ではないが薄暗く、段々と心細くなってくる。ただ、もう暗闇を怖がる様な歳でもなく、することもないので腕を組んで目を瞑っていた。
…と、誰かに見られている気がする。
しかしあり得るはずがない。このエレベーター内にはロナードしか乗っていないのだから。
しかし誰かの視線をひしひしを越えて痛いくらいに感じるのだ。
ロナードは、そうっと目を開いた。
暗い視界にまだ目が慣れず、もやがかかったような薄暗い世界が広がっていて、
「!!」
そこには先ほど鏡の中で見た長髪のロナードが居た。
吐息がかかるくらいの近い距離で、同じ色をした瞳が見詰め合う。
「ロナード…」
「お前は、」
問いかけてロナードは言葉を切る。今度ははっきりとわかったのだ、彼が何者なのかを。
「お前は…魔稙されていたときの思念、か」
「何を言うんだ。俺はお前の一部だ」
彼は、長い髪を揺らめかし、おかしそうに口を歪めた。
耳に痛いくらいの静寂。
腰をおろしているロナードに覆いかぶさるようにして、彼は顔を覗き込んでくる。垂れる長い髪は蜘蛛の糸のように、絡みついたら離れないのではと錯覚する。
「違う、あれは操られて」
「違うのはお前のほうだ。俺はお前の深層に生きる心…俺はお前なんだよ」
「違う!!」
きぃんとロナードの叫びがこだました。また、動悸が激しくなる。
ロナードは全てを遮断するように耳を塞いだ。
彼は、その手を優しく上から重ね、耳に口を近づけた。
「俺はお前が抑えていたことを代わりにやっただけだ…そう、親友に剣を振り上げることも」
「止めろ!!」

―――止めろ、お前は俺じゃない
―――俺はお前だ
―――ふざけるな
―――あれがお前の望みだ
―――ちがう、俺はそんなこと
―――自らの意思で
―――俺はレイナスに、剣を
―――そう、ずっと深い心に棲む本当の…

同じ声が溶けて、ひとつになる。
ロナード、彼がひとつ、名を呼ぶ。
心地よく耳に馴染む自分の声。なにが真実かわからず、受け入れそうになる心を奮わせ、でも立ち向かうことはできずただ臆病な子供のように膝の中に顔を埋めた。
いつの間にか動き出していたエレベーターがデッキに到着し、扉が開いていたことには、気がつかなかった。



その時魔獣の見張り番だったヴァイスは、エレベーターが到着を合図する音が鳴ったにも関わらず誰も出てくる気配がないので気になってエレベーターを覗きに行った。
先ほどの停電は冷静なヴァイスでさえひやっとする程すごいものだった。
エアベルンが傾いて沈みかけた時は、必死にデッキの手すりにしがみついていたがあんなに大きな揺れは初めてだった。
ヴァイスはエレベーターの中をひょこりと覗いた。
そこにいたのは、
「…ロナードさん?」
びくっと肩を震わすその丸くなった背中にはいつもの頼りになる冷静な青年の姿はない。蹲異常な事態だと察したヴァイスはすぐに中に入りロナードに駆け寄った。
「大丈夫ですか?具合でも悪いんですか、今ニアさんを、」
振り返り出て行こうとするヴァイスの細い腕を、乱暴に掴んだ。その力は強く、ヴァイスは顔を歪める。必死に食い止めようと、すがるようなロナードの手は振りきることができない。
「ロナードさ、」
「大丈夫だ、すぐ落ち着く」
呼吸が整ってきたらしい彼はやっと顔を上げた。
汗で張り付いた前髪、青い顔。ヴァイスは同じくらい真っ青な顔になり、彼の広い背を撫でた。落ち着いて、と自分にも言い聞かせるように。
「何があったんですか」
ロナードは苦しそうにくしゃりと顔を歪め、そして静かに話し出した。
「…魔稙されていた時の自分が現れる」
「魔稙の、」
ヴァイスは息を呑んだ。
操られていた頃のロナードを彼もよく知っている。酷く冷たい瞳で親友のレイナスにさえその切っ先を向けるロナードを。だがあれは操られていただけだともヴァイスはわかっている。
「あいつが、あいつは俺の一部だと言う」
「でも、貴方は操られていただけでしょう?」
「そうなんだが…段々と何が本当かわからなくなって来た」
ロナードはのろのろと体を動かしエレベーターの端に行く。先程の雷雲とは打って変わって爽やかな晴れやかな表情を見せる空に眩しそうに目を糸にした。
…なにも、恐れることなんてないと思っていたのに。
「夜も、時々魘される」
「そうだったんですか…」
「フラッシュバックが、魔稙の時の記憶が何かのきっかけで蘇えるとこうして幻覚を見る。今回のは酷かったが」
それで現実と幻覚が生み出すものとが見分けがつかなくなってきているようだ。それほどまで精神が苛まれているとは、
「きっと疲れが出たんだ。情けない」
自嘲する様に息を吐くいて終わりと口を噤む。ヴァイスはそんな彼の横顔を見つめていた。
彼にかけるべき言葉が咄嗟に見つからず、普段回転の良い自分の頭がこんなときに使い物にならないと恨めしく思う。代わりに吐き出すべき言葉の分空気を吸い込んで深呼吸をした。この迷える青年に自分がしてあげられることは…ヴァイスの心に言葉が浮かぶ。そうだ、どんなときも変わらず確信していることがある。ヴァイスだけでなく仲間全員が。
ヴァイスは口を開いた。
「…はっきりしていることは、その魔稙時の貴方は幻覚ですよ」
「あぁ、俺だってそう思っている…思いたい。いや、だが」
「だって、私たちは知っているから」
言葉を遮った頼りになる年上の仲間の、きっぱりとした声。
見上げると優しい笑顔でロナードを見るヴァイスがいた。
銀色の髪が雲ひとつない空にきらきらと光る。
「貴方が、深層で親友を傷つけたいなんて思うような人じゃないと知っていますから」
「しかし」
俯きそうになるロナードの目の前にびしっと指を突きつけた。
自然と寄り目になる、その前にぱちりと瞬きをして、見ればヴァイスが優しく微笑む。
「自分ひとりで自分のことを理解しようとするのは難しいです。信じようったって信じられないかもしれない。…でも、そんな時のために仲間が居るんでしょう?みんなに聞いてごらんなさい。貴方という人物がどんな人か。みんな口を揃えて言うでしょう。頼りになって強くてミルザフルーツの好きな青年だって」
そして指を下ろし、口元に持っていく。いつもの勝気な笑みで、
「それと幻覚に怯える年相応の臆病さを持っています。それは自然な感情ですよ。それこそ貴方が彼とは違う決定的な証拠です」
ロナードがいまいち理解していない顔をすると、教鞭を振るっている先生の顔をして穏やかに噛み砕いて話をしてくれた。
「貴方は親友や大事な人を傷つけてしまうのを恐れている。でも彼は誰を傷つけようと構わない」
「……あぁ」
だから、彼は貴方とは違う。貴方のような優しい人間らしい心は持っていませんよ、とヴァイスは言い切った。
だから、幻だ、と。
ロナードは胸が熱くなった。
「さぁ、そろそろラウンジにお戻りなさい」
「…?」
「お茶の時間になりますよ」
確かにこの昼下がりの時間は女性たちが楽しみにしているお茶の時間がある。
ロナードも時々交ぜてもらっていたが毎日参加しているわけでもないし約束もしていない。
「ふふ、今日の主役は貴方ですよ、きっと」
「どういう意味だ?」
「…貴方は自分がどれだけみんなに好かれているかわかってないようですね」
さぁ、とヴァイスに促されエレベーターに乗った。
笑顔で手を振るヴァイスを脚気に取られて見ているしかないロナードの目の前で扉が閉まる。もう大丈夫でしょう?そう彼の無言の言葉が聞こえた気がした。

そういえば幻影の彼は身を潜め、久しぶりに感じる穏やかな気持ちだ。
電子音を立ててエレベーターのドアが開く。どこからか甘い匂いがする。ロナードの好きな匂いだ。
大丈夫だ、ロナードは心の中でつぶやく。
ラウンジの扉を引くとロナードのためにささやかな茶会の準備ができていて、ヴァイスの言葉を強く、思い返した。
仲間を傷つけはしない。
「ロナード、大丈夫か?」
覗き込むザードに、決意を持って頷いた。
彼との、決別の覚悟をもって頷いた。ずっと仲間を守ると誓って。
「もう、大丈夫だ。絶対に」











モドル
































































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