老いた猫が、よろよろと港を歩く。彼が歩く縁石の向こうは空だ。空の下は雲があって、誰も知らない世界へ落ちていく。猫は覚束ない足取りで縁石の上を歩く。はらはらと、した。

「危ないですね、あの猫」

背後からかかったその淡々とした声には、あんな老いぼれの体でよくやると言うような、ほんの少しぴりりと山椒が効いていて、ははぁこれはあの年上の男と何かあったなとレイナスは想像した。
あの男も年の割りに若い。やることが幼い。それでかちんとくるヴァイスもまだまだ青いな、と船長は笑ったけれど、きっとそれは性格だ。
そんな自分の、子どもっぽい性格を自覚しているヴァイスはつんと唇を尖らせて猫に八つ当たりをしているようだった。

「落ちても知りませんよ」

レイナスは笑う。
ひゅう、と自分たちの乗ってきた赤い船以外何も停まっていない港を、冷たい風が通り抜ける。そろそろ温もりを求める季節がやってくる。

「老い先短いのに、よくもまぁあんな無茶をする」
「無茶じゃないさ、猫だもの」

レイナスはそうヴァイスに返してから、これは果たして猫の話だったろうか、それとも、と考えた。考えて、止めた。いつだってヴァイスの頭の中の小宇宙に浮かぶ答えにレイナスの考えが及んだことはないからだ。これがロナードだったら議論に発展するのだろうけど。

「あの猫いくつだろうね」

だから代わりに、話を転換させた。ヴァイスはうーんと首を捻る。その様子はあまり真剣に考えていない風だった。

ヴァイスもレイナスも、ただの暇潰しの会話をしている。その会話が小難しいものになってしまうのはヴァイスのせいだ。だからといって苦ではない。

「10年以上は生きているでしょうね」
「長生きだなぁ。猫の寿命ってどれくらいだ?」
「さぁ」

ひょいと猫が縁石から降りた。
ふたりしてそれを目で追って、それからヴァイスがこんな話を知っていますか?と切り出す。そう切り出された話は、殆どがレイナスの知らない話だ。レイナスはわくわくと期待の目を向け、ヴァイスは返事なんか聞かずに指を一本立てて喋り出す。

「我々の寿命は、何が決めているのかという話です。また、どうしたら長生きが出来るのかという話でもあります」

ヴァイスの話し方は必ずしも分かりやすくはない。でも推理小説を丁寧に、ここがヒントだよとラインを引きながら教えてくれるような明確さがあって、その声は聞き取りやすく心を捕まれてしまう。レイナスはその場に座って、彼を見上げて話を聞きたくなってしまった。

「細胞は毎日少しずつ傷付き、修復されます。そんな中加齢に伴うダメージは蓄積され日々の修復機構だけでは追い付かなくなる。そんな時、大きな選択を迫られるのです」
「どんな?」
「有限のエネルギーを何に注ぐのかという選択です。生殖に使い子孫を残すのか。それとも自己の修復に使うのか。子孫繁栄を選んだとき自己の修復は叶わず、つまり個体の永遠の生存は諦めなくてはならない」
「じゃあ自己の修復を選んだら不死なのかな」
「どうでしょう。動物にとって子孫繁栄こそが生の意味ですから、それを選ばないという動物はあまりいませんから。中には不死と考えられるような生活環を持つ生き物もいますが…」
「人間はどうなんだ?」
「人間は他の動物とはかけ離れ過ぎてしまいましたからね。一概にこれに当てはめることは出来ないでしょう。ただ、人生の中で私たちは常に選択をしますよね。限りある時間を如何に有意義に過ごそうかと。それと同じことが体の中で行われて、私たちの生の時間を決めている。面白いと思いませんか?」

これを「使い捨ての体説」というのですよ、とヴァイスは丁寧に教えてくれた。使い捨ての、と初めて聞く言葉にレイナスは幼子のように繰り返し繰り返し口の中で呟いた。

「そう。使い捨ての体。優先すべきもののために何かを犠牲にする妥協が必要なんです」

もう猫はいない港の端っこをヴァイスは見つめる。遠く遠く広がる空を見つめているようで、何も見ていないようでもあった。

最後の言葉に、レイナスはそっと目を閉じて考えた。
今までの話は果たしてただのヴァイスの世間話だったのか。それとも暗に込められた意味があったのだろうか。

「俺は」

真っ直ぐに見つめるレイナスに、ヴァイスが向き直る。

「例え犠牲が必要でも、正義を、平和を優先するよ。でも、その妥協しなきゃいけない犠牲が仲間だったなら俺は妥協しない。仲間も正義も守って見せる」

すっきりとしたレイナスに、ぽかんとヴァイスが口を開けた。
久しぶりに見るヴァイスの間の抜けた表情に、レイナスはん?と疑問を抱く。それから間違えたか、と恥ずかしさが込み上げる。

「…え、と…なんかそういう意味がこもった話だったのかな、って」
「あぁ…なんかすいません」

完全に世間話でした。レイナスを見る目はスイッチをオフにしている目で、レイナスの耳が瞬時に赤くなった。
やっぱり、ヴァイスの考えにレイナスが追い付くことはない。こうやって空回りしてしまう。恥をかいたと真っ赤になるレイナスに、ヴァイスは気の抜けた笑い声をあげた。

「はは、そうでしたか。すいません。でもそうですね。そんなエネルギーの使い方、きっとこの説には当てはまらないけれどあなたならできますよ、きっと。えぇ、えぇ。本当に思います」

緩んだ表情でヴァイスは笑うものだから、不貞腐れていたレイナスもまぁ良いかと笑う。
レイナスのこんな真っ直ぐで少しズレているところは、実はヴァイスがいくら考えたって辿り着けないところであって、それにヴァイスは救われていたりする。

「あなたとの世間話はいつも穏やかな気分になります」

晴れ晴れとした表情で、ヴァイスは頭の上に広がる空に手を伸ばした。


モドル














































































































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