だいぶ昔のことだ。
初等教育を受けていた頃、教師は皆子どもと一緒になって遊ぶような元気がよく溌剌とした人物ばかりであった。叱る時は眉を吊り上げびしりと怒る。そんな教師たち。
そんな中にひとり、いつも笑顔の初老の女性教師がいた。彼女は穏やかで物腰も柔らかく、生徒に大変人気があったのだけれど、同時にとても厳しい人物だった。
何かあると菩薩のような笑顔をさらに濃くして、ナイトスターと彼の名を呼んだ。笑顔で、静かに怒る。その嵐の前の静けさといった恐怖、じりじりと逃げ道を防がれている気分になる彼女の怒りの笑顔がロナードは苦手だった。

「ロナードさん」

そんなことを思い出したのも、目の前にいる彼の笑顔が、そこはかとなく恐ろしいからである。




(聞こえたのはチャイムじゃなく、ゴングだったのかもしれない)



デッキに出ていつものように鍛錬をしていた朝。ふらりと風のようにやってきたのがヴァイスだった。
どこか儚げな印象を持つ彼に、本当に涼やかな風が吹き込んだのかと思った。ロナードはゆっくりと手を止める。

「早いな」
「えぇ、目が冴えてしまって」

二三言葉を交わす。これもいつものことだった。
ロナードは額に粒を作る汗を拭おうと腕を持ち上げる。その瞬間走る痛みに苦痛の表情を浮かべるのと、腕に巻かれた真白の包帯にヴァイスが気がつくのはほぼ同時であった。

「それ、どうしたんです」
「大したことはない」
「質問の答えになっていませんよ。その怪我はいつどこで誰にどうされたと聞いているんです」
「はっきりと覚えていないニアに施術は受けたじきに治る大したことはない」

ロナードは腕を庇うようにしてヴァイスから目線を逸らした。それから大剣を持ち直す。ヴァイスから包帯が見えないように立ち位置を変える。
その一連の怪我を隠す動作に呆れてヴァイスはため息すら出てこなかった。まるで怒られるのを嫌がる子どもだ。言い訳ばかりが上手になって根本は何も成長しない。
ロナードは体も大きく精神だってほかの仲間に比べれば成熟しているというのに、深層の部分は子どもっぽいと常々ヴァイスは感じていた。これでも多くの生徒を受け持つ人気の大学講師である。生徒の性質を見抜く鋭い目は本物だ。
その目が捉えたロナードは、幼稚な自己中心的な人物であった。

仲間のことは思いやる。ほかの何を差し置いても、守るものは守る。一度決めた信念は曲げない。
そう、自分のことは二の次で、それに関しては譲れないのだ。
いくら仲間が自分を大事にしなさいと言っても、それは彼にとっては「譲れないこと」であり、決して聞き入れようとはしない。そんなところが自己中心的だと感じる。
誰かのためだなんて体の良い盾でしかない。自分のことを省みない彼の性格の格好の言い訳として使っている。そんな人物をどうして大人だとか冷静で頼りがいがあるだなんて言えよう。

ヴァイスはにこりと笑う。

「ロナードさん」

その笑顔に言い表せぬ恐怖を感じたロナードに、ヴァイスはある言葉を告げた。

「私と、手合わせしてくださいませんか?」
「手合わせ…?」
「えぇ。ちょっと体を動かしたくなりまして」

ぐるぐると腕を回すヴァイスに怪訝な表情のロナード。それもそうだろう。肉弾戦を不得手とするヴァイスが自分に戦いを挑んできたのだ。
戸惑うロナードに、

「それと」

口を歪めて凶暴な笑顔を見せた。それが合図となってヴァイスの周りに近寄れぬほどの魔力が集まる。

「あなたのそのちっぽけなプライドを粉々にして差し上げたくて」

ロナードの眉が上がる。ヴァイスは相変わらず笑顔だ。
踏み込むロナードの前にヴァイスの放つ氷の矢が突き立つ。それを避けどんどん前に出て行くも、今度は炎の壁に遮られる。ち、と思わず舌打ちがもれた。
ただの魔法の使い手ならば勢いで踏む込むこともできる。しかしヴァイスの魔法は相当のダメージとなり、いくらロナードとはいえ慎重にならざるを得なかった。
そしてヴァイスは長距離から近距離まで自由に魔法を使い分けて攻撃をしてくる。ロナードがどこにいようとその指先が示す方へ光が放たれる。それに魔力を溜める時間が極端に短い。隙がないのだ。

「どうしました?」

ヴァイスはちっとも動いておらず、片手をジーンズのポケットに入れたまま、爆風に飛ばされたロナードを見る。
その砂煙が途切れる前にロナードが動く。一歩の踏み込みでヴァイスの懐にもぐり、肩を入れる。体制を崩したところで横薙ぎ、それから上段から力強く振り下ろす。
それを魔法で防ぎ片膝をついたままヴァイスは、やはり笑みを貼り付けたまま、ロナードを見上げた。

「こんなんじゃ、私に勝てませんよ」
「…それはまだわからないだろう」
「いいえ、結果は見えています。あなたがあの技を使わない限り」

ぱりんと魔法の盾が割れ、ヴァイスが後ろに下がる。
あの技、彼の言わんとしている事がわかってロナードはさらに渋い顔になった。
ヴァイスが指しているのはきっと、いや、確実に「封印剣」のことだろう。魔法を使う者に有効な、呪縛の刻印を焼き付ける剣技。
だがそれをやってしまったらヴァイスの攻撃の幅はぐっと減る。減るどころかきっと攻撃手段は何もなくなってしまうだろう。ロナードは唸った。

「それをして何の意味がある」
「意味?魔法を使う敵に出くわした場合を想定しているのですが」
「違う。お前と手合わせをしているのに、お前に呪縛をかける意味だ」
「意味のないことだと?」
「あるように思えない」
「ありますよ。封印剣を使えばあなたに勝利の可能性が出てきます」

ヴァイスはどこまでも余裕を感じさせる笑顔で、何を企んでいるのかその胸の内は読むことができない。

「…良いだろう」

ヴァイスの発言を挑発と取ったのか、ロナードは剣の持ち方を変えた。ぐっと力を込め空気を切る。その中にぼんやり青く光る呪縛の文様。ヴァイスの喉元にまっすぐ飛んで行き、それが弾けるとヴァイスの周りに漂っていた魔力は一気に霧散した。呪縛が、成功した。
この隙を見逃すわけにはいかない。ロナードは切っ先をヴァイスの細い体に向ける。

「舐めてもらっちゃ困るんですよ」

ちろりと口から覗く赤い舌が愉快そうに唇を舐める。ヴァイスは身を翻すと転がっていたデッキブラシでロナードの剣を受けた。
真っ向からではなく、斜め下の位置。ざり、と木が削げて大剣の勢いを相殺する。そのまま無理に剣を抑えたままヴァイスは男の懐に飛び込んだ。力をかければデッキブラシは折れ、彼の首をおとしてしまう。ロナードは思わず身を引き、ブラシにかかる重みが和らいだ。計画通りだった。
ヴァイスは素早くブラシを引き抜きぐるりと回す。
ロナードの視界の端に緑色の硬いブラシが入り込む。まずい、と顔面に直撃する寸でのところで肘で押し返した。

「!!!」

開いた体に潜り込んでヴァイスの正拳突きが鳩尾にヒットした。それから、

「私の、勝ちです!」

屈んだロナードに華麗な右ストレート。ついでにえいとふざけてデッキブラシで脳天を一撃しておく。喧嘩や素手での戦いに慣れていないヴァイスの拳は、はっきり言ってそこまでのダメージはない。しかし完全に彼のペースに乗せられ、ここまで攻撃を食らっているのだ。ロナードは降参の意を込め、軽く肩をすくめた。

「呪縛が効いたから甘く見ていたな」
「舐めるなと言ったでしょう」

ヴァイスは笑顔から一転、赤く腫れ上がった自分の手に息を吹きかけて、いつもの澄ました顔になった。痛むのか微かに不機嫌そうな表情で。

「あなたは己の強さに自身がおありでしょうが、自分を守らないのも省みないのも間違っています。強い人ほど自分を大切にします。仲間を優先するばかりに自分が傷つこうとするのは間違っていますよ。だからあなたは私に勝てないと言ったんです。魔法を使えなくしたら私が勝てないと思ったのでしょう?」
「あぁ」
「あなたが守ろうとしている仲間たちは、あなたに守られるほど弱くないのですよ」

静かにヴァイスの言葉を聞く。視線は足元に落としたままだ。
言葉を切ったヴァイスが、でも、と明るい声で言った。それにゆっくりと顔を持ち上げ前を見る。

「あなたがいればさらに強くなれる。だから仲間なのです。守られるだけでなく、共に戦うのが私たちでしょう」

すっかり明るくなった空に大きく伸びをしたヴァイスの向こうで太陽が輝く。
眩しい光景に目を細めて、ロナードも笑顔になった。
怒られたのに、心はすっきりとしている。穏やかな気分だ。

いきましょうと振り返ったヴァイスが口に手を当て笑い出す。
デッキブラシには相当埃がくっついていたようだ。ロナードの黒髪はところどころ雪が積もったようになっていた。



初等教育の時出会ったその女性教師は、本当に怖くて、小さなロナードは苦手だった。
でも、ひとしきり叱った後の笑顔はどのものよりも飛び切り綺麗で、撫でてくれる手は暖かかった。
そう、だから。その先生のことは決して嫌いではなく、むしろ大好きだったな、なんて。
笑いすぎで目に涙を溜めて、頭についた埃を取る仲間の笑顔に、ロナードはありがとうと心からの礼を口にした。



(先生が生徒を叱るのは、知ってほしい大事なことがあるからなんだよ。そして君のことが大切だからなんだよ。では、これにて授業終了!)












モドル



























































































































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