はれぼったい瞼を持ち上げて背を曲げて、まさに粗大ゴミが動き出したらこんな風であろうかと、ハントはラウンジにだらだらと向かった。疲労感は漂い、汚らしく、陰鬱としている。実際に、異臭がしていた。毛穴全てからアルコールの匂いがしているのではないかと自分でも疑うくらいだ。
昨夜は少しばかり飲みすぎた。しかも一人で。止めてくれる者もなく。
ハントは自分の肝機能も年齢を重ねたことを実感し、臭いため息を吐いた。

ラウンジを抜けカウンターキッチンの向こう、グラスに水を注いで飲み干すと、その中に卵を割った。度の強い酒を注ぐ。適当に調味料を振り、上を向いて口を開いた。
「なんですそのけったいな飲み物は」
一気に飲み込もうとしたら、ヴァイスがカウンターに肘をつき、こちらを見ていた。
彼の纏う空気はいつだって清浄で、ハントとの間に目に見えない境界がくっきりと線引きされている。ハントは半開きの目で彼を忌々しげに見、グラスを揺らしてみせた。
「二日酔いに効くんだ」
「それが?お酒入ってますよね」
「毒を持って毒を制す」
「麻痺してるんじゃないです?」
心底理解できないといった風にヴァイスは肩をすくめた。
「暖かいミルクでも、白湯でも飲めばいいものを」
そう背中を向けたまま言って、彼はラウンジの席に戻る。
ハントも同感だ、と独り言を漏らし、そのけったいな飲み物を流し込んだ。相変わらず吐き気がする。何度飲んでも慣れない飲み物、何度飲んでも懲りない酒。
この吐き気がいいんだなんて、この男に気色の悪い趣味がある訳ではない。二日酔いに効く…と思い込んでいる、プラシーボ効果を信じているのが理由の一つ、もう一つはこの最低な酒の飲み方、酔いの覚まし方が、自分にはお似合いだと思っているからだ。
空になったグラスが手から落ちる。シンクで音を立てたグラスは割れはしなかったが、何事かとヴァイスがこちらを向いたようだった。ハントはぐったりと頭を下げ、銀色のシンクを見ていた。ぼんやり自分の顔の輪郭が映る。口を開けて、舌を出した。吐けなかった。
ぐるぐると自分の足元だけが回転する。目を瞑ると余計に速度が増した。

これを飲んでいたのは、自身以外では三人しか知らない。
一人は父親だ。顔も思い出せないが、酷く酔ったらしい翌日は必ず苦々しい表情でこれを飲んだ。キッチンで出くわすと気まずそうに、一気に流し込んでは吐きそうな顔をしていた。
二人目は盗賊の団長だった。ハントは幼い頃盗賊の一味として生活をしていた。堅苦しい家で窮屈な思いをしていたハントにとって森のアジトで過ごしたこの期間は、自由で気楽で暖かくて、忘れられない。
盗賊団を仕切っていた小太りの男は気の良い人間だったが、盗賊を生業にするしかない男とあってか卑怯で小心者で酒と女と金にがめつい。嫌いではなかったが見習って良い人間でもない。
ハントは、この酒の飲み方をするやつはろくなやつじゃないと悟った。
それ以来、なんとなく二日酔いの朝には自然とグラスに卵を割ってしまう。自戒のつもりなのかは無意識すぎてわからない。
三人目は…ハントは心の中で思い出す。
意識が遠退く。袖をまくり、腕をシンクにつけていたがその冷たさも感じなくなった。
吐き気はしないが気分の悪さは抜けない。普段より両の肩には重力がかかっているみたいだった。





訳あって盗賊のアジトを出た彼は、施設でしばらく過ごしてから実家に返された。帰らなくて良いのにと世話になった施設職員を睨み付ける。彼は、ハントが貴族の子だと知り憧れと畏怖とへつらうような笑顔を滲ませ、ハントを前に押した。捕まれた肩は痛かった。
貴族と盗賊の間だけでなく、平民との間にも、複雑な感情の溝が存在するらしい。笑顔に隠された怒りにも似た燃えるような感情が手のひらから伝ってくる。それを嫉妬心と呼ぶなんて、幼い彼は知らなかった。ただ、職員と実家が寄越した迎えの者との間で、汚れた靴の先を見ていた。

そのまま汚れた靴で家を飛び出したのは、ザードくらいの年頃だったろうか。
着の身着のまま各地を放浪し、生活のため皿洗いなどしてみたこともあったが、ひとつところに留まって暮らすのに向いた性質ではなかった。彼は自然と戦地へ向かった。
盗賊のアジトを出るとき、盗んできたものがある。主を失い輝きを放たなくなったライフル銃だった。戦場はいつもオレンジ色の埃っぽい風が吹いていた気がする。ハントは狙撃の腕を買われ、あちこちの戦地に赴いた。いくつかの奇跡と呼ばれるような脱出劇や部隊の撤退に貢献した。
ハントひとりですべての敵を倒し、振り返ると味方もいない。そんなことばかりだった。
オレンジの風の中でクリスタルの銃は静かにハントに寄り添う。いつからかトレードマークになっていた緑のバンダナが靡く。この頃はまだ綺麗な緑色で、ほつれもなく、結んでも余るほどの大きさだった。

傭兵稼業に不満はなかった。
楽しみもなかった。
苦しみは、さほどなかった。
悲しみは感じなかった。
青年になるにかけて健全に成長していくはずのハントの心は、経時的に硬化していったようだ。
人間の汚い部分ばかり見て、失望して、楽しみの知らない瞳は、視界すべてを靄で包む。



「お前、若いのにそいつを知ってんのか」
夜通し飲んで早朝に、ハントは生卵をマスターにオーダーした。マスターは早く帰ってくれとばかりに卵を転がす。男が話しかけてきたのは机の端から落ちそうになったそれを受け止めたときだ。
マスターは男の顔を見、ため息をついた。
「またお前かグラッフル。今日はもう店仕舞いだ」
「おいおい、今日は始まったばかりじゃねぇか」
「いい加減にしてくれ。いつもお前は閉店ギリギリの早朝に来やがって…」
マスターはぶつぶつ文句をいいながら、ハントのすぐ隣のカウンター席に落ち着いた男にグラスを渡した。
ハントはきょとんと男を見上げる。焼けた肌の大男だ。歳はそう変わらないように見える。
男はハントを見て、にやっと笑った。なんの含みもないからっとした笑顔だ。
しかしハントには格好の獲物を見つけたように男の目が光って見えたものだから、思わず背筋がぞっとした。
「お前、あれだろ」
男は馴れ馴れしく肩がぶつかるくらいに身を近づけて、話しかけてくる。汗の臭いまで漂ってくる距離、男からは粉っぽい日差しの匂いがした。
その匂いはハントの心を落ち着けた。男の肩を押し返すのを忘れるくらいだった。
「…なんだよ」
「勝ったことのないなんつったけ、何とかっつー、スナイパーの傭兵の」
名前を思い出せないグラッフルはうんうんと唸りながら酒を煽った。バーのマスターは、思い出す気がねぇなとぼやく。当のハントは二日酔いのまじないを握りしめて黙り込んだ。

勝ったことがない、そんなことにはうっすらと気がついていた。
もしかしたら勝っていたのかもしれないが、それはハントの一人勝ちであって部隊の勝ちではなかったろうし、記録する者もいなかった。
勝ち負けにこだわる性分でもなく、生きる気力すらないまま戦地に立っている彼にとってどうでもいい称号だ。ただ、そんなどうでもいいことが広まっているのかと不思議に思った。卵酒を飲み込む。
「…ハント」
隣の唸り声がそろそろうるさくなって、観念して名乗った。
「あぁ、そうだそうだ!」
絶対に端から知らなかったであろうリアクションだ。
グラッフルは空になったハントのグラスをマスターに渡す。マスターはもう何も言わなかった。透明な酒が注がれて帰ってくる。ハントは嫌そうに受け取った。
「なぁなぁ。お前さ、勝ってみたくないか?」
「は、」
「勝ち戦っての。経験してみたくないかって聞いてんだよ。ハンパな勝ちじゃねぇぞ。完全勝利だ。もう完膚なまでに叩きのめして一方的な勝ちだ。気持ちいいぜぇ」
きらきらと瞳が輝く。男の表情は無邪気だ。
俗世間に疎いハントが男のことを世を騒がす大空賊であるなんて知る由もなかった。

連れてこられた船は真っ白で、男の豪快さに不釣り合いだった。とはいえ貴族が好んで施すような装飾もなく、さっぱりとして余計に高貴に見えた。
「雲に紛れるんだ」
男は言った。
「雲に隠れて急に現れる。風の流れを読んで、敵陣の中心に行くように。俺は一気に、一瞬でカタが付く戦い方が好きなんだ。だらだら長引くような戦いは仕掛けねぇ。幸い俺にはしなきゃいけねぇ戦いはない。だから好きに戦えるってもんだ」
「…じゃあ戦わなきゃいいんじゃねぇの」
「男が戦わずして生きていけるかってんだバカ野郎」
「戦わなければ追われないだろ。知らなかったけどアンタ、かなりの懸賞金かかってるみたいだし」
「うるせぇ。男は誰しも追う追われるを繰り返す生きもんだ」
「わけわかんねぇ」
「おい、そろそろつくぞ」
最新鋭のGPSがモニターに地図を表示する。自動運転もエンジンも、この船は何をとっても最新式だった。そのせいかクルーはありえないほど少ない。
ほとんどを船長自らが行っているのだという。
乗組員たちは皆、ただ同船しただけの他人といった顔をして、割り当てられた以上のことはしない。そして目的地につけば降りていく。どこから話を聞いたのか乗ってくる者もいる。そしてまた去っていく。
男は仲間を持たないと言った。ハントがこの船に乗って数日経った時、甲板でぽつりと言った。日差しが強くハントは目を細めて男を見上げていた。
仲間がいると好き勝手できなくなるからと、それだけ言って黙った。

ふたりは今「完全なる勝ち戦」を仕掛けに前線の上空に向かっていた。ちょうど雲も多い。地上で戦うのはどこの国かわからない。関係のないことだった。
「おっ、出てきたぜ」
レーダーが捉えてモニターに影が表示される。
三隻の軍艦だ。こちらに近づいてきている。
速度を同時に上げる。軍艦がこちらに気づく。グラッフルは高度を下げ雲に突っ込んだ。
ゆっくりと雲の中を進む。ハントはいてもたってもいられずデッキに飛び出した。
視界が白く靄に包まれていく。肌を撫でる風が冷たい。
このままではどこから敵が現れるかわかったものではない。軍艦に魔法使いがいたら、雷でも落とされるのではないか。
ハントの心は初めて、恐怖の色にじわじわと染まっていった。
風を切る音しか聞こえず、何も見えず、色もない。
そんな世界にいるのはたまらなく不安だった。
「いくぜ!」
いつの間にか、1階高いデッキにグラッフルが現れていた。
見たこともない馬鹿でかい銃を担いでいる。船を取り囲むように影が現れ、追いかけるように高度が上がった。雲から出る。
「ぼさっとしてんなよ!」
男の嬉しそうな叫び声を皮切りに、爆音と眩しさに目を細め奥歯を噛み締めた。
取り囲む三隻の軍艦のエンジン音、重なるのは据えられた砲台から発せられる爆発音。いつもは置物みたいに静かなのに、その荒々しさは船長の気性を映したようだった。
一隻、まともに大砲をくらい傾いた。
脱出する船員のシュミッターが空を駆ける。そのうちのいくつかがこちらに向かい、甲板に降り立った。
ハントは向かおうとしたが足元に炎が放たれ振り返る。別の方向から魔法部隊がハントひとりを狙っていた。

姿を晒して、小さな的になった気分だった。
がむしゃらに、銃を打ちまくった。乗り込んでくる軍人は数を増したが、ふたりの中の前にはただ崩れ落ちるしかなかった。時には掴みかかる相手を体術でいなす。あっという間に三隻の軍艦は沈み、デッキには倒れた男たちでいっぱいになった。
わずか数分のことだった。
「あーあ、これを片付けんのか。めんどくせぇ」
グラッフルは蹴って空に落とす。
静かになった戦場は再び船の顔を取り戻し雲の中に沈んでいく。ハントは片付けも手伝わずに船内に帰った。
不必要な戦闘だったが、おかげで地上のどちらかの軍勢は恩恵を受けるかも知れない。
不必要な戦闘だったが…罪悪感はなかった。一方的に仕掛けて、一方的に叩きのめす。男が言った「完全勝利」は、圧倒的な強さを持つたったふたりの男によって成し遂げられた。
内にすくぶっていた、危機的状況にのみ発揮される潜在的戦闘能力。
それを開放した時に待っていたのは、快感だった。薄々、感づいてはいたけれど。
廊下に立ち尽くしていると、グラッフルがやってきた。
ハントはなんとなく気まずく、操縦はと聞いた。
「別のやつに頼んである」
「あ、そ」
「どうだったよ」
「…なにが」
「勝利ってのは」
ハントの手が震えていた。
グラッフルは無反応なハントに間が持たなくなったのか、頭をかく。
「まぁ、あんなに乗り込まれるのは予想外っつーか。ちょっとカッコ悪い戦闘だったな。しかしまぁお前さんもさすがだな。狙撃手ってのはもっと冷静に戦うもんかと思ってたが、猛獣みたいだったぞ」
がははと豪快に笑った。
「…ふ、」
ふいに、肩を震わせる。グラッフルが目を丸くした。
彼は、笑っていた。

「…お前」
「やっべぇ、死ぬかと思った!」

久しぶりに、生き残ったと思えた戦闘だった。
幼い頃のように誰かに守られるのではなく、自分の力で。
それが、快感だった。






























































































































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