オーキッド

木のテーブルに湯気が立ち上るスープが置かれ、丸みのあるスープ皿を支える細い指が滑らかに視界から消える。その指の先を追いかけたかったが空腹には勝てず、スープの匂いを覗きこむようにして嗅いだ。その仕草にくすりと笑う気配がした。
スープは塩気の程よく効いたコーンスープだった。
それからようやく視線を上げる。
エプロンの紐を後ろで結んだ姿。
背は平均より低いくらいで特別スタイルが良いというわけではない。暗い茶の長い髪を飾り気なく束ねている。
垢抜けない、素朴な女性だった。
「お酒を飲み過ぎてはいけませんよ」
その声は透き通るようて男は返事をするのも忘れてしまった。彼女がゆっくりと振り替える。
後ろ姿からの想像が容易い、平凡で温かみのある女性だ。しかしその漆黒の目はどこの女優にもひけを取らない力強さがあった。
ふんわりと、笑う。
「あなた、返事は」
「あ、ああ」
見惚れていたことに気付かれるのが恥ずかしく、取り繕うように返事をした。
と、そこではじめて自分の声を聞いた。己を認識した。俺は、ここにいる俺は…
「どうしたの?ハント」
彼女は呆然とする俺を見て可笑しそうに笑う。
ここは、訪れた記憶のない小さな家のダイニングで、俺はハント・グレイウォールで、この女性は、知らない。
しかしここにくるまで何をしていたのかも思い出せなかった。それはどうやってここに来たのかという直近の記憶だけでなく、俺は今までどうして生きてきたかという記録すらなくなってしまったようで不安にかられる。わからないのにここにいることは不自然であるとわかる。俺はこの世界の住人ではなかったはずだ。
ただ目の前のスープと笑顔、これらの温もりに触れていると紛れもなく幸福感が胸に沸き上がって、些細なことがどうでもよくなる。
俺はずっと前からこうやって、穏やかな生活を望んでいたような気がした。
「スープ、うまいよ」
「よかった」
テーブルに並ぶ手料理は豪華ではなかったが心のこもったものでどれも味が良い。
彼女は俺の正面に座ると組んだ手上に顎をのせた。少女のような仕草だ。いたたまれなくなり俺は視線を逃がす。
「ここに越してきて正解でしたね」
越してきた?と疑問を眉の動きだけで伝えると、彼女はまた笑った。
「今年の春に。そろそろ初めての冬が来ます。昨日沢山薪を割ってくれたでしょう?ふふ、今日のハントは変だわ」
「ああ、そうだった。うっかりしてたな」
「体は痛くない?」
「大丈夫だ」
彼女の声は体の隅々に馴染んでいく。話をしているうちに次第にここに越してきた実感が出てきた。
何もない田舎だけれど二人でこの土地を選び家を建てて待ち望んだ引っ越し、新生活、長い冬を前に今のうちに準備をして春を待つ。四季と、自然と、時の流れに沿って生きるのだ。
「悪くないよな、こういうのも」
俺は毒気を抜かれたように、緩んだ表情をしていたと思う。
いれてもらったカフは舌の奥に残るどこだかの記憶よりとても甘かった。
俺はちょっとあたりを見てみたくなって腰を上げた。すると彼女は途端に悲しげな目をする。
どこにいくの?その声は涙混じりにも聞こえた。
俺は狼狽えてしまった。昔から女性に泣かれるのは苦手だった。
「いや、別に。何って訳じゃない。外を見てみようかと思っただけだ」
「外は寒いわ。中にいてください」
「でもこんな良い天気だし」
「今日は午後から雷の予報です」
「雷?」
もう一度背にしていた窓を見た。
晴天で、風すらない景色だ。雷雲が来るとは思えない。
「それでも行くのですか」
ゆっくりと、彼女が言った。
立ったまま俺は動けなかった。
妙な重みのある言葉に、足が床に同化したみたいだった。それでも行くのか、俺の声で頭の中に同じ台詞が流れた。
どうしてそんなことを聞くんだ。
自問自答する。するとまた声がする。
違うな、行かないのか、こう聞くのが正しい。
彼女をおいていくのか?
このままでは雷がくる。行かなくて良いのか?
俺を差し置いて俺と俺が静かに討論を繰り広げる。止めてくれ、耳を塞いでも直接響く声は止まない。
「ハント大丈夫?少し休んだら?」
彼女が立ち上がって背を撫でる。その手は体温がないのかと思うくらい冷たい。じっと、彼女を見下ろした。
もう一方の手を握る。やはり冷たい。俺は努めて優しく微笑んでやった。
「雷がくるからな、危ないものがないか見てくるよ。雨も降るかもしれない、雨漏りの所を直しておかないと」
彼女はなにか言おうとしたが、そっと手を離せばそのまま口を閉じる。
扉の所まで付いてきて、不安に瞳を揺らした。その深い色には外に出る俺への感情なのか、残される己の身を案じるのか、この世界の行く末か、何に思い馳せているかは読み取れない。
ドアノブに手をかける。
「気をつけてね」
「…引き留めないのか」
「引き留めて欲しいの?」
我ながら何を言っているのだろう。
「あなたが望むなら、私はとうに引き留めています。抱き付いたらあなたは無理矢理引き離したり出来ない人だから」
くすくすと、手のひらで口元を隠して笑った。最後に笑顔を見れて良かった。
俺は左耳にしていたピアスを外し彼女に渡した。
「じゃあな」
ドアを力一杯押し開ける。
窓から見えていた世界とは正反対の、真っ暗な空と地響きが俺を迎えた。



目を開ける。
「あっ」
顔を覗き込んでいた人物が全く緊張感のない声で、口を丸くした。
背後には指先から伸びる雷光。
予報は的中した。


目を覚ましたのを確認しておいてどうしてバルザライザーを放てるのか、彼の神経と信頼関係をいぶかしむ。ヴァイスは悪びれる様子もなく、むしろ彼の方が不機嫌だった。
「んだよそのぶっさいくな顔」
「不機嫌に顔を歪めてもあなたよりは大分整っています」
「うーわ、聞きました?みなさん。このナルシストっぷり」
「ここにはあなたの話を聞くオーディエンスはいません」
そこは短い草木が生える林の中の開けた場所だった。あちこちに白い花が揺れる。
ヴァイスはそのひとつを手折る。
未だに大の字に寝転ぶハントの目の上に掲げた。
「幻覚を見せていた原因はこれでした」
「幻覚?」
「この花の花粉を吸い込むと麻薬効果があるみたいです。気付くのが遅くてすみませんでした」
「お前が謝ることじゃねえだろ」
「そうですが。大事に至らなくて良かったです」
花を火の魔法で煤にし、風に流した。久しぶりに雷以外の魔法を見たな、なんてぼんやり思う。
幻覚。
どんな幻覚を見たのか、ハントはちっとも覚えていなかった。
それでも胸の中にじんわりと優しさが、暖かさが残っている。きっとこの花のように可憐で穏やかな幻覚だったのだろう。
「にしても、耐性がありすぎるのも考えものです。ニアさんやロナードさんがここに来たらすぐ具合が悪くなったので何かあると思ったのですが。あなたがけろっとしているから原因追及に時間がかかってしまいました」
ぼうっとするハントに、ヴァイスは首を傾げた。聞いてます?その言葉にハントは気の抜けた返事をする。
「まだくらくらしますか?」
「いやそうじゃなくて。幻覚ってさ、自分が望んだ世界とか、胸に抱く妄想とかが具現化する…とかあんのか?」
風が吹いて草花を揺らした。空はこちらの世界も快晴で、雷雲はやって来そうもない。
「美人に囲まれる幻覚でしたか」
「あーそれがよかったなー」
笑って体を捩った。
ヴァイスに背を向けるように横になる。頬をちくちくと短い雑草が刺してくる。
「…覚めなければ良かったと、思うような世界でしたか」
「覚えてねぇが、もしかしたら俺が歩めたかもしれない平凡な世界だったと思う」
ハント肘を支えにして身を起こした。
「でも俺は幻覚から覚めた。それは現実の方を選んだつてことだろ」
なんでもないように言って、ヴァイスと向き合う。世話をかけたと言えばヴァイスは視線を落とした。
煤のついた手を叩いてはらう。
顔をあげるともういつもの強気な表情だった。
「美人の幻覚が見れるまでやってみます?何本か摘んで帰りますか」
「中毒は勘弁してくれ」
渋い表情をして散らかった髪を手で直す。適当に耳にかけたとき、ヴァイスが声を上げた。
「それ!取れてるじゃないですか!」
「ん?ああ、そういえば」
高価なアイテムだったので気にはしていたが一体どこで落としたのか記憶にない。
混乱防止効果が無くなったので幻覚にかかりやすくなったのだろうか。ヴァイスはなにやら文句を呟き、これは船に帰っても続きそうだと溜め息をついた。
「いつからですか?まさかどこかの町の酒場で知らない女性にあげたとか」
「ないない、それはあり得ない」
ヴァイスをせっついてその場をあとにする。一応、と振り返るがピアスは見当たらなかった。
白い花が見送るように咲いている。
この匂いはしばらく取れそうもなかった。

モドル










































































































































































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