ピピピピ、という軽やかな電子音が朝の薄暗い自室に響き渡る。
単色の液晶画面に表示されたのは『36.2℃』。
至って正常、平熱だ。

「美奈子、調子はどう?」

部屋の入口から心配そうに母が顔を覗かせる。
私はひっそりと体温計を布団の中へ忍ばせて、静かに電源を切った。


「やっぱり少し熱があるみたい。」

「そう、怪我のこともあるし、今日は学校おやすみして寝てなさい。」


そう言われてホッと胸を撫で下ろす。「ごめんね。」と小さく零すと、「なんで謝るの、熱があるんだから周りに気なんか使わないでゆっくり休みなさいな。」母は気遣うようにそっと微笑んだ。チクリ、と胸が痛む。

きのう階段から突き落とされて気を失った私は、その後すぐにたまたま通り掛かった用務員さんに発見されたおかげで、幸い大事には至らずに済んだ。

運び込まれた保健室のベッドで目を醒ますと、心配そうにこちらを覗き込む古株さんと担任の音無先生の顔が目に入ってきたが、すぐに視界はふわふわの紺色でいっぱいになった。

「よかった、よかった…!」そう言いながらぎゅうぎゅうと抱きしめられて、ちょっぴり苦しかったのは秘密。
あたたかい先生の体温に安心したからか、その日初めて肩の力を抜くことが出来たからか、目頭が痛い位に熱くなっていくのを感じた。
瞳の潤みに気づかれないようそっと額をくっつけた細い肩は、やっぱりあたたかかった。


「なんで、あんなところにいたの?」

いつの間にやら泣いてくれていたらしい音無先生は、薄く濡れた瞼を袖で押さえると、キリッとした先生らしい表情へと切り替えてそう尋ねてきた。

「ちょっと、忘れ物を探していて。」

私は平然と、迷うことなくそう返した気がする。

ひとつ補足をするならば、私は彼女たちからの嫌がらせ、いやもうこれはイジメの域に達しているだろうか、ともかく私に振り掛けられた行為の数々を先生に告げるのが怖かったわけではない。

元々、自分で言うのもあれかもしれないが、あまり精神面は弱くないつもりだ。たとえこれらの行為がエスカレートしたとしても、鼻で笑い飛ばせてしまう自信さえあった。

けれど、なぜだかふっと鮮やかなピンク色が頭を過ぎった瞬間、本当の事を告げるのがためらわれてしまったのである。

ことの始まりがいっそう人目を引く廊下だったのだ。きっと、本当のことを告げればいずれ彼の名前があがってしまうだろう。

「なら、なんで倒れていたの?」

もしかしたら音無先生は、事態を大方把握しているのかもしれない。
あれだけあからさまに教室や廊下で雰囲気が変わっているのだから、それも頷けた。

狭い眉間に小さく皺をよせながら、本当のことを言って、私に助けを求めて、とでもせがむように、余裕のない悲痛な色を無理やり隠した声で、先生は更に続ける。

「…朝から少し調子が悪くて、ふらついてしまったんです。」

それでも私はそ知らぬ顔をして、薄く笑顔を貼付けそう告げるのだった。


***


お母さんが仕事へ出かけて行くと、家の中は息を潜めたみたいに静けさが漂った。
まるで別世界にでもなってしまったようで、その不自然さに違和感を覚える。
その不思議な秩序に習うように、ひっそりと呼吸を合わせると、なんだか自分も溶けこんでしまいそうだと思った。

チッチッチッと時計の針が小さく回る。その音だけが、この部屋も生きていることを確認できる唯一の現実だった。


無感情で天井をぼんやりと眺めていると、ふとした瞬間に身体が浮いた感覚がフラッシュバックして、叫んでしまいそうになった。
心臓が跳ね上がって、鼓動が部屋全体に漏れだしたみたいに大きく軋む。
自分の周りすべてが巻き込まれ揺すられているみたいで、気持ちが悪い。
嫌な汗が身体全体から吹き出してきて、握りしめた手の平はじっとりと湿っていた。

人からこんなにもあからさまに憎しみを向けられたのはこれが初めてだった。
今までの羨みや、苛立ちをぶつけるのとは違う。明らかな、消し去ってしまいたい位に恨んでいる者に対する憎悪。
彼女達の目が、それを物語っていた。
何も映さない、人が落ちていくのを見ても何も感じていない無感情な瞳。
道理や罪の意識など丸めて捨ててしまっているらしい、虚でいて、恍惚とした表情。薄く弧を描くいくつもの唇。

恐ろしかった。
恐ろしかった。

初めて、命の危険すら感じた。

…だめだ。
突然発作のように脳裏によぎる恐怖に脅えていたら、本当にこのまま飲み込まれて出てこられなくなりそうだ。

そうだ、眠ろう。

きっと、ここ数日のめまぐるしい生活の変化に身体が対応仕切れなくて疲れているのだ。
眠ってしまえば疲れと一緒にこの弱さも、恐怖も、身体の中から染み出ていってくれるはず。

ゆっくり瞼を閉じると、なぜだか濃いピンク色が目の前を埋め尽くしたような錯覚を起こした。
ちがう、あいつのことが頭を過ぎったわけじゃない。
薄ぐらい部屋にずっと居たせいで、脳が補色を求めただけだ。
だから、ちがう。ちがうのだ。

自分に言い聞かせるように何度かそうつぶやいて、脳内から艶やかなピンク色を追い出すようになにもかも考えることをやめた。

とたん、水の中へ沈んでいくみたいに、意識は夢の中へと落ちていった。


***


目を醒ますと、部屋の中は薄く朱色がかっていた。
ぼんやりと思考が働かないまま枕元の時計に手を伸ばすと、短い方の針が5と6の間を指し示している。

ぱしんと頬でも叩かれたみたいに、一気に目が醒めた。

寝返りを打ち、指折りしながら寝ていた時間を数えてみる。
すると今日だけで軽く両手を超えてしまい、改めて数にして認識してみると驚愕せざるを得なかった。
こんなに深く眠ったことは、もしかしたら初めてかもしれない。

一度も目を覚まさなかったなんて、よっぽど疲れていたんだなと改めて自覚し苦笑してしまった。

そのときまた、突然発作のように重力を奪われた錯覚を起こす。
落ちていくような感覚を振り払うように、必死で体中全体を抱え込んでうずくまった。

こんなにも眠ったのに、まだあの重苦しい感情は抜けきれていなかったのかと、あくまで冷静に深呼吸をして自身を落ち着けた。
思っていた以上に深く根付いてしまっているらしいトラウマに、小さく溜め息を零す。

すぐに頭を左右に振って、いけないいけないと自分自身に葛を入れる。
他のこと、他のことを考えよう。あ、とリビングにレンタルしていた映画が在ったことを突如思い出した。きっと、いい気分転換になるだろう。

ベッドから起き上がってみると、体中にうっすらと汗が纏わり付いているらしくべとべととして気持ちが悪い。
沈んだ気持ちを剥がしてしまうように、私は寝汗で湿っていたパジャマを自室の床に脱ぎ捨てた。


***


一階のリビングへ降りてみると、二階の寝室よりもいくらか涼しい。

洗剤の匂いのする真新しいTシャツに着替えたからか、いくらか身体が軽くなったような気がする。
それに加えて短パンというなんともラフな恰好ではあるが、洋服に変わっただけでもずいぶんと気持ちがシャッキリとした。


寝ている間に汗を沢山かいたせいか喉が空っぽに渇いていたので、そのまま冷蔵庫へと足を進める。
扉を開ければ顔に掛かる冷気がほてった頬にとても心地いい。
甘いもの何かないかな、とゴチャついた小部屋内を見回すと、一層ピンク色の液体が目を引いた。
2リットルボトルに僅かに残っているそれを手に取ってみると「ピンクレモネード」とかわいらしいデザインがラベルに施されている。明らかに女性向けに作られていた。
大して色は似ていないのだが、少なからずピンク色に翻弄されているという事実に人知れず腹がたってくる。

忌ま忌ましい感情をも消し去るように、私は直接口を付けてボトルの中身を全て飲み干した。

ふは、と空気を肺に流し込むと、甘酸っぱさの余韻が残ってお腹の中からふわふわとしたような気分になる。
しゅわしゅわと音を立てて内側から欝そくとした気持ちまで洗い流してくれているみたいだった。


一息付くと、突然「ピンポーン」という軽やかなチャイム音が家中に響き渡る。
宅配便か何かだろうか。着替えておいてラッキーだったな、と思いながら「はい、はい」とインターホンの前まで急いで向かう。


小さな液晶を覗き込んでみると、見慣れた青い学ランが目に飛び込んできた。
しかし、写っている予想もしていなかった人物に私は驚きを隠すことが出来ない。


『あの、同じ雷門中の神童と申します。』


困惑が頭を駆け巡る中、私は玄関へと小走りで急いでいった。


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