宮地


冷蔵庫の右の扉、上から二段目の棚にはジャムの小瓶が並んでいて、カラフルなその中からひとつを選ぶことが私の朝の習慣になっている。電気ケトルにスイッチを入れて、テーブルにジャム瓶とスプーンを二本並べた。ごぽごぽ、という湯の音が朝の明るいリビングに響いている。
キッチンでインスタントコーヒーの粉をきっちり図っていると、ガラガラと扉の開く音がした。リビングと扉ひとつで隔てられた寝室の方から、だらりとしたグレーのスウェットに身を包んだ清志がのそりと現れる。おはようを言うと、「はよ」という欠伸混りのあいさつが返ってきた。どうやらまだおねむらしい。ふらふらした足取りでソファに向かう清志から、私は視線を手元に戻した。ふたつ取り出したマグカップの青い方へ、完璧に計った真っ黒い粉をさらさら落とす。ごぽごぽ、かちり。その音を合図に沸いた湯を一気にふたつのマグカップへ注いだ。赤い方の中では、ひらひらとダージリンのティーパックが踊っている。

ソファにどしりと腰を落としている清志とテレビの真ん中の、猫足テーブルにマグカップとお皿を並べていると、清志が半身をあからさまに傾けた。眉間に皺がぎゅっと寄っていて、どうやらテレビが見えないらしい。私は意地悪な気持ちになって、わざとテレビの前を行ったり来たりすると、清志は盛大に舌打ちを落とした。ちっ。
それには私も胸がむかっとして、少しは手伝ってよ、なんて思ったけれど、寸でのところで全部飲み込んだ。せっかくの気持ちいい朝に、耳障りな口喧嘩なんて似合わない。
チンと鳴って飛び出した狐色トーストの、何とも言えない香ばしい匂いが素敵な朝を演出しているようで、刺々しい私の心を沈めてくれた。トーストを一枚とヨーグルト、シリアルを持ってテーブルの方へ向かうと、それを横目で確認した清志はやっとソファから重い腰を上げて、床にどしんと胡座をかいた。まったく、清志さまさまである。
ふたり揃って向き合うと、いただきますをした。一緒に暮らし始めた頃はせーの、で合わせていたのだけれど、いつの間にか「せーの」はいらなくなっていた。ふたりのタイミングになったいただきますはいつもピッタリ揃っていて、それに毎朝私はとても満足な気持ちになる。
真ん中に置いた瓶から清志はジャムをひと匙すくい、スプーンごと私に寄越した。私がそれを受け取ると、今度はこんもりと、もう一杯自分用にもすくう。それを私は紅茶にとぷりと浸し、清志はトーストに塗りたくる。雑誌に紹介されていたこのジャム入り紅茶はロシアン・ティーというらしい。濃い紫色をした宝石みたいな山葡萄のジャムが、ゆっくりダージリンの中でとろけていく。
まだふたりで暮らし始めの頃、私がこのロシアン・ティーを飲みはじめたとき。一杯の紅茶で消費するジャムの量なんて微々たるものなので、使い切れず残ってしまうジャムが勿体ない、と嘆いたら、「無添加のやつなら食える」と清志が言うので、今まで毎朝バラバラだった朝食メニューは今の形に落ち着いた。清志はジャムトーストで、私はシリアルとヨーグルト。朝は珈琲党の彼と紅茶党の私。ジャムを除いて、私たちの朝ごはんは全く噛み合っていない。

カリカリと音をさせながらジャムトーストにかじりついていた清志は、数回咀嚼したところで小さく眉間に皺を寄せた。どうしたの、と聞こうとしたのだけれど、調度シリアルを口に入れたばかりなので喋ることが出来なかった。私が飲み込むよりも先に、清志が不服そうに口を開く。なあ。

「なあ、これ、どこのパン?」

どこの、と聞かれてパッと言葉が出てこなかった。スーパーの、と言おうかと思ったけれど、多分きっとそれは彼の求めてる答えじゃない。メーカーの話なのだろう。そういえば昨日、たまたま二割引きのシールが貼られたものが売っていたので、それを手に取ったのだと思い出す。CMでやってる新しいやつよ、と咄嗟にうそぶいた。

「ふうん」

不機嫌を隠すことなく、不服そうに素っ気なくそう言い放った清志に、私は舌打ちでもしたい気持ちで一杯だった。文句があるのなら食べなければいいのに。今日のジャムはマーマレードにすべきだったと後悔する。清志はマーマレードが苦手なのだ。

ふたりとも朝食を食べ終わり、ゆったりと食後のけだるさを味わうと、清志は使い終わった皿を器用にすべて重ねて立ち上がった。もちろん、私のものも全部だ。私が食事を作った日は、というより殆ど毎日、清志は食器を洗ってくれる。特別家事の役割を決めている訳ではないのだけれど、清志はいつもこの役割を買って出てくれる。ありがとうを言うと「おう」とぶっきらぼうにそれだけ呟いた。絶対言葉にはしてくれないけれど、これが清志のやさしさなのだ。清志はやさしい。口を開くと刺まみれの言葉しか吐き出せないのだけれど、その実彼の薄くて大きな手の平から作られる動作は全部柔らかくて丁寧だ。そんな清志のやさしさを知っているから、私は彼の言葉にいちいち本気で腹を立てたりしないし、ましてや嫌な言葉を投げ返すだなんてことは出来やしないのである。

私はロシアン・ティーを美味しいと思って飲んだことは一度も無い。飲みはじめたときに、せっかく買ってきたジャム瓶の中にたくさん残っている綺麗なジャムが勿体なかったし、何より負けた気がするのがくやしい。だから、惰性で飲みつづけていただけだった。
ジャム瓶の中身が半分を過ぎた頃、その日帰宅した清志は珍しく私に手土産を渡してきた。駅ナカなんかにある輸入ショップの袋からコロリと出てきたのは、二つの小さなジャムの瓶だった。
たまたま立ち寄った駅で売ってたから、とか、何となく買っただけだ、なんてろくに目も合わせず言い訳みたいな言葉を並べる清志が愛しくて仕方なかった。またロシアン・ティーの日々が続いてしまう、とかそれよりも、清志が私の何気ない行動を気に掛けてくれていて、それは外出先でも同じだったということ。そうした経緯を踏んでこれを買ってきてくれたのだという嬉しさで、私の心はすっかり満たされていた。それから私は毎朝、ロシアン・ティーを飲みつづけている。清志はときどき、小さな瓶に詰まったジャムを買ってくる。いつの間にか、冷蔵庫の右の扉の上から二段目は、カラフルな小瓶で溢れるようになっていた。もちろん清志は私がジャム入り紅茶を特別好んでいる訳ではない、ということを知らない。
そして私は、清志はジャムがあまり得意ではないということを知っている。

ジャージャーと水の流れる音をバックに、私は流し場の後ろにある冷蔵庫へジャムの瓶を戻した。振り向くと、清志の大きな背中がいじらしくもお皿を洗っている。ふたりで住んでいるマンションのこの部屋はやっぱり普通通りのサイズに設計されているため、百九十オーバーの長身な清志にはちょっと窮屈そうだ。高さが合わないのか、小さく屈みながらやりづらそうにお皿を洗う後ろ姿がどうしようもなく愛しくなって、私はその大きな背中にぴったりと抱き着いた。

「んだよ、びっくりすんだろ」

「清志、好き。」

「…邪魔だから離れろ」

ツンとそんなことを言うくせに、清志はまったく振り払うそぶりをみせない。私はうれしくなって、更にぎゅうぎゅうと抱き着く腕に力を込めた。

きっと私がロシアン・ティーなんて別に好きじゃないのよ、と言えば朝のメニューはがらりと変わるのだと思う。(そうか、俺も別にジャムは好きじゃねえんだよ。なんて清志は言わないと思うけど。)でも私はジャムが中心の今の朝食の形を気に入っているし、何より、自分の好みを隠してまで私に合わせようとしてくれる清志が愛しくてしょうがないのだ。だから私はジャム入り紅茶の習慣をやめるつもりは毛頭ないし、清志には当分この習慣に付き合ってもらうつもりである。清志がかわいそうかな、なんて気持ちも少しはあるけれど、それが可愛いのだから仕方が無い。清志のことを素直じゃないなあ、と思うことが結構いっぱいあるけれど、私も相当である。清志が私の為に我慢する姿を見て彼の愛情を推し量っているのだから、全然素直じゃない。まったく、似た者同士である。私はもっとうれしくなった。

「ねえ清志、今日はマーマレードを買ってきて。久しぶりに食べたくなっちゃった」

「…おう、わかった」

ああ、なんてやさしいのだろう。


【ジャムのある食卓】:宮地

130203

 

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