高尾


「もう勝手にしろ」


その言葉を最後に、彼は私から離れていってしまった。


+++


ドッ

肩に鈍い衝撃が走り、私の重心は大きく傾いた。

あ、ヤバい。

そう思う頃には膝から崩れ落ちていて、尻餅を着いたお尻はじわじわと痺れるように痛み出している。

すみません!と焦りをあらわに覗き込んできたその顔は、私の知らないのものだった。
ああ、彼じゃない。
私は無意識にそんなことを思う。

心配そうに屈み込んできた見知らぬ男子生徒は、頬を染めたまま動かなくなってしまった。どこか一点を見つめて固まっている。

不思議に思い視線を辿れば、着いた先は私の足元。
膝を立てた状態で座り込んだ私のプリーツスカートは完全にめくれ上がっていて、太股は大部分がさらけ出されてしまっている。
多分向こう側からなら完全に、中が見えている。

慌てて膝を閉じたけれど、あまりの恥ずかしさに顔を上げることが出来なかった。頬が焼けるように熱い。

廊下で人とぶつかったのは、今日だけで3度目である。


+++


結局、私の記録は3回で止まることはなかった。
お昼休みになるまでにプラス4回。うち、転んだのは2回。

小さい頃は確かによく怪我をする子供だったけれど、最近はこんなことなかったのに。
思わずため息を零さずにはいられなかった。

美奈子、と友達に名前を呼ばれてハッとする。
咄嗟に笑顔を貼付けて、今行くよーなんて言いながら、友達の輪の方へと足を進めた。

あの日から、昼休みは友達と教室で過ごすようになった。
事情を知っているみんなは、快く私を輪の中に受け入れてくれる。そんな彼女たちはひどく優しい。
元々いつもは女子グループの中にいるし、ちゃんと皆仲良しだ。
だから、そのままの流れでお昼を友達と食べるのは自然なことの筈なのに。

私の胸はこの時間がやってくる度に、ツキツキと痛んで止まないのだ。


「美奈子は今日買い弁?」

「うん、そのつもり。」

「じゃあ購買いっしょ行こ」


財布を手に取りドア付近で待ってくれた友達の元へと駆け寄る。
何買おっかな、なんて。そんな何でもない会話で笑いながら廊下へ出た、その瞬間。

カチリ、と。
彼、高尾くんと目が合ってしまった。

瞬間、まばたきも思考も何もかもを奪われた。
少し離れた先に見える、人懐こい笑顔も、ちょっと掠れた声も、全部一週間ぶりだ。

たまたま通り掛かっただけだって解っている。
けれどそれでも、彼の姿にどうしようもないくらい嬉しさが込み上げてくる。

動けなくなった私とは裏腹に、彼はスッと目線を逸らし、楽しげな談笑へと戻っていってしまった。

嫌な顔をするでもなく。
拒絶をするでもなく。
まるで最初から何も見えてなかったみたいに。
私のことなんて忘れ去ってしまったように。
その反応が何よりも一番、堪えた。瞼の重みを必死に耐えて、俯くことで潤む視界から彼を無くした。

高尾くんと、時々その相方の緑間くんと、3人で過ごした休み時間。
そんな幸せだった時間はきっともう、やってこない。


+++


購買へ着くと、驚くくらいに人が溢れかえっていた。
活気のあるざわめきと人込みに、思わず怯んでしまう。

友達のお目当てはジュースであったらしく、既に自販機の方へと行ってしまった。
真っ黒な人込みに紛れて、今はもう姿が見えない。
ひとりになると、なんだか心細くなる。

もう一度、パンやお弁当に群がる人の山へと身体を向けてみた。
数えきれない後ろ姿はでこぼこの塊に見える。列になっている訳ではないようだ。
つまり、ごはんを買うには、どこからでもいいからここへ飛び込まなければならない。
きっと空くのを待っていたら昼休みはあっという間に終わってしまうだろう。
こんなに恐くて心細いなんて。困ったことになった。

いつも購買でご飯を買うときは、高尾くんが代わりに買ってきてくれていた。
ちょっと待ってろ。なんて言って、私を人込みから外れた壁に置いたまま、彼はいつもひとりで走っていく。
要領がいいのか運がいいのか。私は殆ど待たされたことがない。彼はビニール袋を腕に提げて、すぐに涼しい顔して帰ってくる。
ほら行くぞ。なんてさりげなく手を引いて、お日さまみたいに笑うのだ。

そこまで考えて、ハッと我に返った。
いけない、いけない。頭をふるふると振って、もやもやとした思考を追い出すようにして、自分を落ち着けた。
気を抜くと、すぐに頭の中は高尾くんでいっぱいになってしまう。
もう、どんなに思っても仕方がないと言うのに。


もう彼は私の側に居ないのだから。
私は自分で行かなくてはいけない。

そう宣言したのは自分自身なのだから。

意を決して、私はその人で出来た濁流の中へと飛び込んだ。

そこは、私の想像を遥かに超えた世界だった。
ぎゅうぎゅうと圧迫される身体に、視界いっぱいに広がる黒、黒、黒。
目の前には学ランの大きな背中やセーラー服ががどこまでも広がっていて、商品どころか出口まで見えはしなかった。
人は着実に減っていっている筈なのに、身体にのしかかる大きな力は一向に軽くなる気がしない。

少しでも先に、と足を踏み出した時。前の人の肘が当たって私は呆気なく後ろへ倒れてしまった。ああ、今日8回目。

重力に任せるまま床に着いたその瞬間。
左手首に激痛が走った。


「いたっ…!」


付き方が悪く、思い切り手首を捻ってしまった。庇うように、左手を抱え込む。じくじくと痛みは鈍く骨を伝うように響いていく。
その時背中に軽く衝撃が走った。多分、今、蹴られたのだと思う。
驚いて上を見上げると、恐い顔をした男の人が私を見下ろしていた。
床に座り込んだ私の遥か上に位置するその顔は、隠すことなく不機嫌さをあらわにしている。チッ、と舌打ちがひとつ零された。


「邪魔くせーな」


私は自分の身体が恐怖に強張っていくのをひしひしと感じた。震える唇を、きゅっと噛み締めることで堪える。

頭の中では彼、高尾くんの言葉が大きな鐘の音みたいにゴンゴンと、鈍く重く響き渡っていた。

結局一度人ごみから身を引いた私は、端からそろそろと近づいて行き、一番端っこのトレーに入っていたパンを二つ購入した。
種類なんて選ぶ余裕はなかった。
壁に掛かる時計を見てみれば、もう既に15分も経ってしまっている。


"お前はひとりじゃなんもできねーな"


彼の言葉が絶望的に、何度も何度も頭の中へ響いていた。

 

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