高尾


どこからか漂ってきたほの甘い匂いが、やさしく鼻孔をくすぐってきた。

引き寄せられるみたいに、ふらりと匂いのする方へと足を向ける。

運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏が鳴り響く学校は、夕暮れ時にも関わらずまだ活気が残っている。
あと少しで一日が終わってしまう物寂しさの一歩手前。そんな時間だ。

夕日も沈み掛けて夜も近い。
そんな茜色の空の下で、俺はひとり校舎の方へと向かっていた。顧問からの呼び出しがあったからだ。
行き先である職員室は体育館から直結しているルートを通るよりも、一度外へ回って玄関口から入る方が近い。
だから俺はバッシュを履いたまま、ひとり校舎の外を歩いている訳である。

練習を途中で止めさせられたお陰で、今日一日部活で溜まった疲労と空腹感が一気に身体を襲ってきていた。
部活終わりまではまだ時間が十分に残っている。
だからきっと、用事を終えればまた練習に合流しなければならないだろう。
いつもは必死さ故に部活が終わるまで気がつかないこの疲れ。これを自覚してしまってからの練習は考えただけでも辛いことこの上ない。

そんなときに漂ってきた甘い香り。正直、疲れきった身体にはたまらなかった。
だから俺はほぼ反射的に、そちらの方へと足を進めてしまった訳なのである。


+++


ふらりとたどり着いた先は、ひとつの窓の前だった。
薄暗い茜色の景色の中で、煌々と光る電球の白い明かりは目に眩しい。

そんな窓の向こうからは、くらくらするくらい甘ったるい匂いと、女子特有のキャピキャピとした、楽しげな話し声が漏れ出して来ている。
一階のこの教室。確かここは、家庭科室に当たると思う。
外からだと教室の位置が解りにくくなるものの、溢れ出す甘い香りがそう告げているようなものだった。

そんな中で。
窓の向こう側。窓際に設置された流し台に腰掛ける後ろ姿は見覚えのあるものだった。

気がついてもらおうとバンバン二回窓を叩けば、小さな肩はびくりと跳ね上がる。
そのまま驚いたようにこちらを振り向いた顔は、やっぱり見知ったものだった。


「やっほー笹木ちゃん」

「びっくりした高尾くんか。どしたの?」

「たまたま通り掛かったんだよ。何やってんの?」


窓をカラカラと開けてくれた笹木ちゃんは、クラスメイトの女の子である。
班の振り分けで割と被ることが多いため、クラスでもなかなか仲は良い。


「料理部の活動中だよ。実習日なの。」


そういう彼女は見慣れないエプロン姿で、片手には陶器の白い皿を持っている。


「いいなー何作ったの?」

「今日はね、チョコレートのシフォンケーキ。」

「おおー女子力高いっすね。」

「もう」


女子力って言えばいいと思ってるでしょ、と彼女は笑う。
正直、彼女の左手のそれが視界にちらついて仕方なかった。


「ねえねえ笹木ちゃん。」

「なあに?」

「一口ちょーだい。」

「絶対言うと思った!」


少し悩むそぶりを見せた後、彼女はにんまり口の端を上げた。
どうしよっかなあ。そう言う彼女は悪戯っ子のようにニヤニヤと笑っている。
優しい子だからすんなりくれると思ったけれど、そんなに簡単にはいかなそうである。


「ねえ、おーねがい。」

「えー。」

「ひとつ言わせてもらうけど!この漂ういい匂いは、運動部の飢えた男子には残酷でしかないんだからな!」

「あーあ。まんまと釣られて来ちゃったんだ」

「そ、まんまとおびき寄せられちゃったの。」

「えー、でもなあ。他の子かわいそうだしなあ。」

「ナイショにすりゃいーじゃん。」

「え〜?」


なおも彼女はニヤニヤと余裕の笑みである。
校舎内にいる彼女と、地面に直接立つ俺と。今の状態では彼女の方が目線が高い。
物理的にも見下ろして来る彼女のその目は、女王様のそれだった。


「こんなの生殺しだ。…笹木ちゃんがそんな子だと思わなかった。」

「あはは、今頃知ったの?しょーがないなあ、一口恵んであげよう。」

「よし!やりい!」


窓へ乗り出すように背伸びをする俺の後ろ姿は、なかなかに気持ちが悪いと思う。男の一生懸命な背伸び姿なんて需要はない。

調子いいんだから。なんて文句を口にしながらも笹木ちゃんはフォークでふわふわのケーキを切り分けてくれる。
角度的によくは見えないけれど、結構大きめに。そんな彼女はやっぱり優しい。
一口でいけっかな。なんて思いながら、俺は目の前にケーキが現れるのを待ち侘びる。


「はい。どーぞ。」


そう言いながらフォークに刺した一切れのケーキを彼女は差し出してくれた。
やっと目の前に現れたシフォンケーキは、なんだかキラキラと輝いてみえる。

居ても立ってもいられなくて、俺は、あー、と口を開いてそのケーキを待った。

けれどそこで、笹木ちゃんが動かなくなった。


「ん、なに?ここまできてくんないわけ?」

「いや、その、え?」

「は?」


完全に困惑しきっている彼女を見て、ピンときた。
彼女は所詮「あーん」という、恋人同士さながらのその行為をためらっているらしい。
こちらとしては狙っているつもりは毛頭なかったのだが、先程いじめ抜かれた仕返しに利用させてもらおう。


「笹木ちゃんやってくんないの?あーん、て。」

「は、恥ずかしいでしょ…!」

「いーじゃん。せっかくだし。エプロン姿の可愛い女子にあーんされたい男の欲望も満たしてよ。」

「うわあ……」

「男子高生なんてそんなもんなんだよ。」


ほら、あーん。
再び口を開いて、覗き込むように見てやれば、彼女の顔はみるみる赤く染まっていく。
ヤバい、これはちょっとかわいい。
こんな状況にときめくなんて。シチュエーションがマニアックすぎて、自分でもなかなか引いた。


「じゃ、じゃあ。」

「ん、あー。」

「あ、あーん。」


カチリと歯に軽く当たったフォークは少し震えていた。
唇を閉じれば、口いっぱいに優しい甘さが広がっていく。舌の上で溶けるそれはまだほんのりと温かかった。

ゆっくり抜き取られるフォークが名残惜しくて。まだ甘さが残っていたら勿体ないなと思って。
フォークを握るその手を掴まえて、先っぽのあたりをひと舐めした。金属の固さの上にうっすらとチョコレートの風味がする。

完全に甘さを舐めきったそれに満足して、俺はパッと掴まえていた腕を解放した。


「ごちそーさまでしたっ。すげー美味かった!」

「高尾くん…」

「ん?なに?」

「チャラい。」


うっすらと頬を染めた彼女はジト目でこちらを睨んできた。
よく解らないけれど、何かが彼女のお気に召さなかったらしい。


「いやいや、俺チャラくないっしょ。みてこの黒髪。超マジメ。」

「そういうことじゃない。チャラい。」

「失礼しちゃうなー。」


彼女はため息をつきながら顔をパタパタと手で仰いでいた。
その様子をにんまりと眺めていると、再びフォークでケーキを切り分けながら「餌付けって、こんな気分なのかな」なんて呟いている。
それは聞き捨てならない。


「なんだよ動物扱いかよ。」

「飢えた子犬さながらだったよ。」

「子犬って。俺、鷹の目の持ち主なんだけど。」

「ホーク?鷹?そんな獰猛な感じじゃなかった。こう…縋るような、情に訴えかけるような目だった。」

「あちゃー、笹木ちゃんほだされちゃったか。」

「そうそう、ついほだされちゃったの。」


下らない会話を繰り返しながら、笹木ちゃんは、自分の口へとケーキを運ぶ。
んー!なんて嬉しそうに口許を綻ばせる姿を見ながら、あれ?と思った。


「意外だなー」

「ふ?…なにが?」


コクリ。ケーキを飲み下しながら、彼女は意味がわからない、といった感じに首を傾げている。
そんな彼女の手を俺は指差した。


「それ。フォーク。絶対洗うか変えるかすると思った。」

「……っ!!」


大袈裟なくらい慌てふためく彼女を見て、堪えるのが大変なくらいの笑いが込み上げてくる。
一々反応が初で、からかい甲斐がありすぎる。


「っ先に言ってよ!」

「わー笹木ちゃん間接チューだ」

「――っ!もう!もう!!」


赤いやら青いやら。怒りたいのやら泣きたいのやら。
色んな感情ががないまぜになった彼女の表情はなんだか情けなくて、それがなんとも、俺の目には可愛く映った。


「ごめんごめん。笹木ちゃん一々反応面白いから、ついからかいすぎたわ。あとで口濯ぎなね。」


でも俺が去った後にしてね。さすがに傷ついちゃう。
そうふざけるように口にすれば、笹木ちゃんは焦ったように顔を上げた。


「いや、そこまでしないよ!別に嫌だった訳じゃなくて…ただ恥ずかしくて、ってあれ?えっとー…」


言葉が上手く纏まらないのか、必死に頭を悩ませる彼女から、思わず顔を背ける。
俺の顔はきっと今、見せられたもんじゃない。

なんだよ、それ。
多分本人は無意識に零した言葉だとは思う。けどこれは反則だ。
嫌じゃないとか、ふつうに、照れるだろうが!

まだまだ辺りを漂う匂いのせいか、口にうっすらと残るチョコレートのせいか。彼女の言葉もひどく甘いような気がしてしまう。

少しずつ舌の上から引いていく甘さが、どうしようもなくもの寂しい。
そういえば、出来立てのお菓子なんて食べたのは初めてだ。
柔らかくて、あったかくて、香ばしくて。
出来立てのものが、こんなに格別に美味しいとは知らなかった。新しい甘さを知ってしまった。
自分で作ろうとは思わないけれど。でも、既にちょっと恋しいな、なんて。


「ねえ、笹木ちゃん。」

「何?やだよ?」

「俺ね次、マフィンがいい。出来立てのやつ。」

「もう、やだって言ったじゃん…。」


そう言いながらも「私が作ったら、次もきっとチョコ味だよ」なんて笑ってくれる彼女は、やっぱり優しかった。
ふわふわの甘いお菓子を作り出す、そんな彼女自身も優しくて、やわらかくて、ひどく甘い。

男は胃袋で掴め。なんて、よく言ったものだ。
俺が惹かれているのは、優しい菓子にほだされてなのか。優しい彼女自身に引き寄せられているのか。

どちらにせよ、まんまとこの甘さに溺れているということで、間違いないのだろう。


【砂糖菓子より甘い】:高尾

120830

 

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