バスの中は明るい。
隅まで照らし付ける白っぽい光は、薄暗い中に溶け込んでしまっていた目には少々痛く感じる位に眩しかった。
ぱちぱちと目を慣らすため多めに瞬いて中へ入ると、車内は人ひとりおらずガラリとしていた。

いつも帰り道に利用する夕方のバスは、雷門よりも数駅先から小学生で賑わっているのでなんだか新鮮な気持ちである。


「奥の席でいいかな。」


がら空きの座席にどう座ったら不自然でないかな、なんて考えてきょろきょろ辺りを見回す。すると向坂くんは一番奥の長椅子を指差し薦めてくれた。

部活道具を詰めている向坂くんの荷物は大きいし、なにより一番自然な形かもしれない。

肯定の意味を込めて何度か大きく頷くと、向坂くんはにこりと緩やかに笑って奥の座席へと移動した。


席へ落ち着くと、話題がなくなっていることに気が付いてしまった。
車内には他に人が居ないせいもあってか、間が更に際立つ。
時折、夜の道路を駆け抜けるバイクの音や、タイヤが段差にひっかかった際に軋んだカタタンという音がバスの中にくぐもって響いた。けれどそれも無くなると、また不思議な静けさが車内を漂う。

行き場に困った視線をうろうろ漂わせていると、白電球の回りを漂う埃みたいな虫たちが目に入った。当たる度にパチパチと跳ねて小さく音を立てる。無言の空間にはそんな些細なものすら大きく聞こえてきてしまった。

それを虚ろに眺めていると、ふいに向坂くんが口を開いた。


「笹木さんはいつも、この座席の端っこに座るよね。」


何かこだわりでもあるの?と静かに笑いながら問い掛けてくる。
つられて私も薄く笑った。


「癖みたいなものかなあ。朝ってガランといっぱい席空いてるから、なんとなく邪魔にならなそうな此処に座っちゃうの。」

「後の人のこと考えてて、えらいね。」


まさかそんな風に言われるとは思わなかった。驚きの余韻でうまく口が回らなくなる。
「いや、ちがうよそんなんじゃないよ…!」と慌てて否定の言葉を口にしてみるも、綺麗な緑色の目を優しく細められただけだった。
しまった、偽善者のように受け取られたのではないだろうか。
そんな焦りから、これ以上の失敗を積み重ねないために私は必死に別の話題を口にする。

「向坂くんこそ、朝席いっぱい空いてるのにいつも立ってるよね」

「え、」

「あれって、団地のところで乗ってくる小学生の子たちの為でしょ?」


ほらあそこ、と車内の中央にある乗車扉の少し後ろのスペースを指差す。
今は何もないそこには、毎朝同じ姿で窓の外を眺めている向坂くんのシルエットがぼんやりと浮かぶようだった。


「向坂くんこそ他の人のこと考えてて、偉いと思う」

「いや、俺は違うよ」


手を顔の前で左右に揺らしながら、間を置かずに向坂くんは否定の言葉を口にする。
同じような質問に同じような答えで返す会話がなんだかおかしくて、つい声を抑えながらも笑ってしまった。
僅かに距離を置いて座る、私よりも高い位置にある向坂くんの顔を見上げてみると、可愛らしい眉を少しだけ困ったように下げながらも、口許には優しく小さな笑みを浮かべていた。


***


次の日の朝、いつもの長椅子の端で、うとうととバスに揺られていると、私のアパートから二つ隣の、いつもどおりのバス停で向坂くんは乗車してきた。
彼もまた眠そうに瞬きを繰り返しながら、いつもの立ち位置で風船みたいに膨れるスポーツバッグを降ろすと、黒い手すりに体重を預けるようにしてコクリコクリと揺れている。


(向坂くん、おはよう)


少し抑え気味の、けれどバスの真ん中へ聞こえる程度のトーンで、私は恐る恐る向坂くんに声を掛けた。
いくら乗客が少ないとはいえ普通の声色で話し掛けることは躊躇われたのだけれど、逆に届かず終いになってしまったかもしれない。

恐々と向坂くんの方へ視線を向けていると、ぴくり、と小さく肩を震わせて、彼は驚いたように勢いよくこちらを向いた。
視線がカチリと交わる。

なんだかそんな仕種ひとつひとつも猫を連想させて、ふっと笑いが込み上げてきてしまった。


今度は言葉を音にしないで、おはよう、とゆっくり口を動かす。
目線が合っているから、きっと伝わってくれるはず。

すると穏やかな笑みを浮かべた向坂くんも、同じ調子でゆっくりと口を動かしてくれた。
また、昨日の会話のようにまねっこをしたみたいでおかしくて、二人で声を零さずに笑いあった。
くすぐったくて、ぽかぽかとした気持ちがじんわりと身体を温める。


少しして、向坂くんは何かに迷うようにきょろきょろと辺りを見渡し始めた。
仕種を見ている限り、どうやらこちらに行こうか行かまいかと迷っているらしい。

荷物とお尻を少し窓の方へ寄せるようにして、隣に座りやすいように促してみる。
向坂くんはこちらを見て少し悩むような仕種をすると、ゆっくりと足元に落としていたスポーツバッグの肩紐に手を掛けた。

ちょうどその時、バスは次の停車駅である集合住宅地前で止まり、ポップコーンが弾けるみたいに勢いよく小学生たちが飛び乗って来た。
狭い車内を勢いよく駆け抜け押しのけ、みるみるうちにまばらに空いていた座席は同じ制服の子供たちで埋め尽くされていく。
当然、私の隣も晴れて勝ち組となったちびっ子で埋まってしまった。
席に座ることが出来ずあぶれてしまった子は、ふてくされたように座席の友達にちょっかいをかけている。
ついに通路も、真っ黒の制服でいっぱいになった。

もう一度向坂くんの方を振り向くと、少し安堵したように緩んだ表情で、彼はいつもの窓際へと視線を向け直していた。

その姿に、心臓が潰されるみたいな重い痛みが走る。
そんなに、私の隣は嫌だったのかな。考えれば考える程胸が苦しくて、ずしりと鈍い重みを増していく。

昨日の事もあって、随分と向坂くんとの距離が縮まっているような錯覚を起こしていた。私が勝手に舞い上がって、勝手に距離を感じている。
自分勝手な解釈であることは解っているけれど、現実として突き付けられた距離はこんなにも辛くて苦しい。

幾人もの小学生の壁で隔たれた向坂くんは、なんだかとても遠いもの感じてしまった。今はもう、声を掛けても気がついてもらえないような気がして、そう考え程更に悲しい気持ちが増していく。

恐る恐る擡げ俯いていた首を上げて、向坂くんを覗き見ると、彼はいつも通りの表情で窓の方をじっと眺めていた。
よくよく見ると彼の身体の向きは少し傾いていて、どうやら真ん中にある乗車ドアの窓から外を眺めているらしかった。


一体、向坂くんの目には何が映っているのだろう。


毎朝、飽きることなくじっと見つめている外の景色には、何か彼の心を引き付ける魅力的なものでもあるのだろうか。
好奇心に負けて私もそっと左手の窓へと視線を向ける。向坂くんの大切な宝物を覗いてしまうような複雑な背徳感が胸に渦巻いた。
けれどそれでも私は、更に離れてしまった向坂くんの何かを身近に感じたかったのだ。


窓枠の外は、これといって特別なものではなかった。

田舎の方から都心へ上るこのバスの景色は、ポツポツと増えていく住宅や建物に隙間を切り取られるようにして都会色に染まっていく。
アーバニティなビルや車の無機質な色味がひしめく通りまでくれば、車道も何車線か横に広がって、見下ろすと真下にズラリと並ぶビビッドカラーの車たちが鋭い太陽の光りをギラリと反射して目に痛い。

特に心惹かれるものを見つけることが出来ず、私はガクリと肩を落とした。
それだけ、私と向坂くんに見えるものはちがうということなのかもしれない。

そんな現実を受け入れたくなくて、無駄な抵抗だとわかりながらそれでもかじりつくように窓の外を見つめ続けた。けれど、やはりこれといって目に止まるものはなかった。


彼との間を厚い壁のように隔てる鮮やかな景色を、少し恨めしく思いながらぼんやり眺めていると、バスは線路下にあるアーチ型の道路に差し掛かり赤信号で動きを止めた。

薄汚れたコンクリートの天井に光を遮られて暗く染まってしまった車窓は、内側を照らす白電球の明かりを反射して、まるで鏡のように世界を淡い色合いで写り込ませる。

その瞬間、窓の向こうの半透明の世界に映る向坂くんのサップグリーンの瞳と、カチリと視線が交わった。


(え…?)


鏡の世界の向坂くんは驚いたように目を見開く。その顔を片腕で覆うように隠したかと思えば、そのまま窓枠のスクリーンからすとんとフェードアウトした。


バスが動き出して、視界が再び光を浴びた鮮やかな街の姿に戻る。瞬間、夢から覚めたようにハッとさせられた。つき動かされるようにしてバスの真ん中へと視線を向けると、ちびっ子たちよりも頭二つ分くらい突き出ていたダークグレーの頭が、その波の中に紛れるように隠されている。
けれどピョコンと立ち上がる、猫の耳みたいな形のくせ毛がバスが揺れる度にゆらゆらと揺られていて、狭い隙間に入り込んだ子猫を連想させてほほえましく思った。


ねえ、いつも、そこから何を見ているの?


ちょっとだけ期待を込めて、バスを降りたら意地悪な質問を投げ掛けよう。

そんな風に思いを馳せながら、私はもう一度透き通るくらいの青色が広がる外の景色を覗き込んだ。


【バスで広がる恋模様】:向坂

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