真冬の冷たい風が頬の横を吹き抜けた。
厚みのある紺色のピーコートに身をくるみながら、それでもさらけ出されてしまう肌はピリピリとささくれたように痛む。
小さな氷の粒が不規則に叩き付けられるみたいだった。
今朝、お姉さんがテレビ越しでにこやかに伝えた予報によれば、今日の気温は1月下旬並とのことらしい。
そんな曖昧な情報を、あんなに穏やかに伝えられたらこんなに厳しい天気だなんて想像出来ないじゃない。と、あまりの冷え込みに人知れず溜まったやり場のない鬱憤を頭の中で八つ当たる。
青みのかかった濃いグレーの重い雲はすぐそこまで迫ってきていて、手を伸ばせば届きそうな程に空が近かった。
太陽はぶ厚い雲の壁に覆い隠せられながらも微々たる光はすき間からこぼれ落ちてきて、細い住宅街の家々はうっすらと明るい。けれど、それでも白っぽくぼんやりとした淡い霧に景色の輪郭は霞んで見える。
ため息を零しゆっくり息を吸い込むと、鼻にツンと突き刺すような痺れが走った。咄嗟にマフラーの下へと鼻まで顔を引っ込める。
毛糸編みの柔らかな手袋で鼻を覆いながら長く息を吐き出して見たりと必死に暖める努力を為してみるが、なかなか鋭い痺れは引いてくれそうにない。少し、かき氷で頭がキンとする感覚に似ているかも、とぼんやり思った。
早く教室にたどり着こう。きっとこの時間なら最初に登校した日直のクラスメートなんかが既にストーブを付けていて、ポカポカに温まっているはずだ。
ローファー越しに凍ったアスファルトの冷たさを感じながら、固まったみたいに動きの鈍くなった足に葛を入れた。
薄い白ソックスと黒い革一枚で守られたつま先は身体のどこよりも冷えきっていて、自分の指とは思えない程に凝り固まっており、上手く足裏を支えるバランスが取れない。氷の小さな柱に突き刺されているみたいな痺れが、地面に足が着く度に不快感を響かせる。
少し歩幅を大きくしようと思ったそのとき突然つるりとローファーがアスファルトをスライディングして、勢いよく尻餅を着いてしまった。
間近で見るアスファルトはやはり薄く氷が張り付いているらしく、細かい石の欠け目に合わせて小さくキラキラと光を反射した。
無防備なお尻からダイレクトに氷の冷たさを感じて、飛び上がりたい気持ちは山々だったが、ジンジンと響き渡るあまりの痛みにそれは出来そうもなく、しばらくそこに座り込む嵌めになった。
「うっわ、鈍臭いなあ。」
突然響いた声に驚き勢いよく空を見上げると、隣の席でクラスメートの狩屋が小憎たらしい顔でこちらを見下ろしていた。
小柄な身体を膝上まである濃いグレーのダッフルコートで包んでいて、背中に広がる重たい雲にぼんやりと溶け込んで見える。
ああ、最悪だ。
「立たないのかよ?結構惨めな図だけど?」
「うるさいなあ…」
事実返す言葉もないが、それではあまりにも悔しいのでキッと鋭く睨みつける。けれど狩屋にそれを気にする様子は露程もなく、ぷ、と吹き出したかと思えばケタケタとお腹を抱えて笑い転げていた。
本当に最低な奴である。
その大きな目をキョルキョルと真ん丸くして、まるで子犬のように可愛らしくクラスメートたちに振る舞う彼は、転校してきて結構早々にその作り物の上面をベリベリと引きはがして獰猛な本性を現わにしてきた。たまたま座席が近所の私にだけ。
実質一匹狼が性分であるらしいこいつは、羊の皮を被った狼。まさに狼少年。
童話同様、こいつもいつか痛い目見ればいいと以前から度々思っている。
「はあ、笑った。じゃあな俺忙しいから」
一通り笑ったかと思えば、ひらひら手を振りまるで何事もなかったかのように狩屋は私の横を通り抜けようとした。
視界を横切りかけた長いコートの裾を、遠慮無くわし掴み渾身の力で引っ張る。ぐえ、と衿ぐりでも狭まって苦しかったのかカエルを潰したような濁った音が小さく響いた。ざまあみろ。
「最低、人で無し!あんた人が困ってんの目に入らないの?」
「ちょ、離せよ、俺まで可哀相に見られたらどうすんだよ」
「可哀相って何よ!」
「うるさいなあ、そんなに元気なら早く立てばいいだろ」
「出来ないからこうなってんのよばか!」
途端、狩屋は綺麗な琥珀色の目を丸くしながらきょとんとした表情を浮かべた。小首まで傾げて、憎たらしいくらいに可愛らしい。こいつのかわいこぶりは完全に板についている。
「どういう意味?」
「…腰ぬけたのよ」
ブッと吹き出す音が聞こえたかと思えば、再び狩屋はお腹を抱えて笑い転げた。
どうやらツボに入ったらしく、時折ヒーヒーと荒く掠れた呼吸の音も混じっている。喋ることすら出来ないようだった。
悪意がない分、先ほどよりもタチが悪いと思う。
「はー…腹痛い。ほんと、朝からセンスあるよお前」
「…それはどうも」
人の失態を指差して笑ってくるような奴にヘルプを求めるのも癪なので、もう一度自力で腰をあげようと腕に力を込める。けれど、やはりうまく腰に力が入らず無意味に終わってしまった。
そろそろ氷に晒されているお尻が麻痺し始めていて、冷たさすら感じなくなってきている。
悪あがきを諦めて、どうしたものかと俯きため息を零すと、目の前に少し赤みを帯びた白い手の平が差し出された。
その腕を視線で辿るように見上げると、口をへの字に曲げた狩屋が顔だけをそっぽに向けている。
嫌そうな不服そうな、けれどそうでもないような。なんだか色んな気持ちをごちゃごちゃに混ぜ合わせて、結果的にどれにもなれなかったみたいな、形容しがたい表情を浮かべている。無愛想を繕っているけれど、心なしか恥じているようにもみえた。
「早くしてくんない、寒いんだけど。」
狩屋に悪態を吐かれる。どうやら手を貸してくれるつもりらしい。では遠慮なく、と、その手を右手でぎゅっと握る。
登校中ずっとコートのポケットに突っ込まれていたらしい左手は今は無防備に寒気に晒されていて、すっかり薄紅に染まっている。
掴んだ手の平は、びっくりするくらい熱かった。
「うわっ冷たっ」
「でしょ。ありがと、助かったわ」
スカートをもう片方の手でパンパンと払うと、スカイブルーのプリーツはカピカピに固まっていて、変な形にシワが付いていた。自業自得とはいえ、少し顔をしかめてしまう。
「貸し1だからな」
「ちょっと嘘でしょ?ちっさ、あんた器小さすぎる信じらんない」
「は?お前何様だよ。そんな無条件で手貸してもらえる程の人間だとでも思ってんの?感謝しろよ」
ぎゃあぎゃあとくだらない言い合いを繰り返しながら、けれど何故か繋がれたままの右手を意識してしまって私は気が気でなかった。
狩屋は話しているうちに忘れてしまって、気がついていないのだろうか。彼はスタスタと何事もないかのように白くぼやけた通学路を進んでいく。
少し大きな彼の歩幅に、ちょっと足が縺れそうになった。
男の子と手を繋ぐのなんか小さい頃を除けば初めてのことで、私はやっぱり小恥ずかくてどうにも落ち着くことが出来ない。
だからそっと繋いだ手を解こうと思って力を緩めると、ギュッと狩屋が力をこめてきて再び暖かい体温に閉じ込められた。
狩屋は、気がついている?
「ねえ狩屋、手…」
「お前の手、冷たすぎて心配になるんだよ」
「え、えっと」
「…嫌?」
「嫌、じゃない」
じゃあいいじゃん、こちらを振り返ってそう呟く狩屋は余裕がないのか不機嫌そうな表情を浮かべていた。
けれど寒さのせいか頬は可愛らしく桃色に染まっていて、そんな顔には少しミスマッチでなんだかおかしかった。
きっと、私も彼と同じ色に染まっている。冷気に晒されている筈の頬はとても熱い。
このまま真っすぐに大通りを抜ければ雷門中はすぐそこだ。
この手はどこまで繋がれているのだろう。校門、教室の前か、それとも信号機が青に変わったら?
ところで狩屋は、私のことが好きなのだろうか?
疑問はとめどなく浮かぶばかりだ。
けれどそんなことを聞くのは野暮なことに思われて、私はふわふわと浮かぶ疑問の全てをそのままお腹へ飲み込んだ。
それよりも今は、この暖かな温もりを感じていたいと思った。
どちらの熱かわからない位馴染んでしまった二人の温度はなんだかとてもくすぐったい。そんな気持ちを隠すように、私は繋いだ右手にそっと力をこめた。
5000企画
【冬の話】:狩屋
20120528