自宅の二階、扉の手前で振り向いてみると後ろに拓人はいなかった。
薄暗くぼんやりとした廊下の先からは、楽しげな母と少し大人びた拓人の声がぽわんと響いて聞こえて来る。
何度かうちへ連れてきて以来、拓人はうちのアイドルと化して居たので、母は相当喜んでいるに違いない。
現に、まるで女子高生のように高くてキャピキャピとした明るい声が聞こえて来る。
階段の下から漏れ出してくるオレンジ色の光は、濃くグレーで塗り潰したみたいな廊下からは別世界のようだった。

そんな光景をさらりと流し見ながら、私はひとり自室へと足を進める。

参考書で腫れ上がり鉛みたいに重たくなっていた鞄をカーペットの上へ放ると、私は全てを投げ捨てるようにベッドへ身を預けた。
なんだか、今日はとても疲れてしまった。
朝ぶりの休息時間である。
ふかふかと柔らかい布団は身体を抱き留め包んでくれるようで、安心感からか意識がぼんやりとしてくる。
疲れや苛立ちに似た、ぐちゃぐちゃと濁り一日中身体を駆け巡っていた何かが、全身から滲み出て吸い取られていくようだった。

そのまま遠退く意識に身を預けて瞼を落とすと、遠くの方でガチャリと小気味良く鍵の外れた音がする。

近づいて来る足音をうっすらと聞きながらそのまま眠りに落ちそうになると、ふわりと身体に毛布の重みが掛かった。そのまま優しく髪の毛を梳かれる。

そこで、半分意識が戻った。


「…、拓人」

「あれ、起きてたんですか」

「…寝、てない…わよ」

「でも、眠そうですよ」


ほら、手も熱い。そう言ってやんわりと左手を優しく包まれるが、うっとうしく思った私はすぐにその手を払ってしまった。
少しだけ、拓人はさみしそうな顔をしたが、すぐにふわりとやわらかい笑みを浮かべる。
なんだかそれがしゃくに触り、私はむくりと起き上がった。


「寝ていて大丈夫ですよ、先輩」

「人前で、そういうわけにいかないでしょ」

「でも」

「そう思うならさっさと用事済ませて帰って」


棘のある言い方だった。自分の身体から自分の知らないキツイ声が出たことに素直に驚いてしまう。

そのまま言葉を無くして俯いていると、拓人は部屋のまんなかにある小さな丸テーブルから何かを手に取った。
そのままそれを私の手に包ませる。あたたかい。

すこし大きめのそれは、私のマグカップだった。
まだ湯気が立っていて、手の中に熱が伝わって来る。

あたたかさに、何かがじわりと溶かされるみたいだった。
甘い匂いが部屋の中を満たしている。


「そのココア、おいしいんですよ」


その言葉で、これが拓人の手土産であることが分かった。火傷をしないように恐る恐る口に含むと、確かに香りも風味も濃くておいしい。
ぼんやりと、拓人の色だと思った。

ふと、帰り道に見た拓人の白い袋が頭を過ぎる。
今なら言える気がすると、はっきり思った。


「ねえ拓人。帰りに持ってた袋、なに?」


慎重に、言い方に気をつけて言葉をこぼす。今度はきつくならなかったことに安堵し、思わず小さな吐息を落とした。
私と同じようにココアを啜っていた拓人が、たった今思い出したという風に慌てて壁に立て掛けた白い袋に手を伸ばした。

ベッドに腰掛けながらその袋を上から覗き込む。袋の口を開く久しぶりに見た拓人の細い指に、少しだけ胸が波打った。


中は、小さなおもちゃ箱みたいだった。


少し大きなうさぎのぬいぐるみ、ラベンダーの匂いがするアイピロー、アロマオイル、キャンドル、それにたくさんのカラフルなチョコレート。

テーブルの上に広がったかわいらしいアイテムの数々に、思わず首を傾げる。
意図がよく、わからない。


「拓人。これ、なに?」

「先輩が喜ぶかなと思ったので」

「たしかにうれしいけど…」

「なら、笑ってください。」


拓人が珍しく聞き慣れない強い声をだしたので、思わず顔をあげる。
まっすぐ見つめて来る茶色の大きな目は凛々しくて、サッカーをしているときみたいに真剣なものだった。


「先輩に笑って欲しくて買ったんです。だから、笑ってください。」


にこりと、目を細めて拓人はやさしく微笑んだ。
思わず私は拓人に背を向けて、壁と向かい合わせの形になる。とっさに口も両手で覆った。

拓人は普段、あまり買い物なんてしないのだ。
つまりそれは、そういうことだった。

慣れない雑誌に目を通しながら、たくさんの女の子が溢れるショップにドギマギと足を運ぶ拓人がくっきりと頭に浮かんでしまう。
私の頭の中でしかないのに、それはなんだか現実味を帯びていた。
思わず笑いが込み上げる。けれど一緒に嗚咽まで零れてしまいそうで、結局どちらも私の中で蟠ったままだ。

本当は、ずっとさみしかった。

日が短くなるのと比例するように学校に居る時間も減って、会える回数も減っていって。
変わっていく生活サイクルと今までどおりの毎日を送る拓人。
変化をしているのは私な筈なのに、なぜだか置いていかれたような気持ちになっていた。

会えない不安も、不満も、嫉妬も、全部受験のせいにして疲れだと思い込ませた。
自分だけが拓人のことを考えているのが悔しかった。フェアじゃないと思った。

けれど本当は、私が1番拓人のことを考えていなかった。
私が気に掛けていたのは、いつでも自分自身だったのだ。

なんて弱くて、ひとりよがりなんだろう。
恥ずかしい。情けない。

瞳の縁にたまる涙に気づかれないように強く目を閉じてみる。
するといきなり、腕を強く引かれた。

視界が、ふわふわのグレーブラウンでいっぱいになる。
慌てて身をよじると、さらに強い力で腕の中へ閉じ込められた。


「た、拓人…」

「ごめんなさい、先輩」


なにもしてあげられなくて、ごめんなさい。
言葉が出てこなくて、とっさに首を何度も横に振った。


「私こそ、拓人のこと何も考えてあげてなくて、ごめんね」

「いいんですよ、先輩は受験生なんですから。
俺のことなんて4番目でも5番目でもいいんです。」


でも、受験が終わったら俺を1番にしてくださいね。そう柔らかく笑う拓人があまりにあたたかくて、思わず涙がぼろぼろと落ちてきた。
小さな子にするみたいに、優しく頭を撫でられる。
おずおずと腕を伸ばすと、私と同じくらいな大きさなのに、拓人の背中は意外と広かった。


「大丈夫、先輩はこんなに頑張ってるんですから。
みんなわかってます。
それはちゃんと形になります。
だから、絶対に大丈夫です。」


ふわふわのココア色からは甘い匂いはしなかった。
変わりに、拓人の優しい匂いがした。なんでか、とてもあたたかい。

根拠のない大丈夫であるのはわかっている。
けれど、なんでか本当に大丈夫になれた気がした。

うん、きっと大丈夫だ。
小さくつぶやいて、私はもう一度暖かな腕のなかでゆっくりと呼吸をした。



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