(一乃、だ)
吹き抜けを跨いで、ひとつ向こう側の廊下に一乃が立っている。
向かい合うこちら側の廊下からははっきりと彼の姿が視界に写るが、吹き抜けの上から射す西日が強いせいか、はたまた彼がにらめっこしているケータイの画面に気を取られているせいか、向こうはこちらには気づきそうもない。
(気づく、かな…)
風通しの為に開いていた大きな窓枠に肘を付き、そのまま体重を壁へと預けて一乃を見つめてみる。
大きな声で言葉を掛ければ、きっとこちらを振り向いてくれるだろう。
けれど、私はあえて、それをしない。
ひとつ、私は私と小さな賭けをした。
もし一乃が廊下を去るまでにこちらに気がづかなければ、すっぱり彼との関係は諦めよう、と。
私と一乃は、中一のときのクラスメートだった。
二回目の席替え辺りから席が近くなり、お互いサッカーが好きなこともあっていつの間にやら会話も増えていき、気がつけば自然と仲良くなっていた。
けれどなんとも不思議なもので、学年がひとつ上がり、クラスが変わると回りの世界何もかも変わってしまう。
元々クラスでお喋りをしたり、稀にメールをするくらいの、所詮ちょっぴり仲の良い友達程度であった私たちは、二年生に上がった頃から会話をすることもなくなった。
たまに廊下で鉢合わせると、どのような態度を取っていいのかもわからなくなってしまっていた。
ぐるぐると思考をめぐらせてみるも、結局は声も発さず、すれ違い様に俯きながら小さく手を振る程度で終わってしまう。
もう何も、私は一乃を知らなかった。
私の中の一乃は、中一の姿で止まったままだったのだ。
いつだったかふと小耳に挟んだ噂に寄ると、一乃はサッカー部を辞めたらしい。
それだけが、少し背の高くなった、私の中の中学二年生の一乃の全てだった。
本当のことをいえば、そのことは少しショックだった。
一乃がだいすきだったサッカーを辞めてしまったこと、ではなくて、私の知っている一乃がまたひとつ消えてしまったように思えたから。
そんな風に、自分のことしか考えられない私だから、あんなにも無神経なメールを送ってしまったのかもしれない。
(サッカー部、辞めちゃったの?)
そんな解りきったこと、本当に確認を取りかった訳ではない。
ただ、一乃との、今の一乃との繋がりが欲しかった。
たったそれだけの、内容には一切重みのない、それだけのメールだった。
結局、一乃からの返信はなかった。
*:*:*
難しい顔をしたままケータイを見つめる一乃を、窓から差し込む夕日が朱色に染め上げている。
一乃のキラキラと艶のあるシルバーの髪はどんな色でも吸い込んで、いつでも綺麗な色を咲かせていた。
夕日色も、よく似合っている。
最近の一乃は、いつの間にかまたやさしく穏やかに笑うようになっていた。
誰からだったか、またも小耳に挟んだ噂話に寄ると、どうやらサッカー部に復帰をした様子らしかった。
嬉しい半面、切ない気持ちも競り上がって来る。
また、私の知らない一乃がひとつ増えてしまった。
廊下や教室には、段ボールの端くれや紙切れ、ペンキのアルミ缶などがちらほらと落ちている。
小さく、どの教室からもおしゃべりの声が漏れていて、文化祭の準備に取り掛かっているようだった。そういえば、そんな日も近い。
一年前に、来年は一緒に回ろうよ、と軽い口約束をしたことがぼんやりと思い出される。
一乃は、覚えているだろうか。
そこまで考え、ふっと笑う。覚えているわけないだろうに。実際、話を持ち掛けた私でさえ今の今まで忘れていたのだ。
あんな軽い会話ですら、こんなにも大事なものになってしまうだなんて。なんて、おかしい。
それじゃあまるで、私が、
いままで立ち止まっていた一乃が、突然歩き始めた。
耳には、彼の折りたたみ式のケータイが当てられている。
照り付ける西日のせいか、頬がほんのりと色づいて見えた。
そのまま、彼は窓枠の端から消えてしまった。
何のいたずらだろうか、なぜだか私のスカートのポケットの中が振動して、着信を伝えて来る。
期待、してしまっていいのだろうか。
私は恐る恐る、ポケットへと手を伸ばした。
110908