スラッという微かな音を立てながら、私は自室の扉である襖を塞がっていない方の手で優しくスライドさせる。

向かい側にある全面の荘司は開き切っており、その奥で広がる庭に生えた植物の若い緑が視界を彩った。

夏の日差しが照り付けている外の世界はキラキラと眩しくて、なんだか部屋の中がいっそう暗いところに見えてしまう。
思わず目を細めていると、サワサワと草が揺すられる音が耳をくすぐってきた。少し遅れて部屋に流れ込んできた夏の風は部屋を潜り抜けて、全面に敷かれた畳みの香も一緒に運んでくる。

部屋の真ん中にちょこんと置かれたミスマッチなピンク色の折り畳み式テーブルの上には、英語の冊子と電子辞書が無造作に広げられていた。けれど先ほどまでそこで頭を悩ませて居たはずの人物の姿がどこにも見当たらない。

薄暗い室内をキョロキョロと見回していると、畳と庭を繋ぐ細い縁側に横たわる人影が目に入った。


「…居た。」


私はホッと息をひとつ零して、右手に持っていたジュースとおやつの乗ったお盆をそっとテーブルの横に置く。ガラスのコップの中を漂う氷がカラリと涼しげな音を立てた。

そのままそっと縁側へ近づいて行く。見ると、ノースリーブのシャツからさらけ出さた褐色の肩は小さく上下していた。
手元には、いつも彼が髪を上げるのに使うゴーグルが握られている。やっぱり、眠るのには邪魔になってしまうのだろうか。


「…宿題、ヤバいんじゃなかったの」


ちゃんと勉強する、と言うから部屋を貸してあげたと言うのに、全く。
どうやら故意のお昼寝であるらしいということに気がつき、呆れて溜め息が零れてしまった。
そんな私を余所に、彼、海士くんはスヤスヤと気持ち良さそうに寝息を上げている。

幸せそうな彼の寝顔をぼんやりと眺めながら、所々塗装の剥げた焦げ茶色の床に腰を下ろす。
その拍子にミシリと古びた板の軋む音が縁側に響き渡り、大袈裟なくらいに心臓が跳ね上がった。先ほどよりも神経を張ってそうっと両膝を抱え込む。

そんなことにまるで気づく様子のない海士くんは、柔らかく無垢な表情を携えたまま幸せそうにゆっくりと眠り続けている。まるで遊び疲れて眠るこどもの姿そのものだった。
あまりにも無防備な寝顔に自然と笑いが込み上げて来る。私は喉まで出かかった声を押さえ込むように奥歯を噛み締めて、床に投げ出された影色の髪の毛を優しく撫で付けた。


***


海士くんは夏休みになると必ずうちへやって来る。

じいちゃんばあちゃんの住むこの家は、古びた昔ながらの木造の平家で、近くには海があり、山がある。
毎年お盆とお正月には親戚一同が集まって、ちゃぶ台や短い足のテーブルを細長く並べた客間に溢れるほどの料理とお酒を満たして、それを囲んで盛大に祝う。
お祭り事の大好きなうちらしい習慣だった。

遠い東京に住む海士くんたち家族は夏休みにだけこの家にやってくる。

海士くんは不思議な子だった。

この田舎町に住んでいる私なんかよりもたくさん、この町の楽しみ方を知っていた。

釣り、川遊び、山での野ウサギ探しや木のみ狩り、野良猫を追い掛けて集会場を突き止めたりなんかもした。

その度に彼はよく笑った。
私も釣られてよく笑った。

それと、海士くんは誰にでもよく話掛けた。
道行くおばあちゃん、空地で遊ぶ知らない小学生たち、漁師のおじさん、商店のおばさん。
みんなが皆、屈託なく彼に笑い掛ける。
海士くんの笑顔は、みんなの笑顔を咲かせていた。

彼の後ろにひっつきながら、私はよくそれを魔法みたいだと思った。

夏休みが終わる頃には、私の友達の数は二倍にも三倍にもなっていた気がする。そのくらい、私の世界は変わっていた。

大嫌いだったこの田舎町も、海士くんが居ると景色は違うものに見えた。なんだかとても楽しくて、キラキラとしたものに変えられていく。彼の魔法を1番掛けられていたのは、実は私だったのかも知れない。


***


部屋の中を柔らかい風が吹き抜ける。
テーブルに放られたままの薄い冊子はページがめくれてカサカサと音を立てていた。

もう8月も後半に差し掛かる。
ギリギリまで宿題に手を付けないタイプの海士くんが英語、なんて普段口にもしない単語を持ち出すと言うことは、つまりそういうことなのだった。
彼が居なくなるのも、もうそう遠くないのだろう。

小さな頃から、海士くんがこの町から居なくなるときは悲しくて悲しくて仕方なかった。
だから私はこの時期になるとわんわんと泣き喚き、酷いときは彼の靴やカバンを隠したりもした。

その度に、海士くんは怒ることもなく私の頭をくしゃくしゃに撫でる。


「大丈夫だってー、また来るからさ。」


決まって彼はやさしく笑いながら、また来る、と約束をした。
そう言われる毎に私の心はぎゅっと握られるみたいに締め付けられる。けれどすぐに、平な水面のような穏やかな気持ちになれた。


泣きながら私はいつも不思議に感じていた。
なんで海士くんが帰ることはこんなに悲しいのだろう、と。

彼の魔法が解けて、元の打ち解けられない町の姿に戻ることが怖かったのか、寂しさからなのか、もしくは他の何かなのか。結局いつまでもよくわからないままだった。


そして今も、そんな寂しくて悲しい気持ちが私の中を渦巻いている。
なんだか、テーブルに乗った彼の宿題を隠してしまいたい衝動に駆られた。

けれど少し大きくなった私は知っている。
英語の宿題なんかを無くしたところで、彼が帰らなくなることなんてないのだと。


「…ずっと、此処に居ればいいのに」


無意識にポツリと呟くと、日に焼けて少し赤くなった肩がぴくりと揺れた。
驚いて腰の辺りを突いてみると、「ちょ、やめてやめて」と海士くんは両手を上げて降参のポーズを取った。


「寝たふりなんて、ずるい。」

「ごめんごめん、美奈子が面白くてついなー」


楽しげにニコニコと笑う海士くんは全然反省なんてしている様子でない。
けれどなんだかおかしくなってきて、釣られて私も少し笑ってしまった。


「んー、やっぱずっとは無理かなー」


突然海士くんが話題を戻したのでドキリと心臓が跳ね上がった。いやに鼓動が激しくて、ぐるぐると胃の辺りが気持ち悪くなってくる。

それでもジッと、強張った表情のまま彼を見つめていると、海士くんはへらりと緩く笑った。


「でも大丈夫、また来るからさー」


よっ、と体制を俯せに変えた彼は床に頬杖を付くようにして、私を見上げて来る。


「だって俺、この町大好きだもん。」


この町、が私の名前になればいいのに。
ぼんやりとそんなことを考えた自分にハッと気がつき、驚いた。
困惑が頭の中を巡って、けれど結局ひとつの答えにたどり着く。

そうか、だから、こんなにも。

この寂しさの原因に気がついた瞬間、なんだかポカポカとした気持ちが滲んできて胸の中が暖かい。
それがとても恥ずかしくて、私は照れ隠しの為に海士くんの墨色の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。

少し湿った髪の毛からは、微かに潮の匂いが漂う。
夏の匂いだ、そう思った。


「ちょい、それ俺の役目だぞー」


すぐさま起き上がった海士くんは、仕返しとばかりにくしゃくしゃと私の頭を撫で回す。
私の髪からも、夏の匂いが漂った。

まだ、キラキラと外を照らし付ける熱は収まりそうもない。


【夏の魔法使い】:浜野
110905



「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -