時計の長針が振り出しに戻ったことを告げるメロディが部屋中に響き渡った。
毎週楽しみにしている連続ドラマも二本続けて見終わってしまい、ため息をついてカーテンを開ける。
高層マンションの、最上階に設けられているこの部屋から見える町の景色はすべてがオモチャみたいでかわいらしい。小さなジオラマのようだ。
暗闇の中を、星屑みたいな無数の光がチカチカと彩っていて、窓枠に切り取られた世界はいつみても美しかった。
しかし、数時間前と比べてみると、いくらか光の数は減っているように思う。さらりと見るかぎり半分くらいだろうか。窓から漏れる小さな明かりは少しずつ姿を消していく。なんだかこの部屋ごと町から置いて行かれているような気分になった。
薄い藍色のカーテンを両手で引き寄せ、再び時計を確認する。
短い針から逃げるように、長い針は着々と文字盤の上を進んでいく。
くるくる、くるくる。
本日この追いかけっこを何度見ただろうか、そう思うとため息がもうひとつ零れた。
今夜は随分と帰りが遅い。
さすがに心配になりケータイへと手を伸ばしてみるが、開いた画面は平常時と何も変わっていなかった。着信もメールも音沙汰なし。
連絡を取りたい気持ちがじわりと広がるが、その衝動をぐっと堪えて、目を固くつむり静かにケータイを折り畳む。
彼は今、大切な仕事をこなしている。それも、私の知り得ない程大きな。
大丈夫、彼はもうすぐ帰ってくる。邪魔をしてはいけない。沸き上がる気持ちも何もかも全部ぜんぶ押し込むように、私はケータイを両手で包み込んだ。
そのままちいさく膝をかかえてうずくまっていると、玄関の方からカチャカチャという控えめな金属の擦れる音がリビングへと流れ込んできた。
とたんに私はスイッチでも入ったかのようにぱっちりと目が醒め、咄嗟に立ち上がり玄関へと急ぐ。
静かに閉じられた扉の前には、愛しい彼が立っていた。
「随分遅かったね、心配しちゃった。」
「…」
切れ長の左目を少し細めて、彼はこちらを無言のまま見つめて来る。
改めて意識した落ち着いた振る舞いの、中学生の頃の幼さを微塵も感じさせなくなった彼は、なんだか知らない人のようだった。
肩を通りすぎて背中に流れ落ちるオーロラブルーの髪の毛も、いつの間にか私を見下ろすくらいに高くなっていた身長も、スラリと伸びた体型によく似合う抑えたセルリアンブルーのスーツも。
少しずつ、けれど確かに変わった彼は、帝国の制服を纏っていた頃に滲んでいた可愛らしさをすべて捨てて、麗しさと呼ぶに相応しい要素のみを積み重ねていった。
初めて彼を見る人は、彼を綺麗だと形容するのだろうか。
もっとも、幼い日の面影を引きずってしまう位に付き合いの長い私には到底解り得ない思考なのだけれど。
そのまま夕日色をした瞳を少し伏せて、彼は先の尖った革靴を玄関に脱ぎ捨てる。
そして淡い茶色の床に素足を下ろした瞬間、
彼はその場に崩れ落ちた。
「だ、大丈夫?!次郎…?!」
「………つ…」
「つ?」
つっかれたあぁぁとため息を器用にも同時に零しながら、半ば語尾が音にもなっていない息を長く吐き出した。なんだか魂まで出ていそうな空気の吐き出し方だった。
「お疲れさま、次郎。」
「おー」
「とりあえずリビング行こうよ、ここじゃ冷えるし余計疲れちゃうでしょ?」
そう提案してみるも「今は動きたくない」の一点張りで、次郎は駄々をこねて動こうとしない。
呆れて背中をペチペチと軽く叩いて促してみるも、ぎゅっと優しく手首を捕らえられてしまった。そのまま引き寄せられ、ぎゅっと抱きしめられる。
「ちょっと、次郎…。」
「ごめん、少しこのままで居させてくれ。」
甘えるように首筋に顔を埋められて、抵抗も出来なくなってしまった。
髪の毛の匂いを嗅ぐようにゆっくりと呼吸をされるのが恥ずかしくて、少し皺の寄ったスーツの背に腕を回しながら、照れ隠しがてらたわいもない話を彼へ振る。
「あ、そうだ今日ね、7時くらいに源田くん来たよ。」
「げ、何しに来たのあいつ」
「げ、って…出張先の特産品いっぱい買ってきてくれたんだよ。おいしそうなおみやげ。」
「あいつ出張行く度、うちに旅行並に食い物買ってくるよな」
「ね、いつも悪いよね。今度何かお返ししなきゃ」
「いいよ、あいつ人に物やるの好きなだけだから有り難く受け取っとけ受け取っとけ。」
「さすがにそういう訳には…」
手をひらひらと揺らしながら次郎は面倒臭そうに零す。今度出かけた時にお菓子の詰め合わせでも買ってこようとぼんやり決意した。
「にしても源田、毎回おかずとかつまみとか、麺類とかそんなのばっか買ってくるよな。どうせ今回もそうだろ?あれあいつの好みか…?」
「あ、源田くん『佐久間は疲れると布団に倒れて何もしなくなるから、無理やりにでも何か食べさせてやってくれ』っていつも心配して食べ物買ってきてくれてるよ。」
「あいつは俺のお袋か何かかよ…」
苦笑いを浮かべながら、次郎は口の端を小さく引き攣らせる。けれど隠れていない夕日色の瞳は懐かしむようにゆらゆらと揺れていて、その表情はどこかうれしそうだった。
私の昔から知っている、どこか幼い面影が滲んでいる。
「ほら、せっかくもらったからお蕎麦茹でたんだよ。どうせ何も食べてきてないんでしょ?」
温めたいから移動しよう?ともう一度促すと、「仕方ないな」と零しながら彼は私の手を引いてゆっくりと立ち上がる。
包み込む手の平が大きくて、少しくすぐったい気持ちになった。
「あ、そうだ、次郎。」
「なんだ?」
「おかえりなさい。」
「…ん、ただいま。」
ニッと片目を細めながら大人びて次郎は笑う。けれどどこか悪戯っぽい幼さをにじませるそれは、私のよく知っている次郎の顔だった。
玄関の扉をくぐるとまるで別の人みたいに振る舞う彼も、再び肩の力を抜けば大人の仮面を解いて変わらない面影を滲ませる。まるで魔法を解いたみたいに。
愛おしい彼の背中に寄り添うようにして、私たちは玄関を後にした。
【魔法のとびら】:佐久間
110901