たらり。


小さな砂の粒がまぶされた膝から鮮やかな赤がこぼれ落ちた。

じわじわ、たらり。

黒い粒々とささくれた肌の間を徐々に血が滲んでいく様は、我ながらずいぶんと痛々しい。

むくりと上半身だけ起き上がると、咄嗟に着いた両手の平と避けることが出来なかった右膝が焼けたみたいにひりひりとしていて、そこだけ何だか妙に熱かった。

大丈夫?!と、たまたま近くに立っていた友達が、肩を支えて体育着に降りかかった砂埃を軽く払い落としくれる。
体育のサッカーの授業中いきなり盛大にすっ転んだ姿は校庭中の注目を集めてしまったらしく、クラスの女の子たちは緩やかに行っていた試合を中断してパタパタとこちらへ駆け寄ってきてくれた。

大丈夫?大丈夫?
口々にみんなそう零しながら、あっという間に私中心に大きなわっかが出来てしまった。外側から見たら、ちっちゃな子の遊びに見えそうだ。
心配そうに覗き込まれるのがだんだんと恥ずかしくなってきて、私は熱を帯びて染まった頬を隠すために軽く俯く。

「膝大丈夫…じゃないよね、すごく痛そう」

わっかの中の誰かがそう呟いて、私はもう一度自分の膝をまじまじと確認した。
じわり、じわり。擦りむいた膝から滲み出る液体は真っ赤な絵の具を溶かしたみたい。
青々とした眩しい夏の空の下をずっと走っていたからか、なんだかとても赤が見えづらくて目がちかちかとする。
うん、たしかに痛そうだ。

頭で認識したとたんぶわっと魔法でも解けたみたいに全身がぴりぴりと痛みだして、鼻の奥がツンとする。

ああ、きっとこれは朝の私への天罰だなぁ。なんてぼんやりと思った。


***


私の失敗、それは今朝の出来事。

言い訳をしてしまうみたいだけど、朝の私はとてつもなく機嫌が悪かった。

というのも、朝からなんだか理由もなく身体が怠くて、少し寝坊をしてしまった。
そしてやることなすこと妙にツイていなくて、急いで焼いた食パンは表面がすこし焦げついて、甘い苺ジャムを塗ってごまかしたけれど複雑な苦みが口に広がってあまりおいしくなかった。
こういう日に限って頑固な寝癖はぴょんとはねてしまい、ドライヤーなんかへっちゃらといった様子で結局小悪魔みたいに頭の上へ滞在しつづけている。
毎朝家を出る前に欠かさず見ているニュースの星座占いは10位で、やっぱりなぁ、なんて納得せざるを得なかった。


胸に濁った水が溜まっているみたいにもやもやとした気持ちのまま、私は家を出る。
ぴったりサイズなはずの茶色のローファーは、今日はなんだか窮屈に感じた。

私の気分と裏腹に、見上げれば透き通った空色が爽やかに広がっている。少し涼しくてカラリとした空気は呼吸をするたびに心地好くて、体の中のもやもやな気持ちも入れ替えてくれるような気がした。


まだシャッターが閉じられている商店街の交差点で、私は立ち止まりランプが青へと切り替わるのを待つ。
車の行き交う向こう側、スポーツショップのウィンドウに軽くよりかかるピンク色が見えた。
鮮やかで可愛らしい色のツインテールは、光が当たる度にキラキラとして目に眩しい。

カチリと信号の色が切り替わって車がぴたりと止まると、私は急いで彼の元へと駆け出した。

「おはよう、蘭丸くん!」

「おはよう、美奈子」

急がなくていいよ、と少し釣り目気味なエメラルドグリーンの瞳を柔らかく細めてそう言ってくれる。けれどすぐにでもたどり着きたくて、ついつい足どりは早くなってしまった。


「ごめんね、待たせちゃって…」

「気にすんなよ。5分も経ってない」


優しい蘭丸くんの言葉に胸がぽかぽかとあたたかくなってくる。染みを抜いていくみたいに、蘭丸くんの声はもやもやとした気持ちもも吸い取ってくれるみたいだった。

数ヶ月前からお付き合いしている蘭丸くんとは、毎朝こうして一緒に学校へと歩いて行くのがきまりだ。
朝練のある蘭丸くんに合わせたこの時間は普通のコと比べると随分早いけれど、部活や試合で忙しい蘭丸くんとの時間は、こうした微々たるものでも貴重でとっても大切なものだった。
毎朝、隣から覗くことの出来る整った横顔や長い睫毛に縁取られた宝石みたいな瞳を眺められるだけで、苦手な早起きもへっちゃらなくらいのご褒美になる。
この時間が、私の一日でいちばんのしあわせかもしれない。
そのくらい、私はこの時間がだいすきだった。

まだ眠ったままの商店街を歩いて行くと、大通りへとでる。

雷門町の中でもここら一帯は学校が多く立ち並んでいるところで、この大通りはそれらの学校の交差地点になっていた。
なのでここではカラフルな制服がまちまちと現れて、視界を賑やかに染めていく。

私はこの道が少し、苦手だった。

というのも、たくさんすれ違う背の高い高校生たちがちょっぴり恐いのだ。
一度だけ、昔ほんのちょっと男子校生に声を掛けられ絡まれただけなのだけれど、その出来事はしこりみたいにくっきり私の心にトラウマとして根付いてしまっている。


じわり、大通りへ足を踏み入れると恐怖に自然と肩が強張って、足の裏が地面を踏み締めていないように感覚がなくなる。
思わずぎゅっと目をつむると、やんわりとやさしく手を引かれた。
びっくりして思わず目をぱちりと開くと、それとなく道の内側へと移動させられる。
何もなかったみたいにおしゃべりを続ける蘭丸くんをみて、ああ守ってくれてるんだと気がついた。

まるでお姫様を扱うみたいに丁寧に手を引かれて、なんだか心臓がこそばゆい。
ありがとうの気持ちを込めて手を軽くきゅっと握ると、応えるように一度ぎゅっと握り返してくれた。

心臓が甘く締め付けられて、ちょっぴり苦しい。


そのまま二人でぷらんぷらんと手を繋いで歩いていると、突然ドンッと勢い良く肩がぶつかる音がして、蘭丸くんがガクンとよろけた。
慌てて振り返ってみると蘭丸くんと同じようによろけた男子高校生がこちらを睨みつけている。ギロリ、と獣みたいに鋭い目が怖くて逃げるように目線を下へと逸らせた。

「痛ぇなあ!」

気をつけろ!と舌打ちをひとつ落とすと高校生はさっさと踵を返して去って行く。朝だからか、どうやら彼も急いでいるようでそれ以上絡んでは来なかった。そのことにホッと胸を撫で下ろす。よかった、喧嘩とかにならなくて。

「乱暴だなあ」

先程の苛立ち気味の彼とは裏腹に、蘭丸くんはスローペースなまま溜め息をひとつ零してぶつかった方の肩を軽くはたいた。

「蘭丸くん大丈夫…?」

「たいしたことないさ。」

私を安心させるためなのか、ふわり、と一度笑顔をこちらへ向けてくれる。行こう、と少し先程よりも強めに手を引かれて、自然と歩く速度が早くなった。

どろり。
朝からのもやもやがまた胸の奥の方から沸いて来るみたいで、心臓のあたりがズシンと重くなる。
これは先程の高校生への恐怖心なのか、怒りなのか、私にもよくわからなかった。
蘭丸くんと一緒にいるときにこんな気持ちで居たくなくて、心を落ち着けようと二、三度ゆっくり深呼吸を繰り返す。


すると、冷静で空っぽになった頭の中へ後ろの方からの会話がくっきりとクリアに入り込んできた。

声からして、先程の高校生と、その後横切ったお友達数人のものであると思う。

「あーいてぇ。中学生マジムカつくわ」

「でもさぁ、今のコめちゃくちゃかわいくなかった?」

「思った!ピンクの方だろ?すげえレベル高いよな」

「お前そのまま絡んで連れて来ちゃえば良かったのに!」


ギャハハハハと下品な笑い声が耳からとストンと落ちて来て、頭の中で渦を巻く。

ああ、そうだ。
守られるべきなのは私じゃなくて、蘭丸くんの方ではないか。

並んだら霞んじゃう程度のどこにでもあるふつうの形をした私が、守られる意味なんてどこにもないじゃないか。

じわり、どろり。
抑えたいのに、こんな気持ちになりたくないのに胸には無彩色の濁った水がぐるぐると回りだす。気持ちが悪い。

まだ店内のライトが灯っていなくて真っ暗なショーウインドウに並んだ私と蘭丸くんがくっきりと写る。二人の釣り合わないちぐはぐを今更ながらに自覚して、心が鉛みたいに重たくなった。

ぴたりと、足が止まった。

蘭丸くんが不思議そうに、宝石みたいなエメラルドグリーンの瞳をこちらへ向けて来る。だいすきなその瞳も、なんだか今は見ていられない。

「どうした?」

「ごめんね、私忘れ物しちゃったみたい。一回取りに帰るね、だから先に行ってて。」

にこり、なんだかうまく笑えなくてぎこちなくなってしまったように思うが、それでも精一杯の笑顔を顔に貼付ける。
けれどやっぱり上手に出来ていなかったのか、蘭丸くんは心配そうに顔を覗き込んできた。

「何か様子変じゃないか?具合悪い?」

「そんなことないよ。」

「そんなことある」

やっぱり変だ。そう零しながら宝石みたいな瞳を瞬かせて、私をまっすぐ見つめて来る。
だいすきでだいすきで仕方ない蘭丸くんの絹糸みたいに艶やかな髪も、乳白色の滑らかな肌も、形のいい唇も、全部ぜんぶ今は私の劣等感を煽る材料にしかならなかった。

お腹にまで到達してきた黒い気持ちに気がついて、私は慌てて踵を返し後ろへ走り出そうとする。
けれど咄嗟に腕を捕まれてしまい、それも叶わなかった。

「…、離してっ。」

「嫌だ。」

必死で腕を引いてみたが、意外にも蘭丸くんの力は強くて抜け出すことができない。

焦った私は胸に溜まった黒い濁り吐き出すように、感情に任せて言葉を吐き出す。

「蘭丸くんの隣、歩きたくないの」

ぴくり、と私の腕に触れている指先が少し震えた。

歯止めの効かなくなった感情はそのままするりするりと言葉になって流れ出てくる。


「だって蘭丸くん、女の子みたいなんだもん」


そこまで口にして、ハッとする。それは、彼がコンプレックスを抱いている、一番触れてはいけない部分ではないか。
さあっと血の気が引いて、背中が凍ってしまったみたいにみるみる温度がなくなっていく。恐る恐る蘭丸くんの方へと顔を上げた。

少し俯き気味に表情を伺ってみると、いつもやわらかい笑みを浮かべているその顔は、明らかに強張って優しげな雰囲気は消えうせていた。怒っているみたいに眉間には皺が寄り、形の良い眉が上へとつりあがっているのに、それとは裏腹に瞳は傷ついたようにゆらゆらと揺れている。
口許は小さく震えながらも弧を繕っていて、なんだかとても痛々しかった。
ひとつひとつの感情がバラバラで、綺麗な顔には言葉で言い表せない複雑な表情が浮かんでいる。けれど、これが素直な今の蘭丸くんの心そのものなのだろうと、その現実が鋭い矢みたいに胸に突き刺さった。


「そっ、か。」


あんなに頑なに離れなかった華奢な指はいとも簡単に解かれて、そのまま何も言わずに踵を返し蘭丸くんは雷門中へと走って行ってしまう。

追いかけなきゃ、ちがうんだと言わなきゃ、ごめんねと謝らなきゃ。
そう思うのに、足はコンクリートに張り付いて固まってしまったみたいにそこからどうしても動かない。

みるみる小さくなっていくピンク色の後ろ姿を呆然と眺めていると、瞼が熱を帯びてどんどんと重たくなってくる。
泣きたいのは理不尽に八つ当たりをされて、無慈悲にもコンプレックスをえぐられた蘭丸くんの方であるはずなのに。

はっとして前を見てみるが、うすくぼやけた視界のどこにも、もう鮮やかなピンク色は見当たらない。何をしているんだろう。私はどうしようもない後悔の渦に飲み込まれて、矛盾だらけの感情を押さえ込むようにその場でうずくまり、涙を抑えるために小さく唇を噛み締めた。






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