4時限目の終わりを告げるチャイム音が校内中に鳴り響いた。

バレーボールの授業で体育館に居た私は、汗だくのジャージ姿のまま急いで廊下へと駆け出していく。


私がろくに着替えもせずこんなにも必死になって走っているのは、言わずもがな南沢先輩のせいである。


まさか体育の授業の日に限って、購買で大人気のプリンの買い出しをせがまれるだなんて。しかも二個も。
最初にメールを見たときは目を疑った。どんだけ毎日甘いもの食べる気だよあの人、と文句ばかりがとめどなく頭に浮かんで来る。しかし、拒否権などない私はしぶしぶ了承せざるを得なかった。


体育館も購買も同じ一階にあるので、ラッキーなことに教室から走るよりも随分と早く到着することが出来た。
ガラリとしている見慣れない姿の購買スペース。初めての一番乗りに、思わず拍子抜けしてしまう。

前後左右きちんと並べられたパンやお弁当たちは、隙間なくびっしりとトレーの中に埋め尽くされていた。
毎日人が溢れかえっていて熱気の充満している購買は、現在生徒は私ひとりしかおらず、冷風が吹いていてとても涼しい。体育後の身体には少し寒いくらいだった。


あっさりと見つけることが出来たプリンを二つほど手に取り、購買のおばちゃんの方へと向かっていく。
いつも威勢のいい声を張り上げて、元気にお弁当を売っているおばちゃんたちはまだスイッチが入っていないようで、虚ろに手元の辺りをみつめている。どうやらこちらに気づいていないらしい。

「あの…」と控えめに声を掛けると、ハッとしたように顔をあげて「ごめんねごめんね、おばちゃんぼおっとしてたわ〜、二つで240円ね!」とニコニコといつもの笑顔を向けてくれる。

これからあれだけの人にもみくちゃにされてしまうのか、とこの後からのおばちゃんたちの苦労を頭に浮かべて「いつもありがとうございます、あの、がんばってください」と思わず激励の言葉を掛けた。

一瞬驚いたような顔をした会計のおばちゃんは、すぐにふっと満面の笑顔を浮かべて「やさしい子だねぇ。これオマケしちゃう。内緒よ?」と、エプロンのポケットから取り出した飴を一粒、私の手の平に握らせてくれた。

私はもう一度お礼を言い、購買を背にして廊下へと小走りで駆け出す。
胸の辺りがほっこりとして、人知れず口許が緩んできてしまった。


***


そのまま小走りで下駄箱へたどり着く。
最初は、さっさと着替えてこの汗くさい空色ジャージを脱ぎ捨ててしまおうと思ったのだけれど、更衣室に充満しているであろう女の子たちが使う無数のデオドラントスプレーの混じり合った匂いを思いだし、着替えることを断念して廊下の途中で引き返して来た。
まあ、昼休みを早めに切り上げれば5時限目前までにはなんとかなるだろう。

下駄箱で靴を取り出しながらケータイを開いて時刻を確認する。
ここまで全てが一階に在ったおかげか、まだ授業終わりから5分程しか経過していなかった。

もしかしたら初めて南沢先輩よりも早く辿り着けるかも、と淡い期待を胸に三年生の下駄箱の方を覗き込むと、見慣れた紅色の頭が靴を履き替えているのが目に入った。
その姿をみてニヤリ、と口の端を吊り上げる。

このまま速足で行けばサッカー棟へ先着できそうだ、と密かに闘争心を燃やして、私は急いでローファーに履き替えようと上履きから右足を抜き出す。


「あの、南沢くんっ」

すると突然、三年生の下駄箱の方から先輩を呼び止める聞き慣れない可愛らしい声が耳へと入ってくる。
慌ててもう一度そちらの方へと目を向けると、ふわふわくるりとゆるく髪の毛を巻いたかわいい女の人が、南沢先輩と向かい合って立っていた。胸元のリボンを見るかぎり、先輩と同じ三年生のようである。

その手には、ピンク色の小さな包みが握られていた。

私は思わずその場にしゃがみ込む。何をしているんだろう、と自らの行動を疑問に思うが、多分気付かれでもしたら気まずいからだろうなと適当に結論付けた。
そのまま自然と聞き耳を立てる。


「なに。」

「あの、ちょっとだけいいかな。」

「…用事あるから、手短になら」


少し離れているだけなのに、いつも聞き慣れているはずの少し低い声がテレビの向こうの知らない人のものみたいに漠然と耳へ入ってくる。


「私ずっと、南沢くんに憧れてて、」

「…」

「付き合って欲しい、とかじゃないの。ただこれを受け取って欲しくて…」

カサリ、と小さく固い何かが擦れる音がする。
多分、先程あの人が手にしていたきれいなピンク色のプレゼントだろう。

「クッキー、作ってみたんだ。」

照れたような、くすぐったい甘い声だった。
なんでだろう、すごく胸の辺りがざわざわとする。


「南沢くん、甘いものすきだよね?」


よく甘いもの食べてるから、そうなのかなと思って。とふわふわと甘い声でその人は続けた。


その一言で、心臓が射抜かれたみたいに一瞬息ができなくなった。

素直に驚いたのだ。なんでこの女の人が南沢先輩の好みを知っているの?と。

しかし、続く言葉の意味を理解してから、ああと思う。
そうだよ、南沢先輩が甘いもの好きだなんて、ちょっと見てればすぐに分かってしまうようなことじゃないか。
けれど今まで、私が勝手に、私だけが知っている先輩の秘密みたいな気分になっていただけなのだ。
たった、たったそれだけのことじゃないか。

なのに、なんでこんなに胸がキリキリと苦しいんだろう。

ハッと気がつくと、下駄箱はガラリとしていて、誰も居なくなっていた。
慌てて外へと目を向けると、見慣れた紅色の後ろ姿が写って、透明な硝子の向こう側でどんどん小さくなっていく。

早く走って追い掛けなければ、また遅いと馬鹿にされてしまう。
しかし私の両足は、地面にペタリとくっついてしまったみたいにそこから動こうとしなかった。

やっと意志が通って足が動かせるようになったと思ったら、私は床へ落としていたローファーをロッカーへと押し戻し、玄関とは真逆の廊下へと走り出していた。

もう、自分が何をしているのかよくわからない。


勢い良く角を曲がると、誰かと強く正面からぶつかってしてしまった。
相当力を入れて走っていたらしく、反動で後ろへ倒れて尻餅をつく。

「ごめんっ!大丈夫か…?」

すると相手の人に強く腕を引かれたおかげで、すぐに立ち上がることが出来た。

お詫びとお礼を言おうと顔を上げると、なんと、目の前には憧れの神童くんが立っている。


「あ、笹木さんだったのか。本当にごめん、怪我してないか?」

心配そうに形のいい眉を歪める神童くんに、慌てて
「大丈夫、大丈夫!私こそ前見てなくてごめんね!」
と腕をぶんぶんと振って元気であることを伝えた。

「怪我がないなら、よかった。」

そういうと、神童くんはふわりと私の大好きな笑みを目の前で浮かべてくれる。
なのになんでか今日の心臓は麻痺しているみたいで、いつもならドコドコとうるさい胸は、なんだかまだキリキリと苦しい。


「あの、神童くん。ちょっとお願いがあるんだけど…」

「なに、笹木さん?」

「これ、南沢先輩に会ったら渡しておいてくれないかな?」

私、これから着替てこなきゃいけなくて。そんな言い訳を付けて、カサリ、とプリンが二つほど入ったビニール袋を神童くんに托す。

「?ああ、わかった。」

唐突に南沢先輩の名前を出したせいか、半ば困惑しながらも了承してくれた神童くんにお礼を言って、私はまた廊下を走り出した。


そのままの足で体育館の近くの、人気のあまりないトイレへと駆け込み、そこでやっとのこと思い切り息を吸い込んだ。
久しぶりに十分身体を循環しだした酸素に力が抜けて、思わずその場にうずくまる。

するとキュルルル、と盛大にお腹が鳴り出した。
そこでああ、とお弁当を教室へ忘れて来ていたことに初めて気がつく。

ご飯も持たずにサッカー棟へ移動しようとしていたなんて。私は一体何をするつもりだったのだろう。

嘲笑すると同時になぜだか涙が零れてきた。あれ、そんなにお腹が空いているのだろうか。

慌てて先程購買でもらった飴玉をスカートのポケットから取り出して、口に含む。
ミルク味のキャンディは、まろやかでふんわりと甘くて、懐かしい味がした。
やさしい甘さが舌の上からじわじわと広がって、体中が包まれていくみたいだ。

でも、なんでだろう。

「ねえ、痛いよ先輩」

こんなにも甘いのに、この飴は胸の痛みを打ち消してくれない。
それどころか、更に際立つみたいに胸がキリキリと悲鳴を上げる。
鞭で叩かれたみたいに心臓がじりじり痛くて、零れてきた涙は止まりそうもなかった。




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