お店の扉を開けると、優しく甘い香りに身体が包まれた。
バターの焼ける香ばしい匂いに誘われて、引き込まれるように店内へと足を踏み入れる。

最近駅前に出来たばかりのこのパン屋さんは、種類が豊富で美味しいと近所でも評判で、おまけに値段も良心的。なので朝にも係わらず、店内はたくさんの人で賑わっている。
スーツのサラリーマン、ラフな格好のOLさん、野球部の大きなスポーツバックを提げた高校生。これからの朝ごはんやお昼への楽しみにと、皆がみんな、様々なパンの前で足を止めては顔を綻ばせていた。

カラフルな彩り溢れる店内で心惹かれてはついつい目移りをしてしまうが、私はそれをグッと我慢してスカートのポケットからケータイを取り出す。


「ストロベリーカスタードデニッシュに、りんごと紅茶のベーグル…」


随分と小洒落たものを食べるのだな、と木苺色の頭を思い浮かべて小さく悪態を吐き、私は店内に溢れかえったパンたちの中から指定された品を見つけることに専念しようと、トレーに手を伸ばした。


私が彼、南沢篤志センパイのお使い係、平たく言えばパシリに任命されてから今日できっかり二週間になる。


ことの始まりはあの日、ちょうど14日前に遡る。

その日の放課後、下校時刻が最終締め切りである理科の実験レポートが未完成であった私は、せっせと必死にシャーペンを動かしていた。すると突然、顔をりんごみたいに真っ赤に染め上げた友人が興奮したように教室へと駆け込んできた。そのままの勢いで荒々しく私の肩に両手を添えたかと思えば、ぐわんぐわんと前後左右に揺らされる。ヤバい、ヤバいって!などと幾度も同じ言葉を零す友人に「な、なにが…?」と半ば酔ってきた私は腕を掴んでこの振動に無理やり終止符を打ち、落ち着けるようにと少しゆっくり尋ねてみた。
すると友人は高揚が収まらないといった感じで、とぎれとぎれになりながら私にこう告げてきたのだった。

「美奈子、美奈子あんたのことを、みっ南沢先輩が呼んでる…っ!」

その言葉でスイッチでも入ったみたいに、クラスの女の子たちが一気にざわめき出す。
「もしかして告白…?!」「いいな美奈子羨ましいっ」等々、突如、キラキラとした羨望の眼差しが向けられて痛いくらいに身体に突き刺さるが、生憎私には今までその南沢先輩との接点がない。辛うじてぼんやりとシルエットが思い浮かべられる位の、私の中ではそんな程度の曖昧な認識である。勿論言葉を交わしたことは疎か、廊下ですれ違ったことがあるかすら怪しい。
ましてや向こうが私を知っているなんてことが、本来ならある訳がないのである。
なので、彼が私に何の用なのか皆目見当もつかず、頭の中には疑問符が浮かぶばかりだった。

先輩に話し掛けられちゃった、と浮かれ気味だった友人に「ほら、先輩が待ってるんだから早く行ってきなさいよ!」とぐいぐい背中を押され、無理やり教室から追い出されてしまった。
呆然と廊下に立ち尽くしながら、抵抗したところでもう教室には入れてくれないだろうなということをぼんやりと悟る。レポート、終わらせたかったんだけどなあ。
やることがなくなってしまった私は、仕方なしに指定されたサッカー棟の裏へと歩きはじめることにした。

このご時世にも係わらず、サッカーにてんで興味がなかった私は今まで一度もサッカー部の試合観戦や練習見学に行ったことがない。
友人たちには頻繁に誘われるが、人混みが苦手なのも手伝って、毎回それっぽい理由を付けては断りを入れていた。
それでも私みたいな部外者ですら、南沢先輩を始めサッカー部の面々をうっすらではあるが認識しているのは、それだけ彼らが校内の有名人であることの一つの象徴になるのだと思う。

そんなこんなで今までサッカー棟にはてんで無縁だったので、足を運んだことなどなかったのだけれど、校舎に次ぐ大きな建物なので迷うことなどなくたどり着くことが出来た。

恐る恐る建物の壁を伝って、端っこからサッカー棟の裏、に当たるスペースを覗き込む。

木陰の下には、紅色の髪の毛を綺麗に整えた男の人がけだるげに立っていた。

すると向こうもこちらに気づいたようで、カチリと目が合ってしまう。
なんだか恥ずかしくなってしまい咄嗟に首を引っ込めると、クスクスと小さく笑いを押さえた音が微かに耳へと入ってきた。そのあとすぐに、凛と通る声で優しく名前を呼ばれる。

「君が、笹木美奈子ちゃん?」

どうやら私への呼び出しは人違いでないらしい。グッと心を落ち着けてから、ゆっくり彼へと足を踏み出して近づいていく。木陰の中は日なたよりも随分と涼しくて、優しい温度だった。さわさわと頬の横を通り抜ける風が心地好い。先輩の正面に数歩分距離を置いて立ち止まると、先程よりも顔の輪郭やパーツひとつひとつがはっきりと見えてしまい、目線を気づかれない程度下へと逸らす。綺麗な顔は少し、苦手だ。

「あの、私に何のご用事ですか…?」

「ああ、そうだった。」

まるで今思い出しました、といった風に先輩は肩に提げていた鞄を開いて、無造作にポケットの中を探り出す。「お、あったあった」とお目当ての物が見つかったらしく、口許に緩く笑みを浮かべていた。本当に、何の用なんだろう。

「きのうの放課後、下駄箱で拾い物してさ。」

これ、なんだ?
クイズでも出すみたいに楽しげに、先輩は鞄から探り出した何かを手にして、私の目の前でひらひらと揺らし見せびらかす。

風になびくそれは、一枚の白いシンプルな封筒だった。

私はそれを見てさあっと顔が青ざめていくのを感じる。

「そ、れ…っ!」

言葉を失ってしまい魚みたいにパクパクと口を動かしていると、南沢先輩はその封筒をひっくり返し、あろうことか表に記されている文字を読み上げた。

「"神童くんへ"?」

ふうん、神童ね。神童モテるよな。と、同じくらいかもしかしたらそれ以上に女の子たちから人気を博している南沢先輩がそう零すのは些か違和感があって少し滑稽だった。しかし笑っている場合ではない。

確信した、間違いない。
あれは、私が神童くんに宛てたラブレターである。

昨日、私は勇気を振り絞って片思いの彼への想いを形にし、所詮は告白をしようとしていた。
けれど下駄箱を前にした途端にフラれた後のことを思って不安に押し潰されてしまい、結局告白は断念し引き返して来ていたのだ。

そのまま行き場を無くした、未送信のままの手紙。
いつか彼への想いに踏ん切りが付いたら捨てに行こうと心に決めたはずだった。

しかし、家に帰って鞄を開いてみると、その手紙はこつぜんと消えていたのである。
隅から隅まで、プリーツスカートのポケットをひっくり返してもみたがどこにも見当たらず、僅かな希望を掛けてレポートに費やす時間も返上して部屋中を探し回っててみたが、結局見つからず終いだった。
実は今朝からひっそりと、誰にも気づかれないようにずっとずっと探していた。

まさか誰かの手に渡っていただなんて。


「あのっ、見つけてくださって、ありがとうございましたっ!」

よくよく見てみると、封の端は細くジグザグに欠けている。
これを見るかぎり、中身は知られてしまったとみて間違いないだろう。

恥ずかしさや焦りから、早いところ回収してここから撤収するのが最善の策だろうと考え、私は手紙の封筒を受け取ろうと手を伸ばす。

しかし、封筒を摘んでいた細い指は、到底私では届きそうもない先輩の頭上へ高々と上げられてしまった。
驚き困惑して先輩を見つめると、今までの人のいい笑顔はどこへやら、意地悪く口の端を吊り上げて楽しげにこう呟いた。

「誰が返す、って言った?」

ニヤリ、まさにそう言うのが正しいくらいの悪どい笑みが、綺麗に整った顔へと貼付けられている。
冷えた背筋に嫌な汗が伝うのを感じた。


「とりあえず、」


俺、明日の昼に購買のプリン食べたいな、美奈子ちゃん?


その女の子なら誰でも卒倒してしまいそうなくらいの素敵な笑顔が、全ての悪夢の始まりだった。



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