ぼんやりとした意識の中で最初に思い浮かんだことは、ここはどこだろう、ということだった。

霞が掛かったような頭はうまく働かなくて、気を抜くと今自分が何を考えているのかもよくわからなくなる。
ふわふわとして、身体も軽い感じだ。

突然、腕がジワッと痛んだ気がして摩ろうとすると、もう片方もやけに動かしづらかった。
そこで自分が腕に顔を埋めていたことと、そのせいで腕が痺れているのだということに気がついた。

思えば身体全体が凝り固まっていて、潤滑油のなくなったロボットみたいに関節がギチギチと悲鳴を上げている。
首をもたげたままでいると、だんだんと霞がかった視界が晴れて、机の木目で浮かび上がった。そこでぼんやりああ、と思う。

そうか、教室で寝てしまったのだった。

随分と深く眠っていたようだ。夢を見たような気がするけれど、何の夢だったのかまでは思い出せない。まだ頭がぼんやりとしていて、曖昧な思考。


(――笹木さん)


なんでいきなり目が覚めたのだろう。そんな疑問が浮かんだとき、ふ、と誰かに呼ばれたような感覚が頭を過ぎった。
それと同時に、軽く右肩に重みがあることにも気がついた。
まだ夢うつつなせいか、そのことにあまり驚きも焦りも湧かない。私は状況を把握するために、ゆっくりと顔を上げた。

いつの間にかガラリと人気のなくなってしまった教室は、全体が影っぽく薄暗い。誰かが電気を消して帰ったのだろう。
ぼわりと影色に染まった教室は、窓から入る夕日の光でオレンジの輪郭が浮き上がっているものの、いつもより色味の欠けた世界に見える。

そこに、白い手がぼんやりと浮かんで見えた。

まだ焦点の定まらない視界ではその持ち主は影に溶け込んでしまっていて、それが誰なのかまではわからなかった。
けれど確かに、白い左手が宙に浮かんで見える。
心なしか肩の重みもなくなった気がした。つまり、この手が私の肩に乗っていたということだろう。


(――笹木さん)


目の前に浮かび上がる手と、頭の中で鐘の音みたいにぼわんと響き渡る誰かの声が頭の中でリンクした。
多分、私はこの誰かに起こされたのだ。
いやちがう、言い方が悪かった。教室でぐっすりと眠りこけていた私のことを、誰かが起こしてくれたのだ。

きっとあのまま放って置かれたら、私はどっぷり日も暮れた頃に見回りの警備員に叩き起こされていたことであろう。親切な人がいて、助かった。

そう思う傍ら、私は頭の隅でまったく別のことを考えていた。

影に浮かぶ白い指は夕日に照らし出されて、オレンジ色の光を纏っているようにも見える。
神秘的であまりにも綺麗なそれに、私は思わず手を伸ばしていた。
触れたとき少しびくついたそれは、両手で包むとそれきり特に抵抗することはなかった。それをいいことに私はうっとりと白い手を見つめる。

触ってみるとそれはとても綺麗なものだった。関節が節ばっていなくて、先端にかけてすっと伸びた長い指は細くて少し冷たい。先端には桜貝みたいな、短く切り揃えられた形の良い爪が並んでいる。
あまり大きくはなくスラリとしているが、骨のしっかりした感じが男性のものだということを物語っていた。
テレビや広告で映される手タレ程整ったものではないけれど、使い込んであるもの特有の、何とも言えない力強さがあった。
何だか美味しそうだと思った。

気がつくと私は、力の入っていないその人差し指を、口に含んでいた。

手はびくつき二度目の抵抗をされたが、私が口を閉じてしまうとそれきりぷつりと動かなくなった。捕まったお魚みたいだ。

私は前歯で挟んだそれに軽く歯を立てた。じわりと薄く鉄っぽい味が広がる。心なしか甘やかだった。

舌を伝って、手が完全に強張ってしまっているのをしっかり感じ取れてしまう。
それが指だという認識はあるし、なんだか怯えるそれがかわいそうになったので、私はそこで噛むのは止めにしておいた。
名残惜しいけれど、しぶしぶ指を咥内から解放する。

再び目の前に現れた指には、第二関節あたりにくっきりと歯形が残っていた。じわじわと血が滲んできている。変わらず白く浮かび上がる左手は、鮮やかな朱色の部分だけが背景に溶け込んで見えた。

なんだかとても嬉しくなってきてしまった私は、血の滲むそれをうっとりと眺めつづけた。愛しく感じてきて、思わず軽く口づけたくらいだ。


「――笹木、さん?」


今度ははっきりと、誰かが私の名前を呼んだのが聞こえた。恐々、といった感じの、遠慮と困惑が混ざったような声色だ。

ゆっくりと見上げてみると、私の捕まえた左手の先にはやっぱりぼんやりと人影が立っていた。
数度瞬きを繰り返すと、今度ははっきりと、そこ神童くんが立っていた。

そうか、手の持ち主は神童くんだったのか。

カチリと、困惑に染まった神童くんの瞳と視線が交わった。途端、神童くんの瞳に不安げな色が重なったのがはっきり見て取れる。
それを見て私はふにゃり、と自分の口許が緩んでいくのを感じていた。


「きれいな指だね、神童くん」


言葉を発してみると、寝起きの舌はうまく呂律が回らなかった。しんろうふん、に近い発音だったことだろう。
再び閉じてしまいそうな重い瞼をなんとか保って神童くんを見つめていると、彼の瞳に熱が篭った瞬間を私は見逃さなかった。

神童くんの灰茶の瞳は夕日に照らされて今は緋色なっている。その視線に込められた確かな熱に気がついて、私はそっと瞼を閉じた。そういうものなのかな、と思いながら。

閉じられた視界は瞼に透けた夕日色が眩しかったが、すぐに真っ暗に染め上がる。
予想した通り、間もなく唇に欲っぽい熱を押し付けられた。私は初めての体験だったが、それは柔らかくてふわふわとして心地がよかった。

パッと熱が遠退いたかと思うと、逃げるように上履きの音が気配ごと廊下へ消えていった。遅れて瞼を開けると、カラリとした教室には私だけが取り残されていた。

その頃には『空中を泳いでいる白い魚を捕まえて食べる』夢を先ほどまで見ていたことを、私ははっきりと思い出した後だった。



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