霧野の顔が、熱が離れていくのを感じた。
遠退く気配に合わせてそっと瞼を開ける。
開けた視界には霧野がいっぱいで、けれど先程と比べるとやっぱり遠い。
隙間無くくっついていたのだから当たり前なのだけれど。
唇を軽くくっつけるだけのキスは、最初こそ緊張したものの、今では慣れきってしまってさほど驚きも感動もない。
初めてのときは、お互い好きで好きでたまらない、みたいな熱くて心臓が高鳴る雰囲気が漂っていたけれど、それも今では落ち着いてしまった。
愛情が薄れたのではなくて、緊張が解けた慣れからくる落ち着きだけど。
ともかく、世に言うバカップルの空気やムードの波が引いてきた今、私は当初から思っていた本音を口にしてもいい頃合いだと思うのだ。
「…ねえ、霧野」
「なに美奈子」
「霧野ってさ、リップクリームとかしないの?」
霧野は一瞬きょとんとしたが、意味を理解したのかすぐに眉を潜め顔をしかめた。
霧野の唇は、薄くてやわらかいけれどいつも少しかさついている。
男の子だから当たり前なのかもしれないけれど、霧野は顔が顔なのだ。
正直なところ、私は最初とても驚いた。
だけど最初のキスはやっぱり緊張もしたし、それも新しい発見のひとつだった。むしろ、彼の男の子な部分を見つけることの出来た喜びでいっぱいだった。
しかし回数を重ねてみると、やはりそれは不自然なのだった。
不自然というよりも、もったいないに近い。彼の整っていて綺麗なピンク色をした唇に、そのかさつきはもったいないと感じていたのだ。
「…俺は男だ」
「わ、わかってるよ。でもさ」
「何、美奈子は不満?」
「不満とかじゃないけど…」
霧野を怒らせないように言葉を選びながら話していると、我ながらなんとも煮え切らない言葉になった。
霧野は顔の事を言われるのを極度に嫌うので、中々うまく伝えるのが難しいのだ。
「…わかった」
何がわかったのかは分からないが、意外にもあっさりと霧野の了承が取れた。
多分、彼は私の言葉の意味を汲み取って、リップケアをしてくれるつもりなのだろう。
よかった、と安心した矢先、彼がお手、といった感じでこちらに右手の平を差し出してきた。
意味が分からなくて小首を傾げながら霧野を見ると、霧野は呆れたように口を開いた。
「リップクリーム貸してくれ」
衝撃的だった。
咄嗟に「嫌だよ!」と言うと「なんでだよ」と返された。何でって…
「自分で買えばいいじゃない」
「嫌に決まってるだろ、なんで女子みたいにそんなの持ち歩かなきゃいけないんだよ」
「お家で付ければいいじゃん、貸すのは嫌だよ恥ずかしい!」
「なんでだ?いつもキスしてるのに、何を今更恥ずかしがるんだ?」
霧野は訳がわからない、という風に怪訝な顔をする。
これは私が悪いのか?と一瞬迷いかけたが、そんなことないと考え直した。
彼と付き合って数ヶ月、キスをしたのは一ヶ月も前じゃない。あまりスキンシップに慣れていない私には、それはやっぱり恥ずかしいことに思えてしまうのだ。
もどかしいくらい、霧野には複雑な乙女心というものが伝わらない。
こういうときにはっきりと実感するのだけれど、彼は見た目に反して中身に女の子の要素は全く持ち合わせていない。全く。
結局彼に根負けしてリップクリームを差し出したが、やっぱりいつも自分で使用しているものが彼の唇に触れているのは恥ずかしかった。慣れない手つきでリップクリームを塗る彼の姿は、見た目には不自然な要素が少しもない。微かにイチゴの香りが漂う。
付けた瞬間彼は眉を潜めて「ベタベタする」と文句をつけた。恨めしそうにリップクリームをじっと睨みつけている。
「あんまりこういうの、好きじゃないな。違和感がある。でも…」
「でも?」
「美奈子の唇、ふわふわして気持ちいいなと思ってたから、美奈子がそう思えてなかったのはやっぱり申し訳ないな。我慢して付けるよ。」
悪びれもせず照れもせず、ただ感想を述べるように淡々とそう零す霧野に、またも私は言葉を失った。
たぶん本当に、これは霧野にとってただの本音なのだろう。
照れ隠しにバシッと腕を叩くと、霧野は「なんで?」と困惑顔でまた口にする。
なんでかなんて、霧野には一生分かるまい。
私は間違えたのかもしれない。
彼には、乙女心なんて一切理解出来ないような生粋の男の子な霧野には、ケアもしていないかさついた唇が誰よりも似合っているのかもしれないのだから。
120716