腹を決めたからといって生活が一新されるわけではなかった。
もっぱらやることといえば過去の怪盗キッドの資料整理。
名前は気の小ささにかけては始点・時点共に定評があった。

小春日和というのにふさわしい穏やかな日差しが窓辺に差し込んでいる。
花粉よけのために窓は開いておらず、空気清浄機の風に当てられ揺れるカーテンが影を伸び縮みさせた。
温いせいか体調も機嫌も良くなっていく。
名前は小さくフレーズを口にする。
徐々に大きくなるメロディ。
酷い人見知りでありながら舞台は好きであった。
誰かが喜んでくれるだけで幸せだったし、友人と居られる時間は何よりも宝物だった。
歌はそんな宝物を思い出させるツール。

年齢を重ねるごとに不調が体に現れるようになった。
立ち眩み、肋骨の間を針で刺される様な鋭い痛み、逆上せや動悸、両手もしくは体の痙攣。
無理が祟ると高熱を出して一週間寝込むこともざらになった。
有給を使い果たしたときいよいよ自分の状況が良くないことに気がついた。
そんな時に支えとなったのがバンドのメンバーだった。
みんな社会人だったりワケアリだったりで練習量も少なく完璧とはいえない仕上がりだったが面白いことをして楽しもうという趣旨がよかったのか徐々に固定のファンが付いていった。
派手なこと目立つことが苦手な名前もErenaとして舞台に立っている間は我を忘れて歌を楽しんだ。
メンバーの営業努力が実った日。
家族の死を言い訳に抜けることを告げた名前にGureさんことリーダーは『待っているから』と理由も聞かずに笑みを向けた。
メジャーの話が来てからというもの体調の悪化は著しく、医者からもストップが出された。
『Erenaさん、ちょっと待って』
呼び止めたのは一つ年下のMaaSA。
すらりとした細身の肢体、本人はコンプレックスを持っている小さめのバスト、見上げるどんぐり眼。自分がどういう表情をしたら魅力的に見えるかを知り尽くした完璧な表情が今は曇っている。
平均身長より少し大きめの名前と少し小さいMaaSAは姉妹のように仲が良く、バンド外でもたびたび買い物だのお茶だの映画だの繰り出していた。
親友という言葉を嫌っていながらも一番の友人だと自負していたMaaSAはErenaがなんの相談もなしに突然抜けることにショックを隠しきれずにいた。
『ごめん、マーちゃん。
私、もう表出れないかもしれない』
『一言相談があっても良かったんじゃないですか?』
自然と言葉にも棘が出る。
『自分でも何が原因かわかんないんだよね。
きっと色々あってそれで体が動かないくて、そういうのが情けなくてまた嫌になるんだよ』
『その色々ってのは私に言えない事?』
『うん、知らない方が良い事だよ。
聞いても楽しい気持ちにはならないと思う。
私はマーちゃんにはいつも笑顔でいてほしいな』
名前にとって妹分のようなMaaSAは守る対象で自分の面倒ごとを押し付けるなんてもっての他、MaaSAも理解しているからか悔しげに表情を歪める。しかし一度伏せた瞳が好戦的な光を宿した。
『じゃあ、私も待ってるから。ずっと待ってるから帰ってきなよ、絶対!』

結局あれから4年待たせっぱなしになっている。
旧来のファンからはメンバー仲違い説が飛び交い、今では死亡説へと進化を遂げた。
まさか物書きに転職してるとは思うまい。
歌詞の提供や演出協力はあるものの宣言どおり表舞台からは完全に退いた。

回想に耽っていたところで玄関のチャイムが鳴った。

「先生、こんにちは。原稿頂きにあがりました」
「お疲れ様、井出川さん。
今日も花粉飛んでる?」
「飛んでる、飛んでる。
もう本当に嫌になっちゃうわ。
あっ、でもちゃんと叩いてきたから安心して?」
文壇の端っこに身を置くようになってまもなく付いた担当の井出川は少しぽっちゃりとした気の良いお姉さんだ。
もちろん三十路の名前がいうお姉さんなので世間ではオバサンに分類されるのだが。
定職という枠から抜けるにあたりダメモトで出したものがあれよあれよという間に製本された。今でも名前には文岩書房に拾われたという意識があり、この担当にもかなりの愛着があった。
「やっぱり小林少年良いわよね〜」
仕上がった原稿を束にして渡すと早速チェックが入る。
文岩に出しているものは『少年には向かない職業』迷探偵小林少年と天才的な頭脳を持つ引き篭もり美女が織り成すなんちゃってミステリー。
確認が終わると発刊予定の次回作の簡単な打ち合わせ。時間はあまりかからない。
打ち合わせをしてもまったく別のものが出来てしまうことがあるからだ。
『期限きっちりにありがとうございます』と玄関先で頭を下げる。
このいつまでも変わらない丁寧な態度にも好感が持てる。名前は仕事で慣れなれしくされるのが苦手なのだ。なあなあになってしまったら良い仕事は出来ない。
少し無愛想でも気分屋でも小出川のスタンスは崩れることがない。いつものほほんとしているように見えて実は芯がしっかりした女性なのだ。
作家に転向してから自分の性格が幾分か悪くなったことは第三者の指摘なしでも自覚していた。
カウンセリングでもなるべく我慢をしないように言いつけられている。
しかしながらティーンズでは表現が限られる、その為えげつない内容のものは全て海外に回された。
居た堪れなさも軽減され日本の知人が見る恐れが無いというのが一番の利点だったが気づけば仕事の半分以上が海外からのものになっていた。

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