ほとんど黎明のような真夜中、ゆっくりと目を醒ますとえりかは窓辺に座って煙草を吸っていた。 傷んだ髪はしっとりとぬれて、うねっている。
「よく寝てたね」
化粧気のない顔。せつなげな表情にはほんの少し、あどけなさが浮かんでいる。
「起こせばよかったのに」 「わたしもさっき起きたから」
指先で摘まんでいた煙草の灰は長く伸びてしまっている。 足元の灰皿には無数の吸い殻。
「今日は夏祭りがあったんだね。道を歩いてる女の子、みんな浴衣着てた」
そう言って美しく微笑んでみせた。澄んだ柔らかい瞳で。 えりかは真夜中に熔けてしまっている。 俺も彼女も、もう太陽の下にいられる人間じゃない。
「煙草くれ」 「おなかすいた」 「なんか買いに行くか」
形の良いくちびるから細い煙が吐き出されている。あれはえりかの内臓に触れた煙。 ぞっとするほど長く青白い指が、俺に万札を差し出した。
「なんか、テキトーに買ってきて。あと煙草とコーヒーとチョコレイト」
煙草とコーヒーとチョコレイトはえりかの燃料だ。あとは少量のアルコール。 外食以外では、それら以外のものを口にしているところを見たことがない。
「なんか着ろ、そんな格好じゃ風邪引く」 「はあい」
ドアノブに手を掛けながら振り返ったが、えりかは何か羽織る様子もなくぼーっと外を眺めている。 淡い月明かりに縁取られたえりかの輪郭は、柔らかな風に溶けてしまいそうで、不安になった。
奇妙な夜だ。不気味なほど明るい月が、動きの速い雲でぼやけている。 波のうねりが鼓膜を震わす。 そう言えば、海の近い所へ来ているのに、海へは一度も足を運んでいない。 遠い所へ来てしまったと、後悔した。
部屋へ戻ると、えりかはさっきと同じ姿で煙草をふかしていた。 露出した肩がするするとしている。
「えりか、風邪引くって」 「ん、」
彼女は顔だけこちらへ向けて手を差し出した。280円のチョコレートと煙草を渡す。
「コーヒーは」 「今淹れる」
缶コーヒーは砂糖水… めちゃくちゃなメロディにのせて呟くえりかは、簡単なコーヒーメイカーに水をセットしている俺の手元を輝いた目で見つめている。
「明日は海に行かないか」 「なんで?」 「綺麗な海を売りにしている宿に来ているのに海に行かないやつがいるかよ」
えりかはぽかんと目をまるくした。 コーヒーメイカーが奇っ怪な音をたてて茶色い水を抽出している。
「じゃあ今から行きましょう。コーヒーを持って、朝日を見ましょう」
次は俺がぽかんとする番だった。
「きっと素敵。ねえ、いいでょう?」
少女の目で私をみつめる。 えりかはわかっている。 この旅がただの旅行じゃないってことくらい。 目をそらしているのは俺の方だ。
おわりは確かに近づいていた。
えりかの我が儘に答えられないはずがない。 子供のように目をきらきらと輝かせるえりかの手を繋ぎ止めながら、マグボトルの中で揺れるコーヒーの重みを肩に感じた。
「空が明るくなってきてる」
膝丈の紺色のワンピースを捌きながら歩くえりかは、本当に子供みたいに見える。 俺よりもいくつか歳上の彼女。
「あそこの防波堤に座りましょう」 「ああ」
まだ輝きの強い星が薄明るい空に瞬いている。 マグボトルを開けると、コーヒーの湯気がひんやりとした空気に霧散した。 波の砕ける音とえりかの息づかいしか聴こえない世界。 ずっとこのままがいい。
「見てっ、宇宙!」
えりかは天に腕を伸ばして叫んだ。 指の先には煙草が挟まっている。
「すごい、美しいね、万里」
えりかの手のひらに、あの綺麗な星たちが降りてくればいいのに。 永遠がほしい。
地平線から零れた朝日が彼女の横顔を明るく照らす。清廉な光に溶けてなくなってしまいそう。 淡い風がえりかの睫毛を上向きに撫でる。 煙草の煙をまとったえりかは、俺にやわらかな笑みを投げた。
「帰ろう、ずっとこのままではいけない」 「……ごめん」 「……ああ、泣かないで」 「ごめん」 「逃避行、楽しかった」 「すき、好きだっ……愛してる」 「ありがとう万里。わたしも、すき」
いつも現実をまっすぐに見据えていたえりかの優しさに涙がこぼれる。 駄々をこねてまわりを困らせていたのは俺の方だ。
ああ このまま、このまま海へ身を投げてしまえればいいのに。 えりかの手をとって。深くまで。
:いつかの話
東京へ帰ると、俺たちは離ればなれになった。 我慢できなくて着なれないスーツを着て式場に行くと、えりかは仏頂面のタキシードの隣で淋しげに笑っていた。 |
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