東の空で明けの明星が、磨かれたダイヤモンドのように煌っている。遠くのビルが黒く影になっていて、航空障害灯が赤くチカチカと点滅しているばかりだ。太陽はまだ昇りそうにない。 私と皆木くんは、狭いベランダでカップヌードルを啜っている。二人で喫煙用に設置している折りたたみのベンチに座って、朝と夜のコントラストに溶ける東京の街並みを見ている。
「朝のリレーだ」 「この時間になると思い出します」 「国語の授業でやったよね」 「やったやった。懐かしいっすね」
劇団のみんなはまだ起きてないだろーな、と皆木くんはあくびまじりに漏らした。皆木くんはその劇団の、特に同室のマスミくんの睡眠を邪魔したくないと、レポートや脚本の締め切りが迫るとこうして私の部屋に転がり込んでくる。私も雑誌で連載している中編の締め切りが明日までだったので、さっきまで二人でカンヅメになっていた。私は担当にできた原稿をメールしてしまったし、皆木くんもラストシーンまで書ききったので、起きたら誤字脱字などを軽くチェックするだけだ。 気怠い達成感が二人を包んでいる。
「しょうゆ一口食べたい」 「俺もシーフード食べたいっす」 「一口と言わず全部食べて。お腹いっぱいになってきた」 「ん」
渡されたしょうゆ味は、麺がほとんど残っていなかった。謎肉とたまごとエビを短くなった麺と一緒につつく。 皆木くんが、シーフード味をずぞぞと啜る。この時間のカップ麺は罪だ。
「明日授業あるの?」 「授業はないけど、昼過ぎに顔出さなきゃいけないからこのままギリギリまで寝たいっす」 「いーよ」
もうすぐ、私はこの男の子と同じベッドで眠ることになる。体温が高くて、寝息の静かな、大型犬みたいな男の子と。皆木くんは寝顔が幼くて、丸まって寝るより大の字で寝る方が好きなんだって知っている。 この子の隣で寝る時、遠足の前日みたいにドキドキしてしまう。熱い手のひらが私のむき出しの肩を撫でる想像をする。逞しい腕の中で、皆木くんの心臓の音を聞きながら眠る悦びを。
安い夜食を食べ切って、私たちは煙草に火を付けた。キンと冷たい風に煙が攫われていく。
「普段は吸わないんすけど、脚本書き上げてこの時間だと、なんだか無性に煙草が恋しくなるんですよね」 「喫煙者の素質あるよ」 「これで俺がヘビースモーカーになったら先生の責任っすよ」 「余計なことまで教えちゃったかな」 「課外授業ってことで」
大人になる前の男が、くたびれて煙草を吸っている姿は、なんてセクシーなんだろう。不健全で、背徳的。皆木くんがまだ私の生徒だった時、夜明けにこうして二人並んでカップ麺を食べる想像ができただろうか。 私が教師で皆木くんが中学生だった時の、制服を着た皆木くんの姿を思い出す。 飲み干したビールの空き缶に吸い殻を落とす。でもまだこの横顔を見ていたくて、また煙草を咥えた。 あの頃の頬の丸みはもうない。
「……早く大人になりたい」 「なんで?もう大人じゃない」 「でも、先生、俺のこと相手にしてないじゃないっすか。なんか、悔しいっつーか、……うまく言えないけど」 「……そんなこと、ない」
あなたの一挙一動にこんなにもドキドキさせられているのに。必死に隠している本心は、案外伝わらないようだ。 翠い瞳が西新宿のビル群をじっと見つめている。
「大学卒業するまで待っててほしいけど、待っててなんて言えない」 「あと半年で卒業でしょう。それまでに口説いてみてよ」 「……っすね」
男と女の関係を匂わせる空気を感じて、にわかに緊張してしまう。 皆木くんは短くなった煙草をぎゅーっと吸って、空き缶に吸い殻を捨てた。
「風呂、借ります」
そう言うと、食べ終わったゴミを手早くまとめて部屋に入っていってしまった。私は肩透かしをくらった気分になって、少し恥ずかしくなる。はしたない。年上の余裕なんてあったもんじゃない。 でも、ここで強引にキスをしてこないところに惹かれたのだ、きっと。
教師人生で最後に担任を任された生徒たちの成人式で、私は皆木くんと再会した。思い思いに着飾って大人の入り口に立った彼らを、ぬるいビールを飲みながら会場の隅で眺めていた時、あの頃よりぐっと身長の伸びた皆木くんに話しかけられたのだ。春の陽射しみたいな柔らかな笑顔は、あの頃とまったく変わっていなかった。
「先生、お久しぶりです。教師を辞められて小説家になったって聞きました」 「皆木くん、久しぶり。ええ、小説家って言うと大げさだけど。皆木くんは今大学生?」 「大学生です。それと、劇団に入って役者をやりながら脚本を書いてます」 「脚本!すごいじゃない。それじゃあ私たち、物書き仲間ね」 「そうですね。劇場、天鵞絨町なのでよかったら見に来てください」 「是非、見に行きたいな」
他愛もない、短い会話だった。 LIMEを交換して、皆木くんは友人の輪に戻っていった。私は私で他の生徒に写真をせがまれたり連絡先やSNSを交換したりと忙しかったから、皆木くんのことはすぐに大勢の中の一人になった。 連絡をもらったのは、それから二ヶ月が経った三寒四温の季節、二月の終わり頃のことだった。 皆木くんと再会して、こうやって交流を持ち始めてからもうすぐ二年になる。本人も脚本も、その間にどんどん魅力的になるものだから私は会うたびに戸惑ってしまうのに。
「まだここにいたんですね。お風呂いただきました」 「うん、先に寝てて」 「おやすみなさい」 「おやすみ」
東の空はだんだんと明るくなってくるのに、私は妙に冴えざえとしてしまっている。こんな気分で、彼の隣で眠れるかしら。眠りの浅瀬を漂って、陽が昇る頃には溺れてしまってるんじゃないかって気さえしている。
そっとシャワーを浴びて寝室に入ると、ベッドからは静かな寝息がしっかりと聴こえていた。毛布をすっぽりと被って、きりんの夢でも見ているのだろうか。 皆木くんの隣にうずまって、暖房の風にそよぐ彼の前髪を眺める。
「早く大人になって。待ってるから」
素朴な寝顔がどうにも愛しくて、ダメになりそう。 外から、雀の羽ばたく音が聴こえる。
:flap
(救済措置様に提出)
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