穏やかな昼下がりである。 短縮授業で学校を午前中で終えた莇は、ほくほくしながら街を闊歩していた。学校の近くに新しくできたコスメショップで新作の化粧品が安く買えたから、上機嫌であった。ネットで話題騒然売り切れ続出だと言われていたものも、残りわずかだったが無事手に入った。 帰ったらケンさんにモデル頼もうかな……いや、まず自分の顔で試してみよう。あ、でも今日親父ずっと家にいるって誰かが言ってた気ィする……。クソッ、早く試したいのに。 思春期の情緒は浮き沈みが激しい。さっきまであんなにルンルンで歩いていたと言うのに、今は目に入るすべてのものにイライラしている。 「チッ……」 道端の小石を蹴飛ばす。思ったより真っ直ぐに、鋭く飛んで行った石は、道に座り込んでいた学生の太ももに当たって運動を停止した。 「やべ」 「アァ?」 繁華街と住宅街の境目、人通りの少ないビルとビルの隙間に、男学生が四人ほどたむろしていた。思い思いに着崩したブレザーはこの近くの学校のもので、あまり上品ではない学生が多く通うと評判の学校だった。 「……イズミダくんじゃん。ソッチから喧嘩売ってくんなんてメズラシーね」 「……別にそんなんじゃねえ」 「あ? ……ナメた事言ってンじゃねぇぞ!」 センスのない指輪をジャラジャラつけた拳が飛んでくる。あれで殴られると痕が残るから、拳をいなして身を屈める。喧嘩がバレると家の大人たちがうるさい。どうやって切り抜けようかと思いながら暴力を避け続けていると、いつの間にか四方を囲まれていた。 「アァに逃げ回ってんだよ! 日和ってンじゃねーぞ!」 右から脚が、前から拳が迫ってくる。後ろのやつに襟元を掴まれる。左のやつが腕と肩を押さえてくる。やべえ、俺サンドバッグじゃん……と、痛みを覚悟した瞬間、パアンッと爆音がビルの隙間に反響した。 五つの塊は銃声にも似たその音に驚いて動きを止め、音の方に振り返った。 「この街で下らない喧嘩は辞めて。邪魔」 赤いアストンマーチンと、着物姿の美女。車の運転席には、どう見てもカタギではないサングラスの男が、険しい顔をして少年らを睨んでいる。爆音の正体は、車のクラクションだった。 「貴方達、草学の生徒よね。この場で解散するなら学校に通報しないでおくけど、このまま続けるなら学校と警察に通報させてもらう」 第三者の登場に、その場に張り詰めていた空気がしゅるしゅるとしぼんでいく。 美女がスマホを片手におどすと、莇はやっと襟と腕を荒っぽく解放された。 「めんど」 「萎えたわ」 「じゃあね〜イズミダくん」 少年らは放ってあった鞄を拾うと、たるそうに駅へ向かっていった。 莇は衣服の乱れを直し、美女に向き直る。 「助かった。えりかさん」 「丁度通りかかってよかった。喧嘩なんてバレたら古市がうるさいでしょう」 「ホント。これ、オフレコでお願いします」 「しょうがないわねえ。車、乗って行きなさい。送るから」 運転席の男が車を降りてドアを開けてくれる。莇に抵抗する気は無かったけれど、美女は逃がさないとでも言うように莇を車に押し込んだ。 二人がシートベルトを締めたのを確認すると、車は緩やかに発進した。 「学校は? サボり?」 「え? あー、違う違う。なんか校舎の点検? のせいで半ドンだったんだよ。えりかさんこそこんな時間に珍しいじゃん」 「私はアフター。なんだ、ふけてきたのかと思った」 「ひでー! 俺結構真面目だよ?」 「真面目な子は喧嘩なんかしません」 「まあ、今回のはちょっと俺が悪かったけど。でもアイツら俺のこと見るたびに喧嘩吹っかけてくるんだ。大体は逃げてっけど」 「えらいえらい。送るのは家でいい?」 「うーん……今日あんま帰りたくねえんだよな……」 人目を忍んで、コスメ売り場でウンウン唸りながら悩んで選んだファンデーションが割れてないといいなと思いながら、喧嘩によって角がひしゃげたショッパーを撫でる。 「それ、彼女にプレゼント?」 「うーん……えりかさんならいっか。誰にも……特に親父には絶対言わないでほしいんだけど、俺、メイクアップアーティストになるのが夢なんだ。だから、これは俺の練習用」 「へぇ……」 「引いた?」 「まさか! 私コスメとかメイク道具とか集めるの趣味だからなんか嬉しいな。もしよかったら私の部屋来る? いっぱいお化粧品あるわよ」 泉田莇少年は目の前に広がる光景に、泉田莇らしくなく興奮した。普段の彼を知っている者が見たら、目を丸くすることだろう。おおよそ子供らしくない、クールな泉田莇が、顔いっぱいをキラキラさせて、女学生のように身体を跳ねさせているのだから。 「す、げー! ……あ、コレ! シュウウエムラの新作ファンデ……! うおぉクレ・ド・ポーのルージュアレーブルNが全色ある! こっちの、まだ日本で発売されてないやつ……!! わああシャネル! ナーズ! イヴ・サンローラン!! マック! ディオール! クラランス!!」 巨大な鏡台には、膨大な数のローションやファウンデーション、口紅や香水瓶なんかがコチコチと置かれている。黒いシルクの長い布の上には大小様々なメイクブラシが几帳面に整列し、壁一面にはめ込まれた棚にはスチーマーやヘアアイロンやフェイスマッサージャーなどの機械類が所狭しと並んでいる。 そのきらびやかな群れは圧巻である。オペラ座の楽屋にデパートの化粧品売り場を持ってきてぐちゃぐちゃにかき混ぜてから並べ直したかのような混沌。パフュームや白粉の匂いをお香の薫煙がまあるく包むから、この部屋に風が吹き込むと、家中に桃源郷のような匂いを運ぶのだった。 「さあ、お好きに使って。大丈夫、会長にも古市にも言わないから」 莇が化粧品の大群に興奮している間に部屋着に着替え、化粧を落としたえりかの、透き通った頬がきゅっと上がる。本革のマッサージチェアにゆったりと腰掛け、伸ばした足置きにどこまでも長くほっそりとした脚を組む。ネグリジェが少しめくれ、脚と脚の隙間が覗くけれど、莇はそれを下品だとは思わなかった。リラックスし、目をつむっているえりかはまるで絵画の中の女神のようだから。 莇はごくりと唾を飲み込んだ。すうと息を吸い、切り出す。 「えりかさん、顔借りてもいい?」 「え?」 「ほら、俺、自分で化粧するのが好きなんじゃなくて、人にメイクしたいんだよ。な、お願い」 昼間なのに眠そうな顔をしているえりかは、高級クラブのママである。普段なら、営業後のアフターを終え、煌びやかな着物を脱いでやっと眠りについている時間だ。そして莇との関係はというと、この女、銀泉会会長、泉田喜久雄の情婦(いろ)である。だが、情婦と言っても肉体関係はない。"クリーンな"極道を運営する上で必要な会合や接待が発生した時にえりかの経営するクラブを使い、その為に泉田喜久雄が出資している、いわばビジネスパートナーなのである(それ以前に莇の母親の小百合の友人なのだが、話が長くなるので割愛しよう)。 もちろん、莇のことは莇が幼い頃から知っている。おむつを替えたことはないが、一番最初の記憶は、産後の小百合がまだふにゃふにゃの赤ん坊だった莇をあやしているところだとすれば、泉田家とえりかの関係の深さがお分かりいただけるだろう。 「うーん、そおねえ」 ぼんやりとしているえりかの頬に少しウエーブがかった豊かな黒髪が被さる。あの、ふにゃふにゃでふわふわだった赤ん坊が、もう中学生! いまだ体内に残るアルコールと終業後の疲れが相まって、目が半分しか開かない。 反応が鈍いのを渋っていると勘違いした莇は、不安げな表情を浮かべる。 「……えりかさん眠い? それなら俺、待ってる。今日も仕事だろ? 出勤前のメイク、俺にさせてよ。だめ? いちおー、独学だけど、勉強はしてるんだ」 フットチェストに伏せて、懇願するみたいにえりかを見上げる。 「いつもより美しくしてくれる?」 「……! 勿論!」 「そのあと付き合って。ご予定は?」 「なんもナシ。家で会の会合があるからむしろ帰りたくないんだ」 「……じゃあ五時間後に起こして頂戴。この部屋にあるものは好きに使って。水くらいしかないけど、寝室以外なら自由にしてくれて構わないから」 「うん、オヤスミなさい」 ネグリジェの裾をひらひらさせてえりかは出て行った。 やった、やった! こんなに早く実践のチャンスが訪れるなんて! しかも、この宝の山を自由に使っていいときた。どんなメイクにしようか。いつもは艶っぽい大人の女ってカンジだから、清廉な少女のような印象にしてみるのもアリかもしれない。いや、色味を抑えたハンサム路線もいいのでは……とアイデアを膨らます。 憧れのメイクアップアーティストのインステを見たり、美容系ユーチューバーの動画を見たり、ちょっと昼寝したり、鏡台に並んでいるコスメやメイク道具を確認しているうちに、アッと言う間に五時間が経っていた。 シャワーを浴びて、メイク前のスキンケアを終えたえりかの肌が、ハリウッドミラーの灯りを受けてつやつやとしている。 莇はえりかの頬に触れ、撫で、その肌や肌の下の肉のあまりの柔らかさにびっくりした。己の顔と作りがまったくまったく違うのだ。自分の――男の顔は凹凸が力強い渇いた岩山だけれど、女の顔は緑豊かで柔らかな丘のようだ。 下地をなじませた手のひらで頼りないまるみを優しく包む。擦ったら破れそうなくらい薄い皮膚。初めて触る女の肌は、むしったばかりの花びらのようにしっとりとすべらかだった。 「力加減とか、違ってたら教えてほしい」 「ん、大丈夫」 スチーマーで蒸気をたっぷりと浴びた肌にコンシーラー、ファウンデーション、パウダーを丁寧に塗り重ねていく。爪先で、指先で、母指球で、スポンジで、ブラシで。肌にストレスを与えないように。 眉を整え、チークはベージュのものをごく薄く乗せる。 「目元、色使ってもいい?」 「どうぞご自由に。着るものはメイクに合わせるから、気にしないで」 「ン、ありがと」 アイシャドウブラシに真紅を取る。自分の手の甲で粉をなじませてから、アイシャドウベースを伸ばした瞼に乗せる。えりかの意志の強い瞳に、赤はよく映える。黒く派手な睫毛が、さらに生き生きと輝くような気さえした。締め色として深みのあるブラウンを目尻にぼかし、漆黒のアイラインを濃く強く引くと、大きな眼にどこか人外めいた迫力が生まれた。睫毛の隙間も黒で丁寧に埋めると、そこに更に妖しい光が加わった。霧が晴れない鬱蒼とした山奥の、大樹に住まう神のような……そっと人の心に寄り添い、やがて取り入って命まで丸呑みにするものの怪のような……。少し舞台感が強くなっちまったかなァと、アイシャドウにシャンパンゴールドの上品なラメを足してカジュアルダウンさせた。 「ビューラー使うけど、人にやるの初めてだから痛かったら言って」 「はあい」 えりかはビューラーの骨組みの隙間から、莇の顔を盗み見た。雲の浮かばない空色の、巨大で美しい瞳が、緊張で強張っている手元を一生懸命に見ている。真剣な時に少し唇をとがらせるクセは誰かさんにそっくりで、えりかは思わず口元をゆるませた。 えりかの視線に気づいた莇は、ぱっと顔を引いて不機嫌そうにした。笑われてると思ったのだ。 「何?」 「ふふ、なんでも」 「あ、痛かった?」 「いいえ、大丈夫。続けて」 伏せ目がちに、控えめに上がった睫毛に、黒黒としたマスカラを絡ませる。どこまでもドラマチックに伸びる睫毛は、瞬きの度に嵐が巻き起こりそうなほど。下睫毛は控えめに、目尻の方にだけマスカラを塗った。 リップコンシーラーで輪郭を曖昧にした唇に、こっくりとした赤い口紅を指の腹でぼんやりと滲むように乗せる。そして、下唇の内側、口を閉じると見えなくなるくらいのごく僅かな範囲にだけダークブラウンを忍ばせた。そうすることによって、唇から大人のインテリジェンスな色気が香るのだ。 「ちょっと顔上向けて」 「ん」 シャドウやハイライトを施した顔にフィニッシングミストを吹き付ける。すると肌を覆っていたパウダーが途端に密着し、玉のような皮膚が生まれた。 えりかはそっと目を開ける。 「……できた?」 「あ、ウン……」 莇はえりかに見惚れていた。心臓がドンドコドンドコ音を立てて鳴っている。初恋もしたことのない莇にとってそれは初めての体験だったが、人間、許容を超える美しいものを前にすると、誰でもこうなってしまうものである。勝手に顔が熱くなり、脈が祭囃子を奏でる。心も、抵抗する間もなく、謎の重量によってグワッとソレに引き寄せられてしまうのだ。一つほほ笑みでもくれようものなら、全てを差し出しても安いと思ってしまう。ああ、傾国の美女とはこういう事をいうんだな、と莇はぼんやりと思った。 「ね、鏡見てもいい?」 「ウン……」 前髪を留めていたダッカールを外して、軽く手櫛で整えてやる。えりかと鏡台の間にねじ込んでいた身体を退けると、えりかはパッと目を見開いて、まじまじと鏡に映る自分を見つめた。 「へー、すごいじゃない! 上手! 女優さんみたい!」 えりかは鏡の前でくるくると表情を変えてみせた。すんと澄ましてみたり、にっこりと微笑んでみたり……。 それが己の手から生み出されたものなのだから、感動も相まって、莇は暫く腑抜けになった。 「どういうイメージでこのメイクを?」 「山奥に住む神話生物……みたいな。千年生きてる美女の姿をした神さま」 「いいわね、じゃあ今日はそれを演じましょう」 えりかはするっと立ち上がり、歩いたはずだった。 「えっ」 歩いたはずなのに、動きがぬるぬるとしていた。まるで下半身が軟体動物か何かになったように。たっぷりとしたロングスカートの下、たしかに二本の足があるはずなのに、蛇がそろそろと移動するような動きだった。 えりかが髪を整え、黒のロングワンピース――幾重にも重なるドレープは優雅で、洗練された光沢はどこか官能的である。黒い生地にさらに黒い糸で細かく刺繍が施されており、どこか宗教的な趣きが立ち昇る――に着替えている間も、莇はずっとぽかんとしていた。 外はすっかり日が暮れている。 車に乗って移動している間も、莇はずっと隣のえりかを見つめていた。えりかはその視線に気づいていたけれど反応はせず、唇に笑みをたたえたまま、真っ直ぐに前を見ていた。その様が、本当に人外のようで怖くなる。 「ついたわ。莇、手を貸してくださる」 運転手がえりか側のドアを開けた。莇は車を降りて反対側に回り、えりかに手を差し出してぎこちなくエスコートした。白くて柔らかい手が重なり、莇の頬が赤くなる。えりかの華奢で鋭いハイヒールがカツンと音を立てた。 「坊、おかえり。えりかさん、お疲れ様です」 「え? 左京? あれ? ここ俺ん家じゃん」 「何言ってんだ、坊。寝ぼけてんのか」 珍しくきちっとスーツを着た左京が呆れたようにため息を吐く。 「えりかさん……騙したな」 「あら、人聞きの悪い。いつもの食事会じゃない。今日は吉兆の懐石だって……楽しみ、ね」 コロコロと笑うえりかに、莇はぐぬぬと唸った。でも、騙されたというのに、嫌な気分にはならなかった。女の手の上で転がされる歓びを享受するは男の本分であるからして。 表玄関から長い廊下を通って広間へ向かう。その間も、えりかは仙女を演じていた。するするとしなやかに歩くので、足音が聞こえない。莇はえりかの手を引きながら、不思議な気持ちでいた。いつもは嫌で嫌で仕方ない会合も、まあいいかという気にまでなっていた。 食事会はもう始まっているようで、襖の向こうでは賑やかな声が湧いている。 後ろを歩いていた左京が先回りし、床に膝をつけてから襖をスと開けた。広間のざわめきたちが、二人の姿を目にした瞬間、ぴたりと止んだ。 「ご機嫌よう、会長」 「……おめぇ」 「遅れてごめんなさいね」 「……なんか、雰囲気変わったな」 「そうかしら」 えりかと莇が喜久雄の隣に用意されていた席に座る間も、ざわめきの主たちは、みんな揃って阿呆みたいな顔をしてえりかを見ていた。 いかつい顔した下っ端が、酒とジュースと突き出しを運んでくる。それを丁寧に置き、えりかの顔を見て、やっぱり阿呆みたいな顔をした。 「えりかよオ、その顔でウチの連中誑かすのだけは辞めてくれよ」 「あら、美しいでしょう? 腕のいいメイクアップアーティストの作品よ」 「そりゃア……相当の、腕利きなんだろうな」 えりかは雅やかに頷き、そして莇に、いたずらっ子の顔で目くばせした。 広間に徐々に賑やかな雰囲気が戻ってくる中、莇は下を向いて必死に涙を堪えていた。
:愛らしい眩暈
(救済措置様に提出)
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