yume | ナノ




 七尾が光の中へ飛び出してくるのを、私は暗い群衆の中でただじっと見ていた。赤いロングウイッグと薄汚れた白の衣装が、照明の強い光をきらきらと反射している。
 息が詰まりそうで、ハンカチを口許にあてて必死に嗚咽を呑み込む。
 MANKAI劇場の椅子は、スプリングが古くて固い。この芝居を見終える頃には、おしりが痛くなってそうで嫌になる。



「えりかさん、来てくれたんスね」

 人がごった返すロビーには、興奮した声が渦巻いている。出演していたキャストに群がる人、物販に並びながら同行者と感想を言い合っている人。
 私は乾燥した喉を潤そうと、人混みから離れて自動販売機で水を買った。座った革張りのベンチがギッと軋む。
 ボロい劇場は建ててから一度も改修していないのだろう。どことなく埃っぽくて黴が匂いそうなカーペットに、長い間まともに使われていなかったことがうかがえる。粉塵舞う荒野が舞台のプログラムだったのもあって、身体中が砂っぽくなった気がした。
 つめたいペットボトルの蓋を開け少しずつ口をつける。喉を傷めないように口の中で少しあたためてから飲み込むのは、長年のクセだ。
 目をつむってさっきまで見ていた舞台を思い出す。GOD座とは比べものにならないくらい地味なプログラムだったけど、役者一人一人の熱と痛いくらいの純真さがよく伝わってきた。嫌な気分のまま見なければよかった。もうここへ来ることはできないのに、最初で最後のMANKAIカンパニーの公演を無駄にしてしまった。
 ――いや、私のプライドが許せる日がきたら……もしくは、また。
 いまだ演者の周りには人だかりができている。ロビーには熱気とにぎわいが溢れている。本当は会いたい人がいたけれど、やっぱりやめよう。手の中のペットボトルが揺れる。

「えりかさん、来てくれたんスね」

 手元がさっと翳って、衣装とウィッグと舞台化粧の独特な匂いが強く香った。
 七尾の顔は汗と溶けたファンデーションでぬらぬらとしている。チークを塗った肌が高揚した頬と相まって、酔っ払ったみたいに赤い。

「……見つかっちゃった」
「嬉しいッス。ちょっと話したいから端っこ行きましょ」

 舞台上ではたしかに溌剌とした少女であったのに、私の腕を掴んだ手は紛れもなく男だった。引っ張られて落としそうになったクラッチバッグをぎゅっと掴み直して、七尾に引き摺られるようにして着いて行く。

「わざわざチケット買ってくれたんスよね」

 向かった先は、物置へ続くひと気のない廊下だった。小道具や大道具が端に寄せてあってごちゃごちゃと狭い。

「あなたから送りつけられたチケットを使ったら、つまんなそうに観ていることバレちゃうじゃない」
「えりかさんつまんない舞台だと寝ちゃうから、わざわざ端っこの関係者席用意しといたのにいないんだもん。だから、来てくれててびっくりしたッス。すげー嬉しい。……元気ッスか?」

 透きとおったぴかぴかの瞳が私を覗き込む。元気じゃないよ。あなたがいなくなって、丞まで辞めてしまったGOD座は、私にとっては古くなってくすんだアクセサリーみたい。価値は充分あるけど、なんとなく身につけるのを避けてしまうような、そんな感じ。
 でもそんなこと言えない。

「元気だよ。元気じゃないように見える?」
「んーん。でも、ちょっと落ち込んでる? みたいに見えたから。この間公園の噴水のとこでストリートActやってたでしょ。たまたま通りかかって見てたんだ」

 ――ただひとり絶望し見捨てられている……この寂しい荒野に!
 ストリートActで演ったヒロインのセリフを思い出す。オペラを即興でアレンジしたものだったけれど、その時は上手く演じられなかった。ヒロインの気持ちは理解できるのに、役が身体に染み込んでこないみたいだった。私の演技に集まってきた人たちの反応は良かったけれど。
 スランプはもっと前から続いていて、煮詰まった稽古から抜け出してのストリートActだったから、自分をさらに追い込む結果になってしまった。
 ――私は死にたくないわ……愛しい人よ、助けて!
 私を助けてくれる人なんていないのに。ヒロインは恋人の腕の中で愛されながら死んでいく。

「……全然気づかなかった」
「人だかりできてたッスから。距離もあったし。なんか、ちょっと元気なさそうだなって思って」
「そうね……」
「でも悲劇のヒロイン演ってるえりかさんもメチャメチャよかったッス! 特にラストの――」

 豪華な衣装と派手な装置が、最高のカタルシスを生む脚本と魔法みたいな演出が、千の席を埋め尽くすお客さんたちの鳴り止まない拍手がフラッシュバックする。
 隣にはプリンスの衣装を身にまとった丞がいて、舞台袖では町人の格好をした七尾が興奮しきった目をして私を見つめている。ステージの真ん中で優雅なダンスを披露し、ドレスを翻すと、客席から甘くあついため息が漏れる。
 幕が降りて袖にはけると、七尾は一目散に駆け寄ってきて、他の団員を押しのけてタオルと水を差し出してくれた。それはプリンセスに恋する町人そのままで、私は小さな花束を受け取るみたいにしてにっこりと笑ってみせたのだった。
 あんなに慕ってくれてたのに、なんで私の前からいなくなったの。

「異邦人、結構アクション多いから、見たらスカッとするんじゃないかって思ったんスよ。どうでした?」

 スカッとするどころか、七尾が準主演で素晴らしい芝居をしているのを見せられて、心に淀んだ澱が溜まっていくような気さえしたのに。
 こんな狭くて古くて冴えない箱であんないきいきと芝居をしている七尾を目の当たりにして、あのバラ色の日々は帰ってこないのだと分かってしまった。

「まあ、気分転換にはなったかな」
「ほんとッスか!えりかさんの力になれたならよかった」

 太一が笑うと、周りの空気までぱっと明るくなるような気がする。かつての私の太陽。かわいくて、健気で、ずっと大切にしてしまっておきたかったのに。

「太一くん、そろそろ衣装脱がないと左京さんと幸くんに怒られるよ」
「はーい! 今行くッス!」

 薄暗かった廊下にさっと光がこぼれた。私と同い年くらいの女の人がドアから顔を覗かせてこっちを見ている。タチバナさん、だっけ。レニさんが何故か目の敵にしている。古参劇団の総監督って聞いてたから、思ったより若くてびっくりした。私にぺこりと頭を下げると、すぐに引っ込んでしまう。

「……じゃあ、帰るね」
「え〜、まだ話したいこといっぱいあるのに!えりかさん今日時間大丈夫ッスか?」
「……遅くならなければ」
「すぐ着替えてくるんでロビーで待っててほしいッス!」

 慌ただしく楽屋へ駆けて行った太一を見送って、私はまっすぐ劇場の出入り口へ向かった。これ以上今の七尾と話していると駄目になりそうだった。過去にとらわれてる私にとって、今の七尾は眩しすぎる。
 思ったより時間が経っていたのか、ロビーはさっきまでの熱気を残して閑散としていた。スタッフがちらちらと忙しそうにしているだけだ。
 毛羽立ったカーペットにピンヒールが沈んで歩きにくい。一歩一歩重い足を進めるごとに、七尾に引き止められるような気がしてくる。
 あ、雨降ってる。やだな、傘なんて持ってきてないし。すぐにタクシー捕まるといいけど。

「えりか、さん?」

 聞いたことのあるような声が私の肩をつついた。ゆっくり振り返ると、衣装を脱ぎ、メイクを落とした主演の人が、人好きのする笑みを浮かべていた。

「あ、ヴォルフの……伏見さん、だっけ」
「ええ。ご観劇ありがとうございます」
「……なにか?」
「太一のお知り合いですか?」
「まあ、昔、少しだけ」
「……」
「……」

 ドアのくすんだ金色のバーに掛けた手の行き場をなくしてしまう。予報になかった突然の雨が、この人を無視して扉から飛び出したい衝動を鈍らせていく。
 妙な間がいたたまれない。
 私はドアに背中をぴったりとつけて雨の音を聞いた。伏見さんは高い背を縮こませて困ったようにしている。
 さっきまで野犬みたいな目をして暴れ回っていたのに、ワイルドな荒々しい印象が変わってしまう。もう少し夢の世界にいたいのに。やっぱり舞台が狭いとプロ意識も育ちにくいのかしら。
 伏見さんは視線をうろつかせたのち、誤魔化すようにやわらかく笑った。

「すみません、引き止めて。……太一に会いに来てくれたんですよね。楽屋で嬉しそうに話してて」
「別に、会いにきたわけじゃあ……」

 楽屋での太一の様子が想像に容易くて暗澹とした気持ちになる。
 七尾にとって私は、いつまでも高嶺の花なのだろう。だから私が七尾自身に執着してるなんて考えもしない。
 私がどんな思いでここへ来たか、知ったらがっかりしてくれる?

「呪いをかけにきたの。GOD座を……私を捨てて、のびのび芝居をしてる七尾に」
「呪い……? 捨てるってそんな」
「たいした挨拶もせずに去ってしまった人って、案外心から離れてくれないものだから」

 七尾が私にかけた呪いを返しにきたの。
 背中越しに雨が強くなった気配がする。
 背の高い青年は、驚いたような、困惑したような表情をして固まっている。

「七尾に伝えてくださる? 町人が憧れたお姫様はもういないって、それで分かるはずだから」
「え」
「それじゃあ」
「待って、もうすぐ――」

 伏見さんの後ろに着替えを終えた七尾がちらりと見えた気がして、慌てて外へ飛び出した。引き止める声なんて聞こえないふりをしてドアを急いでしめる。

 一歩外へ出ただけで、激しい雨のしぶきがハイヒールとストッキングを濡らした。でもそんなの構ってられなくて夢中で走る。逃げるみたいに。
 すぐにずぶ濡れになって、スカートが脚に絡まった。転びそうになって速度を緩める。路地に入って息を整えると、なんだかおかしくなってきた。
 GOD座のトップまで登りつめた私が、アンサンブルですら埋もれかけていた少年に翻弄されてる。かけた呪いが七尾にちゃんと届いてるといいけど。

「明日は千穐楽……これで、やっと」


:白くて甘い懺悔

(救済措置様に提出)
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