一日中太陽の光をたっぷりと浴びた校舎は、夕方になると吸収した熱をじりじりと放出しはじめる。建物全体が岩盤浴になったみたいで、埃っぽい空気が気持ち悪い。 明日から待ちに待った夏休みだ。だというのに、今私は伊弉冉くんと壁に挟まれている。これも壁ドンの一種なのだろうか。いきなりだった。階段をのぼっている途中でいきなり呼び止められて、壁に押し付けられた。ただただおどろいて、ぽかんと伊弉冉くんを見上げる。 外では蝉がわんわん鳴いていて、薄いガラス窓から射している夕日は刺すように熱い。話があるなら涼しい所で聞くのにと思いつつも、伊弉冉くんの奇妙な迫力に負けて何も言えずにいる。暑いし、帰りたいから早く解放してほしい。 伊弉冉くんは震える手で私の胸ぐらを掴んで私をにらんでいる。顔は涙でぐしゃぐしゃだし、時々えずいているから全く恐くない。でも、胸ぐらを掴んでいる手にだんだんと力が入ってきて苦しい。よく分からないけど、私を痛め付けようとしているわけではなさそう。
「ねえ」 「っひぃい!」
ため息と共にそう呟いた瞬間、伊弉冉くんは驚いた猫みたいに後ろにびょんと跳び跳ねて身体をこわばらせた。尋常じゃない様子にこっちがびっくりしてしまう。なんなんだ、本当に。
「あの、ここ暑いし、話があるなら移動しない?」 「え、あ……い、いや……」 「ほんとなんなの。何もないなら帰るよ?」
脂汗だらだらの伊弉冉くんほどじゃないけど、いい加減汗かいてきた。あと三十秒だけ待とうと腕を組む。 今日はバイトもないし、スタバに寄って新作のフラペチーノでも飲んで帰ろうかな。そう言えば駅ビルにいい感じの雑貨屋が新しく入ったって誰かが言ってたっけ。かわいい化粧ポーチがほしいから探してみよう。あ、彼氏と一緒に帰る約束してたの忘れてた。LINEしないと。……はい、三十秒。 ぶるぶる震えている伊弉冉くんを置いて階段を降りようとした時、ちょうど下から独歩がのそのそと上がってきた。自分の鞄と私の鞄を持っている。
「あ、独歩」 「えりか、おそい」 「ごめん。なんか伊弉冉くんに声かけられて」 「……一二三が?」
独歩が怪訝な顔をして階段の踊り場を覗きこもうとするのを、腕を掴んで制した。あんまり関わりたくない。
「なんでもないみたいだから。てか、伊弉冉くんと仲良かったっけ」 「小学校が一緒で」 「そーだったんだ」
鞄を受け取ってスマホを開くと、何件かLINEが入っていた。返信しながら下駄箱に向かう。
「ねースタバ行きたい」 「ああ、ピンクのやつ?」 「そうそう、今日からだって」 「ほうじ茶終わったんだっけ」 「多分」
ずらっと並んだ下駄箱はシンと静まり返っている。響くのは私と独歩の足音と話し声だけ。真っ赤な夕陽がいっそまがまがしくて、なんだかぞくぞくする。
「……一二三、なんて?」 「知らない、何にも言われなかったから。友達なら独歩からなんの用か聞いといてよ」 「LINEしとく」
ローファーを履いて校舎を出る。なんとなくさっきいた場所を見上げると、伊弉冉くんがこちらをじっと見ていた。 ーーああ、そういうことね。 じっとりとした視線に合点がいく。ほとんど女の勘だけど、たぶん当たってる。
「どうした?」 「んーん、なんでもない。いこっ」
独歩の腕に抱きついてもう一度振りかえると、もうそこに伊弉冉くんはいなかった。
:スローモーション・1
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