先生の髪が湿っていたから、今日は雨が降っていたのだと知った。先生のマンションは病院のように無機質で、生活感がまるでない。必要最低限のものしか置いていないここは外界から遮断されたみたいに静かだ。 大きな窓にかかっている遮光カーテンのすき間からは、シンジュクも、シブヤも、イケブクロも、ヨコハマも見える。中王区だけが灰色で、異様で不気味な壁はまわりに住む人間を威圧する。 夕陽が沈み、眼下のシンジュクは次々と夜の色を灯す。この空っぽの部屋に街の喧騒は届かないけれど、先生がいれば淋しくない。
「ただいま。変わりはなかったかな」 「おかえりなさい。うん、何も」
先生は冷えた手で清潔なシーツにくるまってうとうとしていたわたしの首を撫でた。長く美しい髪がさらりと降ってきて、そこからかすかに煙草の匂いがした。先生は、患者が死ぬと煙草を吸う。
「また、許されなかったの?」
先生の大きくて長い指を口に含んで甘噛みする。乾燥した手のひらに鼻をこすりつけると、先生は動揺したように視線を彷徨かせて、あいまいに笑った。泣きそうな、困ったような笑み。
「えりかさんはなんでもお見通しだね。……勝手に私が思い詰めてるだけだよ」 「分かってるなら自分を責めるのはやめて。先生はなにも悪くないのに」 「……まだ学生だった、未来があった。……私なら、助けられたかもしれないと、考えてしまうんだ」
長い脚から力が抜け、ずるずると床に座り込む。先生はわたしにすがりつくみたいにしてそっと涙をこぼした。泣きわめくでもなく、静かに静かに懺悔する先生は、わたしを聖母だとか釈迦如来だと思っているのだろう。 普段神様のように慕われている先生は、その信仰だとかプレッシャーをわたしに受け流す。ただの人間である先生にとって、それは一人で抱え込むには重すぎるのだろう。 懺悔の相手は、わたしじゃなくてもいいんだと思う。牧師でも、仏像でも、アイドルでも、テディベアでも、先生が信仰できるものなら、なんでも。
「……ありがとう」
患者一人の死に引きずられてしまうのは、プロフェッショナルではないと先生は言う。だから、外では柔和な笑みをたたえてそれを崩さない。 “虫も殺さない仏のような神宮寺寂雷”であるために、どれほどのものを犠牲にしてるんだろう。
先生はわたしの鼻先をくすぐり、頭から肩甲骨をやさしく撫でてくれる。 昼間、丁寧に手入れをしたこの真っ白な美しい毛並みが少しでも先生を癒せるのなら、どんなに幸福なことだろう。
:箱の中
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