yume | ナノ




 世間に顔向けできないようなことはするな、が口癖の両親に育てられ、ずっと常識からはずれない生き方をしてきた。
 学生時代はずっと学級委員だったし、中高生の時は生徒会長まで経験した。ガリ勉タイプとはすこし違うが、品行方正でとくに大人に好かれる子供だったと思う。
 大学ではまわりから浮くくらい勉学とアルバイトに励み、先輩や友人、異性からの甘い誘惑をのらりくらりとかわしながらハメをはずすことなく過ごした。
 就活にも成功し、倍率の高い中王区の大企業に入社して数年、今ではかかとの高い靴をカツカツ鳴らしながら働いている。

「ただいま〜」

 一人暮らしの暗い部屋は、昼間は窓を閉めきっているせいでぬるいような埃っぽい空気が充満している。
 もしここが中王区のマンションだったら、窓を開けたまま外出しても泥棒に入られる心配はないのに。とはいっても、壁の中の物件は家賃が恐ろしく高いうえに、住むにはさまざまな条件をクリアしなければならない。結局中王区に住めるのは、官僚とか企業の重役だけ。わたしのような一市民は中王区外から通うしかない。
 シブヤは粗暴な男たちも住む街だけど、ほかよりは治安がいいから一人暮らしの女でもわりと安全に過ごせる。

 スーツを脱ぐのもそこそこに、冷蔵庫を開けてよく冷えた缶ビールを取り出す。キッチンで仁王立ちのまま半分ほど喉に流しこむ。
 っはー。最高。疲れた体にうすいアルコールが沁みる。
 リビングに入って手探りで明かりをつけると、まあまあ荒れた部屋がお出迎えしてくれた。仕事にかまけて家事をおろそかにしていたツケが、いたるところに散乱している。
 いや、いいんだ。明日は土曜日。掃除洗濯は早起きしてまとめてやればいい。
 スーツを脱いで、夜会巻き風にまとめていた髪を下ろす。使い捨ての安いストッキングを中身があふれそうなゴミ箱に投げ入れ、だいぶ前に別れた元彼が置いていっただぼだぼのスウェットに脚を通す。キャミソールは着たままブラジャーだけ脱ぐと、やっと一息つけた。

 面白くもない深夜番組を見ながらビールをすする。シンジュクの裏通りにある定食屋のビッグサイズの中華丼を、細身の女の子がもりもり食べている。とても美味しそうには見えないけれど、お腹がきゅるきゅると鳴ってしまう。お腹空いたな、でも作るの面倒だと悩んでいると、滅多に鳴らないインターフォンがけたたましく鳴り響いた。
 こんな時間にこんな不躾なことをする人物は一人しか知らない。

「はい」
「俺ー!ダイス!開けてっ!」

 受話器にわんわん響く声は、思った通りの人物だった。人を上げるには散らかりすぎているけれど、こいつならいいか、と玄関に向かう。
 お父さんお母さんごめんなさい。娘は都会に揉まれた結果、若い年下の男を下着姿で出迎える女になってしまいました。

「よかった〜いたあ!神様仏様えりか様!お願いです今日泊めてくださいいいっ!」
「うるさい」
「あざっす!」

 妙に汚れた格好をした帝統は、自分の家のようにずかずかと上がり込んでくる。勝手に冷蔵庫を開け、勝手にビールを飲むけど、わたしはとがめることはしない。

「なんでそんな薄汚いの?」
「こないだ有り金全部スっちゃってよお、とりあえずタネ銭作んなきゃって思ってここ一週間くらい現場の仕事してたんだよ」
「ふぅん。なんか土っぽいしとりあえずシャワー浴びたら?」
「そぉする。えりかさんも一緒に入る?」

 シャツの襟で乱暴に口をぬぐってにかっと笑う。

「あんたと入ると余計汚れそうだからやめとく」

 一年前に近所の居酒屋で出会った帝統は、お金が無くなるとたまにうちにくる。わたしのほかにも同じような女の人が何人かいて、色々な所を転々としているらしい。
 飼われてるのか飼われてないのか分からない野良猫のようだと思う。人懐っこい笑顔でいつの間にかに懐に入ってくるから拒否する間もない。すこし強引なのは否めないけど。

 風呂に入ってから十分もかからずに風呂場のドアが開く音がした。
 名前を呼ばれたから脱衣場に行くと、帝統は全裸のまま、局部を隠すでもなく髪を乱暴に拭っていた。何回も見てるけど、少しは恥じらいを持ってほしい。
 中途半端に開いていた浴室のドアを少し閉める。

「なー、着るモン貸してくれ。洗濯したい」
「……パンツはその棚に入ってるから適当に探して適当に取って。元彼のお古だけど。ズボンは……あ、帝統が着られるサイズのやつコレしかないや」

 今わたしが着ている元彼のスウェットをつまむと、浴室から顔を出した帝統がそれでいーよと何の気なしに言うから、その場でズボンを脱いで差し出す。ついでに、部屋のはしに積んであった服たちの中からサイズの大きいティーシャツを探して渡す。

「おー、サンキュ」
「わたしもシャワー浴びる」
「ん」
「お腹空いたから適当にデリバリー頼んでおいて。財布は鞄の中にあるから。帝統も頼んでいいよ」
「マジぃ?やった」

 シャワーを浴びて風呂から出ると、部屋から帝統が消えていた。コンビニでも行ったのかなと思っていると、すこし隙間の開いたバルコニーに繋がる窓から煙草の匂いのする風が吹きこんで、カーテンが大きくふくらんだ。シブヤの夜景を背負った帝統がこちらを振り返ってゆるく笑う。

「すっぴんのえりかさん、なんかエロいな」
「髪乾かさないと風邪引くよ」
「ウン、これ吸ったら乾かす。えりかさんも吸う?」
「一本頂戴」

 くしゃくしゃになったソフトケースから煙草を一本抜き取る。曲がって葉っぱがすこし落ちたラッキーストライク。口にくわえるとすぐに帝統が火をつけてくれる。
 湯上がりの肌をするするとなでていく夜風が心地よい。帝統と肩をならべ、同じシャンプーの匂いをさせながら、つまらない景色を眺めている。
 明確に言葉にはできないけれど、なんか、いいなと思った。わたしの人生にとって帝統は完全なるイレギュラーで、それをなんでもないことのように受け入れている自分。

「メシ、チラシあったからバーミヤンにした」
「ちょうど中華食べたかったんだよね。さっきテレビで中華丼やっててさ」
「マジ?俺中華丼頼んだから半分こしよ」
「ん、ありがと。エビチリ頼んだ?」
「もち!明日休み?」
「休みだよ。掃除と洗濯しなきゃ。そろそろエアコンのフィルターも洗わないとなあ」
「手伝う、てか俺やるよ。一食一飯のお礼」
「結構溜まってるよ」
「え〜?全然キレイじゃん」
「でも休みの日にやっちゃわないと」
「キャリアウーマンって大変だな」
「キャリアウーマンなんて言葉久しぶりに聞いた。中王区だとバリバリ働いている女が普通だから」
「そっか。中王区ってどんなトコ?」
「きれいな街だよ。オフィスビルばっかりだけどね。セキュリティ万全で治安がいいから夜中でも女が安心して歩けるし、街並みもお金かけてるなぁって感じかな」
「ふうん。そーいや俺、来月のテリトリーバトルにシブヤ代表で出ることになった」

 遠くのほうで、バイクのエンジン音やクラクションの鳴る音が響いている。

「―――は?」
「応援きてよ。Fling Posseってゆーんだ」

 テリトリーバトル?帝統が?なんで。
 訊きたいことがありすぎて、喉の奥で言葉がつまる。何て言おうか迷っているうちに、帝統は短くなった煙草をビールの空き缶に捨てて部屋の中に戻ってしまった。わたしもあわてて火を消して、帝統の後を追う。
 部屋に入って、テレビのリモコンをいじっていた帝統のたくましく日に焼けた腕を掴む。帝統はしょうがないなあみたいな顔をしてわたしの頭をなでた。

「なんでえりかさんがそんな顔するの」
「だって……」

 だって、何だろう。
 何年か前に、同僚に誘われてテリトリーバトルの観戦に行ったことがある。武力が根絶されたこの世界で、あれは確かに戦争だった。権力者に完全にコントロールされた戦争。狂ったように盛り上がる会場は異様でしかなく、その空気になじめなかったわたしは、それ以来一度もテリトリーバトルを観戦していない。
 あの時見た光景がフラッシュバックする。勝者も敗者もボロボロだった。彼らになんの志があってヒプノシスマイクを握っているのか、心底理解できなかった。
 主催も観客も、舞台に立っている男たちをゲームのコマくらいにしか思ってない。テリトリーバトルなんて、同じ籠に虫を入れて殺し合いをさせる遊びくらいの感覚だろう。
 あの、四方を無数の好奇の目に囲まれた場所に帝統が立つ……?

「俺なら大丈夫。修羅場なんて今まで散々かいくぐってきたんだぜ?えりかさんが心配するほどヤワじゃねぇよ」

 にかっと笑う帝統の顔を見ていると、言いたいことも訊きたいこともすべて霧散してしまう。
 だって、わたしは帝統のなんでもない。友達でも、恋人でもない、ただたまにご飯を食べたり寝たりするだけの関係でしかない。
 本当は、泣きわめいてでも止めたいのに。

「……そう、だね。うん、応援、行くよ」

 垂れ落ちそうだった涙を拭ってそう言うと、帝統の熱い身体にぎゅうぎゅう抱きしめられた。わたしも力一杯抱きしめかえす。
 帝統が、帝統のチームが負けませんように。

「ありがとな。俺、えりかさんのそゆとこ大好き」
「また適当なこと言って。ほら、髪乾かして、宅配きちゃうよ」
「ハラ減った〜」

 少し、帝統の生き方がうらやましくなった。どこまでも自由で、何者にもとらわれない。無秩序な街をひらひらと渡り歩き、あちこちでお日さまみたいなオーラを振りまいて人を魅了していく。本人の知らないままに。
 わたしがもう少し感情的な人間だったら、この気持ちをいきおいのまま伝えることができたのだろうか。

 夜のニュースが、全国の天気予報を流す。東京は明日から本格的に暑くなるらしい。

「午前中はエアコン掃除だな!」

 わたしの部屋のエアコンの掃除をしている帝統の姿を思い浮かべる。それはとても幸せな光景で、なんだか無性に淋しくなった。


:drown in the shallow
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