yume | ナノ




 都心の混沌も喧騒も、この部屋からはすべてが見渡せる。街が昼から夜の顔に変わっていき、グロテスクできらびやかな新宿が姿をあらわす。
 突然、暴力的な悲しみに襲われるときがある。黒い暗幕のようなものに頭のてっぺんから足の先まですっぽりとおおわれ為す術もない。悪い夢を見ただけだ。寒くもないのに震える身体を抱きしめる。寂雷先生の匂いのする毛布にくるまれば逆立った心もすこしは落ち着くかと思ったけれど、余計さみしくなって、ただただ涙が出てくるだけだった。
 こんなときはどうしたらいいんだっけ。どんどん浅くなる呼吸。パニックになった頭で必死に考える。そう、先生にもらった薬があるじゃないか。どんなときに飲むんだっけ。忘れた。でも先生が処方してくれた薬だから、きっと助けてくれる、はず。かばんをひっくり返して、震える手でポーチを乱暴にあさる。ショッキングピンクのポーチから化粧品がぼとぼと落ちて、涙でゆがむ視界のはしでチークが割れて飛び散った。掃除しなきゃ、先生の部屋を汚しちゃう。でも、その前に薬を飲まなきゃ。
 ピルケースには何種類か薬やサプリメントが入ってるけど、それが何かを考える余裕はなくて、全部左手に出して一気に口に放りこむ。緊張してるせいか口の中は渇いてて、一向にそれらを飲みこめない。早く飲まないといけないのに。吐きそう。
 もつれる足を必死に動かし、キッチンへ向かう。水栓レバーを上げ、シンクに顔を突っこんで、手で直接水を飲む。勢いがよすぎて足元にびちゃびちゃと水がこぼれるけど気にしていられない。溺れそうになりながらも、かたまりになった錠剤やカプセルたちが喉を無理やり通っていく。
 吐きそう。えづく口を両手で押さえてやりすごす。涙が止まらない。先生助けてと願ったとき、玄関の開く音が聞こえて、廊下がふっと明るくなった。

「……えりかさん?」
「ぜん、ぜんぜぇ……」

 先生は、無様に顔をぐちゃぐちゃにしてるわたしを見下ろしてそっと息を飲んだ。きっとあきれてため息を吐きたかったんだと思う。先生は優しいから、ため息がわたしを追いつめると思ったのだろう。もう、こんなにも苦しいのに。先生は絶対にわたしを突き放してくれない。

「ゆっくりでいいから答えなさい、何を飲んだんだい?」

  シンクにすがりついてへたりこんでるわたしに、先生はつとめてやわらかい声色で問いかける。頭の後ろのほうで響く低くやわらかい声。
 何を飲んだ?わからない。頭の中は真っ黒で、伝えたいことはいっぱいあるのに、すべてが濁流のように喉で絡まってしまう。

「……ひっ、く、……う、ごめんな、さ……」
「謝らなくていいんだよ。大丈夫、大丈夫。辛かったね、帰りが遅くなって悪かったね」
「ちが、くて、う、うえぇ、」

 息を吸って、吐いて。もう一度。吸って、吐いて。
 先生のおおきくてあたたかい手がわたしの背中を撫でてくれる。震える手でピルケースを指さすと、先生はふむ、と言ってわたしの頬をぬぐった。

「お酒は飲んでない?」
「……飲んでない」
「ここに入っていた薬以外は?」
「……飲んでない」

 なら大丈夫、と言ってわきの下と膝裏をすくって抱き上げられた。急に襲った浮遊感にびっくりして、思わず先生のシャツにすがりつく。柔軟剤のやわらかな香りのむこうに一日働いた男の匂いを感じて、それはわたしをどこまでも安心させる。神様のような人の、無防備な人間味。

「もうじき薬が効いてくるだろう。少し横になって、落ち着いたら食事にしようか」

 先生はリビングのふかふかのソファにわたしを下ろすと、キッチンの横に放置していた鞄とビニール袋を拾いに行った。そばに積まれていたタオルをたぐりよせ、いまだ嗚咽と涙の止まらない顔をうずめる。
 先生はなんでこんなわたしにやさしくしてくれるのだろう。何回か訊いたことはあるけど、ずっとはぐらかされ続けている。
 なんで精神安定剤と偽ってわたしに糖衣菓子をあたえるのだろう。本物の薬っぽくPTPシートに包まれたものを、わざわざ。
 ばかみたい。ただのお菓子を薬だと思いこんだふりをし、口いっぱいにそれらを詰めこむわたしも、そんなわたしに医者みたいな振る舞いをする先生も。
 狂ったふりをしていたら、本当に狂ってしまいそう。

「この間えりかさんがおいしいって言ってたチキンサラダを買ってきたのだけれど……食べられる?スープと果物もあるよ」

 キッチンからくぐもった声が聞こえる。濡らした床を拭くためにかがんでいるのだろう。

「食べるっ」

 ぞんざいに答えて、あんなに波立っていた気持ちがうそみたいに落ち着いている自分に絶望する。さっきまで嵐のようにわたしをかき乱していた悲しみは確かなのに、もう思い出すのも難しい。
 それは先生が魔法をかけた糖衣菓子のせいなのか、先生の深海に揺蕩う光のような声のせいなのか。
 ぎゅっと目をつむる。あつい涙が顔を覆うタオルに吸い込まれていく。

「さあ、こちらへ来て。夕飯にしよう」

 先生がわたしを生かし執着を辞めない限り、この夢はまだ醒めないのだろう。
 美しくも残忍な甘い毒のようなその人は、幸せそうに笑ってみせた。


:それはなんて美しい悪夢



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