純全たる誠実に次ぐ | ナノ

「マードレ、朝だよ。ちょっと早いけど、起きて」

聞こえた声に、要はぼやけた思考になんとか鞭打ち、起き上がることにする。ぺちぺちと頬を叩かれて、要はその長い髪を掻き上げて、ようやく目を開いた。時計は朝の6時を差している。

「典明は……」
「パードレなら、朝ごはんを作ってもう仕事に行った」
「……」

そういえば、昨日の夜。明日は早いんだ、と困ったように笑いながらに言っていたかもしれない、と思い出して、しまった、と隣を見やれど、既にその影も形も無い。視界のど真ん中を陣取る初流乃を一度ぎゅっと抱きしめて、眠気をなんとか振り払う。そのまま立ち上がれば、恥ずかしいのか初流乃はもぞもぞと要の腕の中であばれた。ユノーが要の影から現れて、初流乃を要から取り上げる。傍目から見たら宙に浮いているだろう彼に、要はくすりと笑い声を漏らした。

「なんか言ってた?」
「いいえ。でもちょっと、寂しそうだったかな」
「そう」
「まったく今日は日曜だっていうのに、パードレも大変だね」
「仕方ない、財団の仕事なんだから」

彼らの急用には、もうこの二人は慣れきっているようだと初流乃は小さく肩をすくめる。彼がこの二人の子どもになってからもう三年ほどが経つが、二人がそれについて不平を垂れるといった姿を見たことはなかった。
三年と少し前、自分がイタリアに引っ越してしばらく経った時に、初流乃はこの二人と出会った。ちょうど彼らは旅行に来ていただとかで、それは偶然の出会いだったと言えるだろう。彼はちょうど、ある冬の日に、新しい父親にさんざ暴行を加えられた挙げ句、外に裸足で閉め出されていた。再婚するにあたって邪魔だからと母から譲り受けた、彼の本当の父親の写真が入れられた写真立てだけを手の中に、凍りついてしまうんじゃないかと思うくらいに冷たい道路の上に座っていたのを憶えている。

「君、裸足だけど、どうかしたのかい?」

思いもかけなかったその声に、びくりと肩が震えた。それまで踞っていた初流乃は、目線を上に上げる。アシンメトリーな前髪が特徴的な優男が、不思議そうに自分を見つめていた。

「髪が黒かったから、アジア人じゃないかと思って話しかけてみたんだ。やけに薄着だから、気になってね」
「えっと…」
「ああ、やっぱり。日本人なんだね」

僕も同じ、日本人なんだ。優男はにっこりと笑ってみせた。人当たりのよさそうな、優しい笑顔だと思う。するとちょうど彼の後ろのカッフェから、黒いロングコートを着た金髪の美女がやってきて、無表情のまま、持っていた紙カップを初流乃に差し出す。甘い匂いがした。

「子どもがこんな時間に、どうしたんだ。危ないだろう」

性格のキツそうな紅い瞳の女性だったが、とても流暢な日本語に、初流乃は驚いたように目を見開いた。

「ほら要、君が無表情なもんだから、怖がってるだろ」
「うるさい、この顔はもともとだ。だから花京院が先に話しかけろと…」

困ったように眉を寄せる。要というのがこの女性の名前なのかと思って、初流乃は差し出されたカップを小さく礼を言って受け取った。中身はホットココアで、喉を伝って温かみが体に行き渡るのを感じた。

「僕の名前は花京院典明。で、こっちは二階堂要。僕たちは旅行でイタリアに来てたんだけど、君は?この辺りに住んでるのかい?」
「ぼくは…」

知らない人に声を掛けられても、付いていってはだめ、という少し前に日本の小学校で習った言葉が脳裏に浮かぶ。その時。言いよどんだ初流乃が持っていた写真立てに気づいて、何気なく目をやった二階堂は小さく息を呑んだ。

「おい小僧、お前…これを、どこで手に入れた」

肝の冷えるような声色に、初流乃は思わずココアを取り落としそうになる。花京院がすかさず押さえたから、熱いココアが彼にかかってしまうなんてことはなかったが、花京院は二階堂の手に取った写真に同じく驚いているようだった。

「それは、ぼくの、お父さんで、あ、でも…今のパーパァとは、違うんですけど…」

たどたどしく、裸足の足先を見つめながら初流乃は言った。二人は顔を見合わせて、二言三言英語で何か交わしたあと、花京院は初流乃にやさしく笑いかけて言った。

「僕たちは、その写真の人をよく知ってる。もしよかったら、少しの間でいい。僕たちと一緒に来てくれないか?君のお父さんやお母さんには、僕から言っておこう」

差し伸べられた手をどうしよう、と思いながら、初流乃はちらりと二階堂の顔を伺った。赤い瞳が、その金髪が、どうにも写真の中の父親に似ているような気がして、生唾を飲み込む。最初から、答えは出ていたのかもしれない。初流乃は黙って頷いていた。



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